御三家で
55万石の殿様なら、
100年経っても領民の祖先から
自慢に思われても良さそうなのに、
和歌山県民が 「 うちの殿様 」 を
誇りに思ってるように感じたことがあまりなくて、
何となく不思議でした。
和歌山市内の人は、
他の地域の人よりお城に対しての愛着はあるようですが、
それも、
小さなころに遊んだとか、
おじいちゃんによく連れて行ってもらった。
みたいな感じで、
殿様に対しての想いではなさそうなんですね。
ほかにもそんな風に感じていた人がいたようで、
司馬遼太郎が 『 街道をゆく 』 のシリーズの
『 壱岐 ・ 対馬の道 』 のなかで、
紀州人が一般に
徳川家を懐かしまない理由はここにあるという説がある。
と説明しているのを見付けました。
年貢米の取り分は、
江戸時代初期は 四公六民の割合 で、
農民の取り分が六割だったのが、
時代がくだるにつれて
六公四民 の割合が普通になった。
紀州徳川領はもっとひどくて、
八公二民 の割合で搾取されていたということだそうです。
将軍家の直轄領では初期の税率が守られていた。
そうなので、
これでは、「 うちの殿様 」 に思い入れがないのは
仕方ないかも知れません!
その八公が地域の文物として全く残らずに
今に至ったようですね。
加賀の前田さんちの殿様は気の毒な立場だったらしいけど、今それがとってもいい結果になってますもんね。