社会の世俗化によって解放された近代性の発展は、
世界の中心を神から人へと移すこと、
つまり広義のヒューマニズムの原理の確立を伴っていた。
それゆえ、近代の学問は、「人間性の完成」という理念を、
相当に形骸化していたとしても、掲げてきた。
人間の知性の限りない発展は、統制的理念としてではあれ
人間性の最高度の発展を実現するという究極目標を持ち、
学問の発展はそれに貢献するものとみなされてきた。
しかし、いまわれわれが諸学問において目撃するのは、
こうした理念の死滅である。
つまり高度な知性と豊かな内面性を持った人間という理想像は、
いまやタテマエとしても消滅した。
「人間は死んだ」のである。
↓ ↓ ↓
次に指摘されなければならないのは、
深いシニシズムがデモクラシーの基盤に据えられるという事実である。
いまや政治が「みんな」の利害を代表することが構造的に不可能であるのなら、
「グローバル化の促進が自らの階級的利益に反することを理解出来ない
オツムの弱い連中をだまくらかして支持させれば良いではないか」
このシニシズムが小泉自民党の赤裸々な本音だったのだろう。
こうした変化は、被治者と治者とがお互いに対して抱く感情の基礎が、
「信頼と敬意」から「軽信と侮蔑」に転換したことを意味しもする。
↓ ↓ ↓
立木は、新しい主体の在り方の核心には「否認」があると述べている。
精神分析学における「否認」とは、簡単に言えば、心の防御機制の一つであり、
外界の苦痛や不安な事実をありのままに認知するのを避ける自我の働きを指す。
「抑圧」との違いは、「抑圧」において「抑圧されたもの」が無意識の領域へと追いやられて
意識的に想起できないのに対して、「否認」においては、
現実を認めてしまうことで喚起される不安を回避するために、
現実の一部または全部を、それを現実として認知することを拒絶するところにある。
「わかっちゃいるけど、やめられない」と言う名文句があるが、
これは「否認」の心理状態を唄ったものと言える。
↓ ↓ ↓
そうした主体は、目下流行している言説に同調し、自分の歴史=物語を持たない。
言い換えれば、過去や祖先や系譜に対して引き受けるべき負債を持たない。
ネオ主体はだから、何でも自分を基準に選びたがる。
たとえば、自分の子供にオリジナルな名前、たとえば花やクルマの名前をつけることをためらわない。
↓ ↓ ↓
教養主義的主体とは弁証法的主体であり、経験を通してそれまでの主体が否定されることでより高次の主体へと生成する、という所作を繰り返す。
かかる運動は否定性を通じた生成であり、ヘーゲルが「否定的なもののもとへの滞留」、
「死に耐えて死の中に自己を支えその中に留まる生こそが精神の生である」と言ったものに他ならない。
↓ ↓ ↓
ここで注目すべきは、「暴力」という言葉が_その正当性にも関わらず_広範な反知性主義的批判を呼び起こしたことであるように、私には思われる。
つまり、他でもなくこの言葉が反知性主義の噴出のきっかけになったという事実に、日本の反知性主義の特質が表れていると感じられるのである。
露になったのは一種のアレルギー反応、「否認」である。
すなわち自衛隊や警察とは、その本質上暴力装置であり、そうでなければならないという当然の事実が否定されなければならない、というところに
日本の国家主義に関係する反知性主義に特有の「否認」の構造を見て取ることができる。
つまり、国家の根幹には暴力があるという普遍的な事実が、この国では否定される。しかし、言うまでもなく、国家による暴力は存在する。
ゆえに、その暴力は、いわば、暴力であることを自ら否定する暴力、すなわち否認に貫かれた暴力として行使される。
↓ ↓ ↓
このような特異な暴力およびそれへの認識の在り方を示唆することによって私が念頭に置いているのは、天皇制国家における暴力である。
それは戦前戦中の共産主義者への弾圧、「転向」現象において、最も苛烈かつ典型的なかたちで表れた。
国家による思想信条の弾圧は古今東西ありふれた現象であるが、日本で起きた転向現象において特異な点は、
そこに介在した権力の温情主義である。特筆すべきことには、天皇制国家は反抗者たちに対して苛烈な暴力をふるったのと同時に、
「優しく」接したのであるが、この二面性は矛盾ではなかった。
↓ ↓ ↓
ゆえに、天皇制国家原理においては、「国体の変革」を企てることとは、端的に不可能なこととして観念されていたと考えられなければならない。
日本人である限り、かかる考えを持つこと自体がそもそも不可能なのであり、したがって治安維持法違反などという犯罪は実はあり得ない。
言い換えれば、国家権力と国民が対立するということが国体の論理においては不可能なのであり、
このような不可能性が、日本が「万邦無比の国体」を戴く特別な国家である_他の国家ではかかる対立が実際に生じている_ことの証左とされていたのであった。
↓ ↓ ↓
だから逆に云えば「国体の変革」という観念を信奉することとは、この国が家族の如きもの、矛盾葛藤なき「愛の共同体」ではない、
そこには解消し得ない敵対性が内在しているという観念を確信することであった。そして治安維持法は、まさにこのことを禁じたのである。
この観念を捨てることとは、社会内在的な敵対性という「否定的なもの」の存在を否認することで、「愛の共同体」に復帰することに他ならない。
そして、愛の共同体の成員たちは、これを真摯な改心として受け容れる。
↓ ↓ ↓
「家族国家としての日本への復帰」という転向のモチーフは、転向現象の大局的な構造において見出されるだけでなく、
転向を促す際の手段としても積極的に活用された。日本に復帰することは、家族の愛に目覚め、家族に復帰することと重ね合わされたのである。
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赤軍戦士のやったことは最悪の愚行であり、私は一片の共感も持ち得ない。
ゆえに、赤軍戦士の母は、息子たちの行動を理解し共感すべきだということではない。
だが、それでも私は、母たちのあのような行動はあまりに無惨なものだ、と考える。
なぜなら、いかに意味不明で単なる愚行に過ぎない行為に見えるとしても、
当人には当人自身の考えがある…たとえそれがいかに道理から外れたものであっても。
言い換えれば、息子には一個の人間として主体性があるという事実を、
この行為は無効化しようとするものに他ならないからだ。
かつそれは、息子たちの行為に伴う責任を免じようとするものでもある。
当人には自身の考えがあり、したがってその考えに基づいて行動することにおいて、
それに伴う責任はすべて本人がとるべきものだと考えるならば、
銃撃戦による死も含めて行動がどのように展開しようとも、
それは第三者が容喙出来る事柄ではない。
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要するにこの国には「社会」がない。社会においては本来、
その構成員のあいだで潜在的・顕在的に利害や価値観の敵対関係が存在することが前提されなければならない。
しかし、日本人の標準的な社会観にはこの前提が存在しない。
そうでなければ、「社会」という言葉と「会社」という言葉が事実上同義で使われるという著しい混乱が生じるはずがないのである。
あるいは「権利」も同様である。敵対する可能性をもった対等な者同士がお互いに納得できる利害の公正な妥協点をみつけるために
この概念があるのだとすれば、敵対性の存在しない社会にはそもそもこの概念は必要がない。ゆえに、社会内在的な敵対性を否認する日本社会では、
「正当な権利」という概念が根本的に理解されておらず、その結果、侵害された権利の回復を唱える人や団体が、不当な特権を主張する輩だと認知される。
ここではすべての権利は「利権」に過ぎない。会社はあるが社会はなく、利権はあるが権利はない。
まさにこうした「敵対性の否認」に基づく思考様式にどっぷり浸かった層が今日の反知性主義の担い手となっているのは、実に見やすい道理である。
(白井聡著『主権者のいない国』反知性主義より)
世界の中心を神から人へと移すこと、
つまり広義のヒューマニズムの原理の確立を伴っていた。
それゆえ、近代の学問は、「人間性の完成」という理念を、
相当に形骸化していたとしても、掲げてきた。
人間の知性の限りない発展は、統制的理念としてではあれ
人間性の最高度の発展を実現するという究極目標を持ち、
学問の発展はそれに貢献するものとみなされてきた。
しかし、いまわれわれが諸学問において目撃するのは、
こうした理念の死滅である。
つまり高度な知性と豊かな内面性を持った人間という理想像は、
いまやタテマエとしても消滅した。
「人間は死んだ」のである。
↓ ↓ ↓
次に指摘されなければならないのは、
深いシニシズムがデモクラシーの基盤に据えられるという事実である。
いまや政治が「みんな」の利害を代表することが構造的に不可能であるのなら、
「グローバル化の促進が自らの階級的利益に反することを理解出来ない
オツムの弱い連中をだまくらかして支持させれば良いではないか」
このシニシズムが小泉自民党の赤裸々な本音だったのだろう。
こうした変化は、被治者と治者とがお互いに対して抱く感情の基礎が、
「信頼と敬意」から「軽信と侮蔑」に転換したことを意味しもする。
↓ ↓ ↓
立木は、新しい主体の在り方の核心には「否認」があると述べている。
精神分析学における「否認」とは、簡単に言えば、心の防御機制の一つであり、
外界の苦痛や不安な事実をありのままに認知するのを避ける自我の働きを指す。
「抑圧」との違いは、「抑圧」において「抑圧されたもの」が無意識の領域へと追いやられて
意識的に想起できないのに対して、「否認」においては、
現実を認めてしまうことで喚起される不安を回避するために、
現実の一部または全部を、それを現実として認知することを拒絶するところにある。
「わかっちゃいるけど、やめられない」と言う名文句があるが、
これは「否認」の心理状態を唄ったものと言える。
↓ ↓ ↓
そうした主体は、目下流行している言説に同調し、自分の歴史=物語を持たない。
言い換えれば、過去や祖先や系譜に対して引き受けるべき負債を持たない。
ネオ主体はだから、何でも自分を基準に選びたがる。
たとえば、自分の子供にオリジナルな名前、たとえば花やクルマの名前をつけることをためらわない。
↓ ↓ ↓
教養主義的主体とは弁証法的主体であり、経験を通してそれまでの主体が否定されることでより高次の主体へと生成する、という所作を繰り返す。
かかる運動は否定性を通じた生成であり、ヘーゲルが「否定的なもののもとへの滞留」、
「死に耐えて死の中に自己を支えその中に留まる生こそが精神の生である」と言ったものに他ならない。
↓ ↓ ↓
ここで注目すべきは、「暴力」という言葉が_その正当性にも関わらず_広範な反知性主義的批判を呼び起こしたことであるように、私には思われる。
つまり、他でもなくこの言葉が反知性主義の噴出のきっかけになったという事実に、日本の反知性主義の特質が表れていると感じられるのである。
露になったのは一種のアレルギー反応、「否認」である。
すなわち自衛隊や警察とは、その本質上暴力装置であり、そうでなければならないという当然の事実が否定されなければならない、というところに
日本の国家主義に関係する反知性主義に特有の「否認」の構造を見て取ることができる。
つまり、国家の根幹には暴力があるという普遍的な事実が、この国では否定される。しかし、言うまでもなく、国家による暴力は存在する。
ゆえに、その暴力は、いわば、暴力であることを自ら否定する暴力、すなわち否認に貫かれた暴力として行使される。
↓ ↓ ↓
このような特異な暴力およびそれへの認識の在り方を示唆することによって私が念頭に置いているのは、天皇制国家における暴力である。
それは戦前戦中の共産主義者への弾圧、「転向」現象において、最も苛烈かつ典型的なかたちで表れた。
国家による思想信条の弾圧は古今東西ありふれた現象であるが、日本で起きた転向現象において特異な点は、
そこに介在した権力の温情主義である。特筆すべきことには、天皇制国家は反抗者たちに対して苛烈な暴力をふるったのと同時に、
「優しく」接したのであるが、この二面性は矛盾ではなかった。
↓ ↓ ↓
ゆえに、天皇制国家原理においては、「国体の変革」を企てることとは、端的に不可能なこととして観念されていたと考えられなければならない。
日本人である限り、かかる考えを持つこと自体がそもそも不可能なのであり、したがって治安維持法違反などという犯罪は実はあり得ない。
言い換えれば、国家権力と国民が対立するということが国体の論理においては不可能なのであり、
このような不可能性が、日本が「万邦無比の国体」を戴く特別な国家である_他の国家ではかかる対立が実際に生じている_ことの証左とされていたのであった。
↓ ↓ ↓
だから逆に云えば「国体の変革」という観念を信奉することとは、この国が家族の如きもの、矛盾葛藤なき「愛の共同体」ではない、
そこには解消し得ない敵対性が内在しているという観念を確信することであった。そして治安維持法は、まさにこのことを禁じたのである。
この観念を捨てることとは、社会内在的な敵対性という「否定的なもの」の存在を否認することで、「愛の共同体」に復帰することに他ならない。
そして、愛の共同体の成員たちは、これを真摯な改心として受け容れる。
↓ ↓ ↓
「家族国家としての日本への復帰」という転向のモチーフは、転向現象の大局的な構造において見出されるだけでなく、
転向を促す際の手段としても積極的に活用された。日本に復帰することは、家族の愛に目覚め、家族に復帰することと重ね合わされたのである。
↓ ↓ ↓
赤軍戦士のやったことは最悪の愚行であり、私は一片の共感も持ち得ない。
ゆえに、赤軍戦士の母は、息子たちの行動を理解し共感すべきだということではない。
だが、それでも私は、母たちのあのような行動はあまりに無惨なものだ、と考える。
なぜなら、いかに意味不明で単なる愚行に過ぎない行為に見えるとしても、
当人には当人自身の考えがある…たとえそれがいかに道理から外れたものであっても。
言い換えれば、息子には一個の人間として主体性があるという事実を、
この行為は無効化しようとするものに他ならないからだ。
かつそれは、息子たちの行為に伴う責任を免じようとするものでもある。
当人には自身の考えがあり、したがってその考えに基づいて行動することにおいて、
それに伴う責任はすべて本人がとるべきものだと考えるならば、
銃撃戦による死も含めて行動がどのように展開しようとも、
それは第三者が容喙出来る事柄ではない。
↓ ↓ ↓
要するにこの国には「社会」がない。社会においては本来、
その構成員のあいだで潜在的・顕在的に利害や価値観の敵対関係が存在することが前提されなければならない。
しかし、日本人の標準的な社会観にはこの前提が存在しない。
そうでなければ、「社会」という言葉と「会社」という言葉が事実上同義で使われるという著しい混乱が生じるはずがないのである。
あるいは「権利」も同様である。敵対する可能性をもった対等な者同士がお互いに納得できる利害の公正な妥協点をみつけるために
この概念があるのだとすれば、敵対性の存在しない社会にはそもそもこの概念は必要がない。ゆえに、社会内在的な敵対性を否認する日本社会では、
「正当な権利」という概念が根本的に理解されておらず、その結果、侵害された権利の回復を唱える人や団体が、不当な特権を主張する輩だと認知される。
ここではすべての権利は「利権」に過ぎない。会社はあるが社会はなく、利権はあるが権利はない。
まさにこうした「敵対性の否認」に基づく思考様式にどっぷり浸かった層が今日の反知性主義の担い手となっているのは、実に見やすい道理である。
(白井聡著『主権者のいない国』反知性主義より)