東京バレエ団『オネーギン』

Tchaikovsky: Onegin
Emerson String Quartet,Stuttgart Symphony Orchestra,Tuggle,Fonteyn,Heinrich Rehkemper
Animato


(ジョン・クランコ振付、バレエ『オネーギン』の音楽CD。ジャケットのタチヤーナとオネーギンはYseult LendvaiとTamas Detrich。)

  今日(23日)、横浜(神奈川県民ホール)での公演を観に行きました。

  先週は「マラーホフの贈り物」Aプロ、Bプロも観たんだけど、疲れちゃってブログに感想を書く気になれませんでした。昨日休んで、ちょっと人心地がつきました。順番が前後するけど、とりあえず東京バレエ団『オネーギン』のほうから。

  東京バレエ団がジョン・クランコの『オネーギン』を上演することを知ったとき、まず思ったのは、「正気の沙汰か!?」ということでした。こう言っては申し訳ないけど、東京バレエ団のレベルを考えると、誰の発案かは知らないが、無茶なことをするものだと思いました。上演を許可したクランコ財団に対しても、ナニ考えてんだ!?と呆れました。

  そりゃ、振付を真似すれば、形だけはある程度までなんとか踊れるだろうけど、主役から群舞に至るまで、ともに高度な技術と同時に深い表現力が必要とされる『オネーギン』を、東京バレエ団が上演してどんな出来になるか、大体は想像できる気がしました。

  というのは、ちょうどそのころ、チャイナ・ナショナル・バレエが上演した『オネーギン』のほぼ全編の映像がYou Tubeに投稿されていて、その無様なパフォーマンス(←おそらく投稿者はそれに気づいてない)から、東京バレエ団の公演もおそらくこんな具合になるだろう、と予想したのです。

  そんなわけで、いくら好きな作品でも、いや、好きな作品だからこそ、お粗末な出来の舞台など観たくなかったので、チケットを買う気は端からありませんでした。

  ただ、公演日が迫るうちに、斎藤友佳理さんのタチヤーナには、一見の価値があるのではないかと思うようになりました。斎藤さんの柔らかい母性的な雰囲気はタチヤーナに合っているし、斎藤さんは個人的にもロシアとの関わりがかなり深いそうだから、きっとプーシキンの原作に慣れ親しんでいて、タチヤーナという人物像をリアルに造形できるに違いない。

  それで、先週の木曜日に今日の公演のチケットを取りました。神奈川県民ホールのチケット・センターから買いました。ちなみに、神奈川県民ホールのチケット・センターは便利ですよ。オンライン販売システムもあり、席を指定して買うことができます。

  主なキャストは、オネーギン:木村和夫、タチヤーナ:斎藤友佳理、レンスキー:井上良太、オリガ:高村順子、グレーミン公爵:平野玲です。

  予想したとおり、斎藤さんも含めて、彼らは踊れていませんでした。たとえば難しい回転などの技をやるとき、いちいち「さあやるぞ」っていうあからさまな構えの姿勢をとって静止するので、踊りの自然な流れが断ち切られてしまっていたし、技そのもののできばえも不安定でした。跳躍などの着地でも足元がグラついて危うかったです。また、難度の高い動きが連続する踊りだと、前の振付をきちんとこなしてから次の振付に移る余裕が持てないらしく、多く姿勢が崩れがちで、なんだか中途半端な、不自然な踊りになっていました。

  オネーギンの踊りはレンスキーの踊りに比べればまださほど難しくないのではないか、と私は思っていましたが、木村さんの踊りを見て、オネーギンの踊りもかなり難しいことが分かりました。以前に観たシュトゥットガルト・バレエ団の公演でオネーギンを踊ったダンサーたち(マニュエル・ルグリも含めて)は、あまりに自然に、軽々と踊っていたので、そうとは気づかなかったのです。

  オネーギン、タチヤーナ、レンスキー、オリガが組んで踊るときも、サポートやリフトはぎこちなく、また互いの動きもあまりうまく連動していませんでした。練習不足というより、明らかに各々の能力以上のことを無理にやっているのでうまくいかない感じでした。

  見せ場であるタチヤーナとオネーギンの二つのパ・ド・ドゥ、第一幕の「鏡のパ・ド・ドゥ」、第三幕の「別れのパ・ド・ドゥ」も、技術の面だけからみれば、踊りそのものは大した出来ではなかったと思います。斎藤さんと木村さんが一生懸命に踊っているのはよく分かったのですが、彼らの身体能力と技術では、あの難しくて複雑な振付をこなすには明らかに無理がありました。ただ、第三幕の「別れのパ・ド・ドゥ」では、一種の「化学反応」というか「奇跡」のようなことが起こりました(これについてはまた後で書きます)。

  踊りのほうは今ひとつでしたが、役作りのほうはみな非常にすばらしかったです。ただ、レンスキー役の井上さんは、表情の作り方が稚拙で、雰囲気も出せていませんでした。特にレンスキーが怒っている、また苦悩する場面では、まるで友だちとケンカした中学生みたいでした。なんでも眉根に皺を寄せて歯を食いしばればいいというものではないと思います。

  オリガ役の高村順子さんは、明るく溌剌としたオリガの可愛らしさと、あどけなさから来る短慮さをよく表現していて、斎藤さんの静かで落ち着いた雰囲気のタチヤーナと鮮やかな対照をなしていました。明るい色の可憐な一輪の花のように愛らしかったです。

  グレーミン役は平野玲さんでした。どっしり構えた威厳のある雰囲気で、いかにも高位の貴族で、包容力のある落ち着いた大人の男性という感じでした。第三幕では、妻のタチヤーナを守るように愛している様が伝わってきてよかったです。タチヤーナとの踊りでのパートナリングも安定していて、役作りとの相乗効果で、頼りがいがある旦那だなあ、と感じました。あと、すごいハンサムでした。

  斎藤さんは予想どおりのタチヤーナで、第一幕と第二幕ではしっかり者の姉だけど、中身はロマンティックな夢見る少女、第三幕では人の妻として幸せに暮らし、心も成熟している安定した大人の女性になっていました。

  斎藤さんは踊り方も第一幕・第二幕と第三幕とでは変えていました。第二幕で、オネーギンに冷たい仕打ちを受けた後も、少女らしい不器用な動きだけど、それだけになおさらひたむきさを感じさせる動きで踊り、一生懸命に、必死にオネーギンに訴える姿が痛々しかったです。第三幕では安定した心としっかりした意志を感じさせる、優美でしかも力強い踊りになっていました。

  ただ、いつも口を半開きにしているのはいかがなものかと思いました。たまには口を閉じてもよかったかも。癖なのでしょうか?

  オネーギンを拒絶した後のタチヤーナがどんな顔をするのか、斎藤さんの演技の中で最も楽しみにしていました。斎藤さんは、泣き顔と笑い顔とのどちらともとれない、あるいはどちらともとれる表情をしていました。最後は目を閉じて両手のこぶしを握りしめました。これでよいのだときっぱり思いを断ったのか、それとも無理に自分を納得させようとしているのか、これまたどちらともとれませんでした。でも、現実は案外こんなものではないでしょうか。白か黒か、はっきり自分の気持ちを決められる人なんてそうはいません。まして、自分がまだ愛している男性をあえて拒絶する女性の気持ちは、実に複雑なものに違いありません。

  木村和夫さんのオネーギンの表現は、実にすばらしかったです。オネーギンの気持ちが手に取るように分かりました。オネーギンの性格、価値観、行動の動機、すべてが雄弁に表情や仕草によって語られていました。でも、いちばん印象に残ったのは、木村さんの目かな。目がセリフを言っているかのようで、オネーギンが何を考えているのかはっきり分かりました。

  最も印象に残ったのは、第二幕でラーリン家に入ってきた途端、その田舎屋敷ぶりを蔑むように見上げていたオネーギンが、第三幕でグレーミン公爵邸の大広間に入ってきた途端、その華麗さに気おされたように、怯えた表情で天井から吊るされたシャンデリアを見上げるシーンでした。田舎では気取っていたオネーギンが、モスクワでは自信なさげに身をすくめている、そのギャップがよかったです。木村さんの変貌ぶりが見事でした。

  先日の「マラーホフの贈り物」Aプロでは、主役のマラーホフとポリーナ・セミオノワを、ゲストのマリア・アイシュヴァルトとマライン・ラドメイカーが凌いでしまうということが起こりました。優れたダンサーであるアイシュヴァルトとラドメイカーが、よりによってジョン・ノイマイヤーの、よりによって『椿姫』の、よりによって第三幕のパ・ド・ドゥを踊ってしまったのですから、「ダンサー力」と「作品力」の相乗効果で、観客のほとんどヒステリーに近いような、物凄い反応を引き起こすことになったわけです。

  一方、マラーホフは持ち前の傑出したカリスマ性と「ダンサー力」で、地味で観客になじみの薄い作品をすばらしいものにしました。踊りが作品を凌駕したわけです。このように、ダンサー個人の力量によって、振付の元来さほど良くない作品がすばらしいものに変貌するという現象は、稀にではありますが舞台では目にすることです。

  ですが、作品そのものが持つ力が、そのダンサーの普段の力量を超えたすばらしいパフォーマンスを引き出すというのは、私は今日の舞台で初めて見ました。

  第三幕の最後、タチヤーナとオネーギンの「別れのパ・ド・ドゥ」でそれが起こりました。斎藤さんは完全にタチヤーナになっており、木村さんも完全にオネーギンになっていました。オネーギン役とタチヤーナ役としてではなく、愛する女性を乱暴なほどに情熱的に求める男性と、彼を愛する感情と現実の自分の立場を考える理性とが同時に激しく渦巻いている女性が舞台上にいて、ほとんど闘うようにして求め合っているのです。

  ドラマティックな音楽が演奏される中で、斎藤さんと木村さんは荒い息を吐きながら、争うように激しく踊っています。斎藤さんと木村さんの、というより、タチヤーナとオネーギンの鋭い気迫と激しい感情に圧されて、私は息を呑んで、ただ呆然と二人を見つめるばかりでした。

  そこにもはや「演技」はありませんでした。斎藤さんと木村さんは「素」だったと思います。お互いの踊りを待って踊る、タイミングを見計らって踊る、なんてことはしてませんでした。本気で愛し合って、そして拒んでいました。日本人ダンサーがあれほど感情を爆発させて踊っている姿ははじめて見ました。

  カーテン・コールで、斎藤さんと木村さんはぐったりと疲れ果てた様子で、互いに身をもたせかけて、かろうじて立っていました。二人ともほとんど放心状態のようでした。彼らの世界に呑み込まれたのは私ばかりではなく、他の観客も同じだったのでしょう。爆発音のような拍手が起こりました。

  今回の『オネーギン』は、斎藤さんにとっては長年の願いが実現した機会だったでしょう。また、木村さんにとっては、ダンサーとして、自分の中にあった可能性の一つを、一気にずるっと表に引き出せた舞台になったと思います。

  私にとっても、普段はおとなしい日本人ダンサーが、良い作品の世界の中に引き込まれて、演技を忘れて感情を爆発させたことで、奇跡のようなすばらしい舞台になった瞬間を目にするという、貴重な経験となりました。斎藤さんと木村さんにありがとうと言いたいです。      
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