「聖なる怪物たち」(12月1日)-1


 「聖なる怪物たち」(12月1日午後3時-4時15分、於ゆうぽうとホール)

   振付:アクラム・カーン、林懐民(ギエムの第1ソロ)、ガウリ・シャルマ・トリパティ(カーンの第2ソロ)

   音楽:フィリップ・シェパード、イヴァ・ビトヴァー、ナンド・アクアヴィヴァ、トニー・カサロンガの歌より

   照明:ミッキ・クントゥ
   装置:針生康
   衣装:伊藤景

   構成:ギィ・クルーズ

   ヴァイオリン:アリーズ・スルイター
   チェロ:ラウラ・アンスティ
   パーカッション:コールド・リンケ
   ヴォーカル:ファヘーム・マザール、ジュリエット・ファン・ペテゲム


   ダンサー:シルヴィ・ギエム、アクラム・カーン


  2か月ぶりの舞台鑑賞です。リハビリ(?)には最適な舞台でした。短くてすぐ終わり(休憩なしの75分)、構成はシンプルでたわいなく分かりやすかったです。

  しかし、ギエムが出ずっぱりの演目、日曜日の昼の公演、しかも楽日なのに、観客の入りが良くなかったので驚きました。1階席後方はガラガラ、前方にも空席がちらほら見られました。どーりでNBSの公演にしちゃ珍しく、良い席をもらえたわけだよ。売れ行きがあまり伸びなかったんだな。(それとも最初からわざと売らなかったとか?)

  まず文句からいきましょ。「箱」が大きすぎです。この作品は小~中規模のホール、シアター・コクーン、新国立劇場中劇場、東京芸術劇場中ホールみたいな会場のほうが向いています。しかも演者と観客との距離がほとんどないような、たとえば凸型などの舞台にすれば、もっと見ごたえがあったはず。

  ここはひとつ、佐々木忠次氏が新国立劇場に土下座(笑)して、中劇場を貸してもらえばよかったのに。

  もちろんこれは冗談。採算をとるために、客はなるべくたくさん入れたほうがいいから、大きくて安く借りられるゆうぽうとホールにしたんでしょ。このご時世では仕方ないですね。

  会場売りのチケットも、パリ・オペラ座バレエ団公演(『椿姫』、『ドン・キホーテ』)と東京バレエ団公演(ノイマイヤー版『ロミオとジュリエット』)のみとちょっと寂しい。購入している人もほとんどいなかったような…。世の中の実情はやはり不景気なのだと実感(今回は休憩時間がなかったせいもあるでしょうが)。

  いわゆる「アベノミクス」による「経済成長」の基本的な実態は、徹底したコストカットで増益したように見せかけてるだけで、収益自体が上がってるわけではないからね。

  NBS主催の公演に行くたびに、NBSが募っている寄付金の種類がどんどん増えていっているのもその傍証になります。本当に景気が良くなっているなら、お上も庶民もやることは決まってます。娯楽におカネかけるようになるはず。1980年代後半~90年代前半のバブル経済期を思い出してみれば分かる。でも、現状はそうじゃないでしょ。

  NBSのほうも、日本における舞台芸術は危機に瀕しています、寄付をお願いいたします、と連呼して寄付を募りながら、その割には観客の要望をまったく聞こうとしないのは不可解です。いいかげん会場アンケートくらい実施してはどうでしょうか。もう昭和の高度成長期やバブル経済期の感覚で、舞台興行やってける時代じゃないよ。  

  本題。この「聖なる怪物たち」は映像版が出ているので、内容について細かく説明するのは省きますです。カーン、ギエムが交互にそれぞれのオリジン的な踊りであるカタックとバレエを踊り、自らについて語り、対話し、一緒に踊ることで双方の踊りが融合していき、名前の付けられない、ジャンル分けが不可能な踊りに進化していく。

  カーンとギエムについてもまず文句を言っておこう。セリフを交えるのであれば、もっと大きくはっきりと発声したほうがよいと思います。ギエムのセリフ回しはまだ明瞭でしたが、カーンは声が細くて小さく、しかも早口なので、非常に聞き取りにくかったです。

  仰々しく演技をつけた話し方をしろ、と言ってるのではありません。観客に聞かせて理解してもらう前提でセリフを取り入れる以上は、観客が聞き取れるように発音・発声しなければならない、ということです。

  もっとも、今回は舞台と客席との距離が遠く、しかもカーンとギエムのセリフは、舞台前面に設置された集音マイクを使用して流していたので、なおさら聞こえにくくなったのでしょう。だったら大規模な会場に合わせた音響設備を整えなくちゃいけないし、さもなければやはり中規模の会場で公演を行なったほうがよかったのでは。

  踊りについては、カーンがギエムを凌いでいたと思います。クラシック・バレエの舞台ではないので、カーンはギエムに遠慮する必要がなかったし、ギエムも自分一人を目立たせろと要求するような人ではないでしょう。

  今回はカーンの踊りのほうが強かったです。男性だからパワフル、というのではなく、訴えかけてくる力が凄かった。カーンのほうが、葛藤して、悩んで、苦しみながら考えぬいて、そういう経験をギエムよりも多くしてきたんだろうと思います。たぶんその差が出たんでしょう。

  カタックの動きを取り入れてあるという、両腕と両手の美しい、かつせわしい動き、いつまでも続く鋭い速い回転、タップ・ダンスのような足踏み(それともタップ・ダンスと取り入れたの?)がとても力強かったです。やがてカタックが暴走して、カーンを逆に苦しめる存在になっていく過程もよく分かりました。

  セリフの字幕が出ているのに、カーンがセリフを言わなかったシーンがありました。「これは正しいのか?」という、カーンへのインタビューで印象的だと紹介されていたシーンです。

  このシーンでは、カーンは四つん這いになり、何度も起き上がろうとしては、そのたびに顔を歪ませ、押し潰されたかのように床にべたっと手をつく動作をくり返します。そして、拳を握った手を何度も打ちつけます。

  後でプログラムを読んだら、フランス公演でも、フランス語の字幕が出ているのにも関わらず、カーンはセリフを言わなかったそうです。今回の日本公演でも、あえてセリフを言わないことにしたのでしょう。そのぶん、身体の動きだけで語ることになるので、セリフを言うよりも逆に雄弁なものとなりました。

  上から抑えつけようとする力にあらがって、苦しそうに顔を歪ませながら何度も起き上がろうとするカーンの動きは強烈で、まさに圧巻でした。

  そのカーンに手を差し伸べて助けるのがギエム、という演出には、個人的には「?」と思いましたが(どちらかというと逆だろうと思う)。

  うーん、正直、「たかが踊り」で、カーンもギエムも何そんなに深刻になってんの、と思わないでもありません。

  しかし、人はそれぞれ自分を表現するメディアを持っているものでしょう。そのメディアは人によって違います。そのメディアはその人にとって大事なものですが、しかしその人を苦しめる存在にもなりうるものです。

  私たちが自分のメディアに疑問を感じ悩んできたのと同じように、カーンとギエムもまた、彼らのメディアであるカタックとバレエに疑問を感じ悩んできたのだと考えると、まあ理解はできるような気がします。

  …と、できるだけ好意的にとらえてみたけど、やっぱり、この作品の致命的な欠点は、底の浅いテーマ、インテリ芸術家独特の狭小な世界観、いかにもフランス的な薄っぺらい衒学的雰囲気だ、という感は拭えないなあ。

  (その2に続く

    
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