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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Jun_22】宮本隆司さんと佐々木幹郎さん

2019-07-04 | PHOTO
待つこととヒョウタン ― 宮本隆司『いまだ見えざるところ』展レヴュー  by福島恵一さん

非常に示唆に富んだ精緻な分析。
宮本さんの写真がもつ静寂は、『光を受け止めるには闇が必要』だとする思索の結果だと。
『見える部分は、見えない部分によって支えられている』ことをピンホールカメラの撮影によって、身体的に感得したのだと。
デジタルカメラでしか経験のない人間には到達できない境地。『いまだ見えざるところ』が在るからこそ、見ようと欲する。
ボクが宮本さんの写真から受けていた影響を、見事明文化されている…と思った。


以下、コピペ。

「写真という形式は受け身である。受動。(中略)決定的なところでは、光景を受け入れる。
光を受け止めるという、受け身の部分があるんです。(中略)写真の最終的な、像を感光材料に反応させるときは、受け身なんです。
その受け身であるという状態のときに、ある時間 —−—− 動かしようのない時間といえばいいか —−—− が刻まれる。
その操作できなさ、時間の動かしようのなさが写真にはありますね。」
(p.130)

「ピンホールにしてもフォトグラムにしても、非常にシンプルで単純な写真なんだけれども、やってておもしろいんです。
意外と奥が深い。それとデジタルカメラではなかなか味わえない身体感覚。五感を総動員して使うような写真撮影なんです。
写真にとって闇が非常に重要だっていうのも、そういうシンプルな写真撮影をすることによって感じられることなんです。
デジタルカメラで闇なんて、誰も気づかない。(中略)像を結ぶときは必ず闇の中に光を導き入れてるはずです。
そうじゃないと像を結ばない。これは光の原理だから。」
(p.131)

「見ること、見える部分は、見えない部分によって支えられている」ことを、
宮本は写真の原初へと遡りながら見ることの探求を深める中で、ついに感得したのだ‥‥と読みとることも、あるいは可能かもしれない。


宮本の写真の「均質な写しこみ」(林道郎)は、このじっと待つことの結果だと思わずにはいられない。
外部からの濫入者によって巻き上げられた澱が沈み、眺めが澄み渡るのを、池の底で身じろぎもせず待ち続ける巨大なヌシ。
この「待つこと」は、ピンホールカメラの露光時間の長さとは関係がない。
本来、生成変容を続ける世界を一瞬のうちに切り取る写真において、
その極端な時間の薄層の中に世界の存在と関係性を遍く封じ込めようとした時に、それは必要とされる時間なのだ。


風景であれ、建築であれ、「廃墟」であれ、人物であれ、彼の写真が常に帯びている静けさは、
語り尽くした後の(あるいはしゃべりが途切れた一瞬の)沈黙ゆえではないか。
そこにはざわざわとしたざわめきや、ぎらぎらとしたまぶしさがない。
部分がこれ見よがしに突出することもない。色彩が飛び散り乱舞することもない。
穏やかに凪いだような視界の平坦さがある。
そうであればこそ、すべての面や辺が空間の奥行きとともに浮かび上がり、
その間を走る多様な関係の線もまた、余すところなく可視化されるのだ。
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