函館駅前周辺の繁華街を「大門」と呼ぶ。
名の通り、昔、遊郭があったところだ。戦争が終わり昭和27年から再開された北洋漁業で、この港街は再び賑わいを取り戻した。
百万ドルの夜景と呼ばれる函館。
敗戦後の復興時代、この地区のネオン街の輝きが、函館山から見て、訪れる者の心に、勇気と希望を与えたに違いない。
その大門に、昭和40年代後半に「味処K」という、小粋な割烹料理店が開業した。
私の高校時代の悪友、M君の姉の経営である。その1年後、東京の大学を卒業したMも、故郷に戻り姉と一緒に働いた。
サラリーマン1年生の私は、幸か不幸か、その繁華街に近い会社に勤務した。
会社が終わるや否や、ネオンの誘惑に勝てず、毎夜のように「味処」に夜勤した。ママも弟のように私を可愛がってくれた。ボトルは長い間、原価だった。
その頃の店は、北洋漁業の親方衆やその関連の会社の人たちで賑わっていた。
その店で函館人の気質や人脈などを学ばせてもらった。
ママは40代で世を去った。その後Mが継いだが、住宅事情の変化などで、繁華街は「大門」から「五稜郭」に移動し、「大門の灯」は、一気にその輝きを失っていった。
年明けを待つことなく「味処」は、看板を下ろした。近いうちにMと、飲む約束をした。
思い返せば、私はこの店で「函館人」の仲間入りをさせていただいた。
「味処」とは、肴の味の良いところとばかり思っていたが、古き良き時代の函館の歴史を語り合い、そして函館の未来を語り合った、粋な男女が集う、味な場所であったことを、あらためて思った。
Mと飲む時は、単にノスタルジーに浸るだけではなく「素敵な港街函館」の、将来を語り明かしたいと思う。
名の通り、昔、遊郭があったところだ。戦争が終わり昭和27年から再開された北洋漁業で、この港街は再び賑わいを取り戻した。
百万ドルの夜景と呼ばれる函館。
敗戦後の復興時代、この地区のネオン街の輝きが、函館山から見て、訪れる者の心に、勇気と希望を与えたに違いない。
その大門に、昭和40年代後半に「味処K」という、小粋な割烹料理店が開業した。
私の高校時代の悪友、M君の姉の経営である。その1年後、東京の大学を卒業したMも、故郷に戻り姉と一緒に働いた。
サラリーマン1年生の私は、幸か不幸か、その繁華街に近い会社に勤務した。
会社が終わるや否や、ネオンの誘惑に勝てず、毎夜のように「味処」に夜勤した。ママも弟のように私を可愛がってくれた。ボトルは長い間、原価だった。
その頃の店は、北洋漁業の親方衆やその関連の会社の人たちで賑わっていた。
その店で函館人の気質や人脈などを学ばせてもらった。
ママは40代で世を去った。その後Mが継いだが、住宅事情の変化などで、繁華街は「大門」から「五稜郭」に移動し、「大門の灯」は、一気にその輝きを失っていった。
年明けを待つことなく「味処」は、看板を下ろした。近いうちにMと、飲む約束をした。
思い返せば、私はこの店で「函館人」の仲間入りをさせていただいた。
「味処」とは、肴の味の良いところとばかり思っていたが、古き良き時代の函館の歴史を語り合い、そして函館の未来を語り合った、粋な男女が集う、味な場所であったことを、あらためて思った。
Mと飲む時は、単にノスタルジーに浸るだけではなく「素敵な港街函館」の、将来を語り明かしたいと思う。