昨日、函館市内を車で回ってみた。函館湾を見下ろす高台にいて、なぜこの様な美しい風景の中で暮らしていながら、7人もの高校生が、1人の仲間を殴り殺さなければならなかったのか、悲しさが増してくる。
神戸の「酒鬼薔薇事件」を思い出した。
閑静な住宅街で、人々の交流の場所が少なく、このような殺風景な場所に住んでいると、凶悪な事件が起きやすい、と言う様なことを話していたコメンテーターがいた。
街並みの美しさや、都市計画のあり方なども、人の感情に大きな影響を与えるものなのだろう。
人は美しい風景の中に暮らしていると、絵を描きたい、写真をとってみたい、詩を書いてみたいと言う欲求に駆られる。心と自然が対話できる事が芸術への第一歩の様に思う。
函館出身で著名な画家はたくさんいる。市内の学校や、病院、レストランなどで、それらの作品を身近に鑑賞でき、函館の街が持つ素晴らしさを、日常生活の中で身構えることなく、触れ合うことが出来る。
函館は街全体が情操教育に適した環境の街のように思う。
それゆえに高校生の殺人事件が自分たちの街で起きた事に対し、市民は驚きを隠せない。被害者の家族の悲しみは尋常ではないはずだ。また、加害者の家族の苦しみも永久に消える事はないだろう。人のつながりが身近な港街だけに、衝撃は大きい。
人の命を軽んじる傾向は近年随分増えてきている。
例えては良くないが、松岡元農水大臣が自殺したのはつい最近の事である。それも現職の大臣である。今政治の世界では、何事もなかったかのように忘れ去ろうとしている。
私たちの身近でもそれと同じく、責任の所在を鮮明にさせないまま、時が過ぎ去り、うやむやになってしまうのを、意識的に待つという事が多くなってきているような気がする。子供たちはこのような大人の社会を、どんな風に見ているのであろうか。
何か大きな事件があるたびに、脳裏をかすめるのは、昭和天皇の戦争責任について、語ることの許されない国であることの不思議さである。
靖国のA級戦犯合祀問題でも、天皇の戦争責任についてまったくと言って良いほど触れないのが、私はこの国の特徴のように思う。
日本人の責任所在を鮮明にしない曖昧さは、そこに端を発していると思うのは、私の偏見であろうか。
もう一つ不思議に思うのは、一つの家の中に、神様と仏様を祭っている事である。出征する時は神社で、戦死するとお寺が迎えると言うのも不思議だ。
それならば、自衛隊は容認し、憲法第九条を変えないで、今までどおりバランスをとっていくのも、日本人の器用さだと思うが、この問題だけはなぜかはっきりさせようとするのが、日本人らしくないような気もする。
私の頭では、なんら結論が出ない問題である。
神戸の「酒鬼薔薇事件」を思い出した。
閑静な住宅街で、人々の交流の場所が少なく、このような殺風景な場所に住んでいると、凶悪な事件が起きやすい、と言う様なことを話していたコメンテーターがいた。
街並みの美しさや、都市計画のあり方なども、人の感情に大きな影響を与えるものなのだろう。
人は美しい風景の中に暮らしていると、絵を描きたい、写真をとってみたい、詩を書いてみたいと言う欲求に駆られる。心と自然が対話できる事が芸術への第一歩の様に思う。
函館出身で著名な画家はたくさんいる。市内の学校や、病院、レストランなどで、それらの作品を身近に鑑賞でき、函館の街が持つ素晴らしさを、日常生活の中で身構えることなく、触れ合うことが出来る。
函館は街全体が情操教育に適した環境の街のように思う。
それゆえに高校生の殺人事件が自分たちの街で起きた事に対し、市民は驚きを隠せない。被害者の家族の悲しみは尋常ではないはずだ。また、加害者の家族の苦しみも永久に消える事はないだろう。人のつながりが身近な港街だけに、衝撃は大きい。
人の命を軽んじる傾向は近年随分増えてきている。
例えては良くないが、松岡元農水大臣が自殺したのはつい最近の事である。それも現職の大臣である。今政治の世界では、何事もなかったかのように忘れ去ろうとしている。
私たちの身近でもそれと同じく、責任の所在を鮮明にさせないまま、時が過ぎ去り、うやむやになってしまうのを、意識的に待つという事が多くなってきているような気がする。子供たちはこのような大人の社会を、どんな風に見ているのであろうか。
何か大きな事件があるたびに、脳裏をかすめるのは、昭和天皇の戦争責任について、語ることの許されない国であることの不思議さである。
靖国のA級戦犯合祀問題でも、天皇の戦争責任についてまったくと言って良いほど触れないのが、私はこの国の特徴のように思う。
日本人の責任所在を鮮明にしない曖昧さは、そこに端を発していると思うのは、私の偏見であろうか。
もう一つ不思議に思うのは、一つの家の中に、神様と仏様を祭っている事である。出征する時は神社で、戦死するとお寺が迎えると言うのも不思議だ。
それならば、自衛隊は容認し、憲法第九条を変えないで、今までどおりバランスをとっていくのも、日本人の器用さだと思うが、この問題だけはなぜかはっきりさせようとするのが、日本人らしくないような気もする。
私の頭では、なんら結論が出ない問題である。
事件を知って,本当ゲームの様に殺してしまう子供達
周りで見てる子も信じられない。中には,死んでしまうんじゃないか,まずいよ思う子はいなかったんだろうか?でも,自分やられたらどうしようとか思っちゃうかな・・
家の子は保育園で,あるお友達が喧嘩してて中に入って『謝れよ』言ったらしく叩かれて泣かされました
子供には子供の世界があるんだろうけど,こうゆう事件あると,下手にあんたは助けなさいよ!なんて教えれない気がする
この世の中なんでも便利,楽,が生み出してしまった人間の疎かな時代なのかもしれない
でも、と言う言葉が浮かんでくる世の中ですが、でもがんばってねというほうが、子供のためになると思います。小学校高学年や、中学ともなれば、いろいろ自分で、危険を判断する力も出てくるでしょうが、保育園では、良い悪いをはっきり教えたほうがいいと思います。自分の意思を表す素直な子供が頼もしいですよ。
ビックリしました
未成年は,名前公表しちゃいけない法律ありましたよね?
でも,なんとも言えないですよね。
親にしてみれば,大事に育てた子供,病気で亡くしたわけじゃないから,悔やみきれない
寿命だと,自分に言い聞かせる事も出来ない。
平気で,殺してしまう子供達 未成年だと将来を考えて名前は出さないって法律は間違ってる
殺された子の将来は,その子達によって消されたわけだから
罪の意識を持たせるべき
返事ありがとうございますこれから息子に沢山,良い事はほめてあげていきたいです