フェデラー伝説 1-1


 ルネ・シュタウファー(Rene Stauffer)著『ロジャー・フェデラー(Roger Federer Quest for Perfection)』第1章(Chapter 1)。

  誤訳だらけでしょうが、なにとぞご容赦のほどを。

  第1章は、ロジャー・フェデラーの両親、ローベルト・フェデラーとリネット・デュランの履歴を簡単に記した後、ロジャー・フェデラーの子ども時代について紹介しています。(注:ロジャー・フェデラーの父、Robert氏の名前はどう発音するのが正しいのか分かりません。"Federer"はドイツ系の名字であることは確からしいので、とりあえず「ローベルト」にしておきます。)

  あくまでロジャー・フェデラーの伝記なので、その両親の経歴については手短かに述べるのは当然としても、どうもフェデラーの両親は、自分たちのことについては、あまり詳しい話をしなかったのではないかと思える節があります。

  フェデラー母のリネットさんはそれでも率直に物を言うタイプのようですが、問題はフェデラー父のローベルト氏。ローベルト氏は寡黙なタイプらしい上に、更に自分に関する話となると、喩えや曖昧な表現を用いることが多く、何を言いたいのかよく分かりません。ローベルト氏は、ツッコめばかなり面白い人物なのではないかと思います。

  ロジャー・フェデラーの顔は、父親のローベルト氏と瓜二つで、特に眉と目もとはそっくりです。親子とはいえあまりに激似なんで、最初にローベルト氏を見たときには噴き出してしまいました。そのローベルト氏は現在60代半ばながら、髪はロマンスグレーのフッサフサです。だから、おそらく息子のロジャー・フェデラーもハゲることはないと思われます。ファンのみなさま、ご安心あれ。


   ・ロジャー・フェデラーの父、ローベルト・フェデラーはスイスのベルネックの出身で、繊維労働者の父と専業主婦の母との間の子として生まれた。20歳で故郷を離れてバーゼルにたどり着き、バーゼルを本拠地とする大手製薬会社のチバ(現ノバルティス)の研究所に就職した。
   ・4年後の1970年、ローベルトは「放浪癖の衝動に駆られ」、スイスから離れて外国に移住する決意を固めた。ローベルトは移住先としてたまたま南アフリカを選んだ。当時、南アフリカはアパルトヘイト下にあったため、ローベルトは比較的容易に移民ビザを取得することができた。(←ヨーロッパ系白人であったので。) ローベルトはヨハネスブルク郊外のケンプトン・パークにあった、チバ南アフリカ支社に再就職した。

   ・ローベルトは職場で、秘書として働いていた18歳のリネット・デュランと出会った。アフリカーンス語がリネットの実家の農園で話されており、リネットの父は現場監督、母は看護師であった。(←リネット・デュランは典型的なアフリカーナーであったということ。) しかし、リネットは英語で授業を行なう学校に進学し、できるだけ早くヨーロッパに移住するための貯金に励んだ。リネットはイギリスに移住したいと考えていた。

   ・ローベルト・フェデラーとリネット・デュランは交際を始めた。ローベルトは南アフリカに移住してから趣味でテニスを始め、リネットもローベルトと一緒にテニスを楽しむようになった。ローベルトとリネットの交際は順調で、アパルトヘイトに影響されることはほとんどなかった。


  ロジャー・フェデラーの両親、ローベルト・フェデラーとリネット・デュランについてまず分かるのは、彼らはともに労働者階級、しかも昔の言い方だと「ブルーカラー」の家庭の出身だということです。そして、ともに自身が生まれ育った、社会的・地域的・人種的・民族的コミュニティにまったく執着していなかった、むしろそこから離れたがっていた点でも共通しています。

  「アパルトヘイトが彼ら(ローベルトとリネット)に影響を及ぼすことはほとんどなかった」とは、何を意味しているのか分かりません。ヨーロッパ系白人であるローベルト・フェデラーと、当時の南アフリカで、イギリス系白人と微妙な関係にあったアフリカーナーとはいえ、同じく白人であるリネット・デュランとが交際することは、アパルトヘイトの諸々の法律に別に抵触しなかったと思うのですが。


   ・1973年、ローベルト・フェデラーはリネット・デュランを連れて、スイスのバーゼルに戻った。なぜスイスに戻ったのか、ローベルトはその理由をうまく説明できず、「渡り鳥が故郷に帰るような感覚を抱いたのです」と言うだけだった。
   ・バーゼルに戻ってからも、ローベルトはなぜ南アフリカに留まらなかったのか、と自問自答し続けた。というのは、リネットが、スイスという地域とスイスの人々の狭い物の考え方に、やりにくさを感じていることを知っていたからである。しかし、リネットは「急速に適応することができました」と振り返る。


  フェデラーの両親に関する記述はここで終わっています。結局、南アフリカで何かあったのか、フェデラー父のローベルト氏がなぜバーゼルに戻ったのかは明記されていません。ただ、フェデラー母のリネットさんが、スイスという慣れない外国の土地でかなり苦労したことがうかがわれるのみです。

  また、とりわけローベルト氏が、依然として祖国だの故郷だのに執着しない考えの持ち主だったことも分かるし、祖国に対して嫌悪感さえ抱いていたんじゃないかという印象を受けます。理由はまったく分かりませんが。

  ローベルト氏とリネットさんのこの傾向は以後も変わらなかったようで、10数年後には「フェデラー家オーストラリア移住計画」が持ち上がります。ローベルト氏がチバのオーストラリア支社に赴任したのにともない、家族がオーストラリアに旅行に行ったら楽しかったから、というだけの理由で。

  しかし、テニス選手として専門的な訓練を受けていた最中だった息子のロジャーのことを考えて、「フェデラー家オーストラリア移住計画」は白紙に戻されました。


   ・ローベルト・フェデラーとリネット・デュランは正式に結婚し、1979年に娘のダイアナが、1981年に息子が生まれた。息子はロジャーと名づけられた。ロジャーと名づけたのは、英語でも発音しやすいようにという理由からだった。両親は、英語で発音しやすい名前であれば、彼らの息子の将来にいつか役立つかもしれないと考えた。「フェデラー」という姓は、スイスでも非常に珍しいからである。


  しかし、ローベルト氏とリネットさんの傾向からすると、「フェデラー」という名字が珍しいから、ファースト・ネームを英語風の「ロジャー」にしたというよりは、いかにもドイツ風な名前を避けたからではないか、と思います。お姉さんの名前「ダイアナ」も世界中にある普遍的な女性名ですしね。

  スイス人であるローベルト氏は、南アフリカ人であるリネットさんと結婚しました。二人が交際を始めてから9~10年後の1979年、ようやく長女のダイアナさんが生まれています。

  ロジャー・フェデラーも、スイス国籍とはいえ、スロヴァキアからの移民であるミロスラヴァ・ヴァヴリネック(ミルカさん)と結婚し、ミルカさんと交際を始めてやはり9~10年も経った後、やっと子どもをもうけました。

  親子といっても、こんだけやることがそっくり似てるというのは面白いですね。意識的なものであれ、無意識的なものであれ、やっぱり親の影響というのは大きいんだなあ。

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