闘う白鳥、逝く


  マイヤ・プリセツカヤが5月2日にドイツで急逝したそうです。享年89歳。

  自伝『闘う白鳥』(文藝春秋社刊)には、彼女の壮絶な半生が綴られています。舞台や映画で見せていた美しい踊りからは想像できない、体制(旧ソ連政府)との闘いの日々。

  また、自身が属していたボリショイ・バレエのダンサーたち、更に旧ソ連の世界的な名だたる芸術家たちが、実はソ連政府からどんな扱いを受けていたのかも、生々しいエピソードとともに記されています。

  最も印象的なのは、ボリショイ・バレエがアメリカ公演を行なっていたときの、ダンサーたちの給料と食事に関するエピソードです。ダンサーたちに支払われる給料はわずかな上に、更にそれをソ連政府の役人たちがピンハネする。毎回の食事代はダンサーたちの自己負担で、ソ連より物価の高いアメリカでの食事代が払えず、食事を摂らずに栄養不良で倒れるダンサーたちが続出し、果てに、ダンサーたちは安くて栄養価の高い犬用のペットフードを食べて舞台に立っていた…。

  プリセツカヤは父親が政治犯として処刑されたこと、母親も連座して流刑に処されたこと、親族がアメリカに亡命していたことで、海外公演に参加することを長いあいだ許されませんでした。やっと参加できたアメリカ公演では、身辺にソ連当局の監視役が常時つきまとい(亡命を阻止するため)、出演料の中からソ連政府に対する巨額の上納金を課されます。

  しかし、そんな状況下でも、プリセツカヤは海外公演に参加するたびに、アメリカ、イギリス、フランスなどの有力者や著名人たちと個人的なコネクションを築き上げ、それを武器にしてソ連当局の圧力と不当な仕打ちに対抗します。イギリスでは、イギリス政府職員やマーゴ・フォンテーンの協力によって、ソ連当局の監視の目をかいくぐり、亡命していたルドルフ・ヌレエフとの面会もやってのけます。

  ソ連国内でも、事あるごとにプリセツカヤは当局と衝突してばかりでしたが、自分に味方してくれる数少ない政治家、官僚、芸術家たちの助力を受け、また厖大なファンと観客の圧倒的な支持をバックに、自分のダンサーとしての野心を実現するために努力し続けました。当局との一連のやり取りやせめぎ合いの詳細も赤裸々に描かれており、旧ソ連下での芸術家の立場が知られます。

  プリセツカヤはキューバの振付家アルベルト・アロンソ、夫である作曲家ロジオン・シチェドリンとともに、一幕物バレエ『カルメン組曲』を作り上げます。ソ連と同じ社会主義国家のキューバ人であるアロンソは、プリセツカヤが置かれていた状況をよく理解していました。アロンソが設定した『カルメン組曲』のテーマは、自由のない、抑圧された状況下にある人間が、その中で個人の意志をいかに貫いていくか、ということでした。

  制限され抑圧された環境の中で、人はどれだけ自分の意志を貫きとおすことができるか。『カルメン組曲』のこのテーマは、そのままプリセツカヤの生き様でもあったのです。

  100歳くらいまでは元気で生きてくれると思ってたんだけどなあ…。今晩はプリセツカヤの踊る映像を観ようと思います。

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