函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

可能性の折り返し地点

2013年01月15日 15時50分03秒 | えいこう語る
携帯電話を始めて知ったのは、30年程前だ。
友人が車載式の電話から、妻に私が立ち寄ることを話していた。自宅に着くと、すでに宴会の準備ができていたのだ。
その時、物事の処理が格段に早まるこの電話の可能性について、ぼんやりだが世の中が急激に進歩するのを感じたのを、思い出している。
あっという間に、あれほど便利だった公衆電話は廃止され、手のひらサイズの電話になった。さらにスマートホンとなれば、全ての情報が手のひらの中にあり、人間は誰もがお釈迦様になったと、錯覚するのではないかと心配してしまう。
人間釈迦が手に持っているのが、欲望を戒める教典ならいいが、人間がこの全知全能の道具を手にすると、世界中の人間が世の中に迷惑をかける孫悟空になりはしないかと、ふと考えてしまうのだ。
不可能を可能にするのが人間の無限な能力なのかもしれないが、プラスとマイナス面を同等に論議する必要を感じる。
スポーツでも技術開発においても、不可能を可能にすると大きな対価が得られる。成功者は称えられてしかるべきだ。しかし、iPS細胞のマイナス面は聞こえてこない。
人類の生命維持に画期的なものだというのは理解できるが、はたしてそうなのだろうか。
※氷が張ったような太平洋。


若い頃ストリップ劇場でよく耳にした「タブー」という名曲がある。
触れてはならない、それ以上踏み込んではならない。それは客への戒めでもあったが、同時に踊り子側の節度でもあったように思っていた。
第二次世界大戦末期、ナチスの迫害を逃れて米国に移住した学者が、ナチスに作られる前に作ろうとした原子爆弾。
地上に存在する最後の元素、92番目のウランに中性子をぶっつけているうちに、偶然生まれた人口の元素プルトニウム。不可能を可能にしたと喜ぶが、それが人類を破壊する最大級の兵器となった。
それを燃料とする原子力発電所は「タブー」のはずだが、そのプラス面ばかりが先行し、廃炉の研究も進んでないままに、この地震の島国に地球を滅ぼしかねない原子爆弾の時限装置を、54個も作ってしまった。
考えてみれば、元素92番が人類生存の折り返し地点だったのではないかと、思う。
人類は折り返し地点から戻らず、さらに不可能という暗闇に挑戦し続けているような気がする。
NHK大河ドラマで「八重の桜」が始まった。
会津藩には「ならぬことはならぬ」という、してはならないものの教えがある。
かたくなに守らなければならないことは、不便極まりないだろう。だからそうもいかないという「あまえの構造」が誰もが持っている。
加藤茶が「タブー」の曲にあわせ「ちょっとだけよ」という言葉が、心地よい。
「ちょっとだけ」で我慢するのが、サスティナブルということなのかもしれない。
街中ではスマートホンを見ながら歩いている人を多く見かける。
周囲が見えなければ、危険が多くなると思うのだが。