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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Sep_11】やまゆり園と『さようならCP』

2019-09-11 | ACT!
やまゆり園事件から3年『今こそ愛を、家族を、問う』(IMAJUクロスオーバー談義/牟田和恵×金満里)

毎回、自分の至らなさを痛感する冊子『IMAJU』最新号、今回もシビれました。
【障碍者は政治的な存在だと思うんですよね。みんなの潜在意識の中にある、
一番役に立たへんから殺していい存在なんやっていうような、
そんな決めつけこそが政治的扱いの最たるものなのに。
でも障碍者を政治的な存在だという風には誰も認知していない。
政治と関係ない扱いをされて、そして政治を問題にしない方向へと
ますます利用されてしまったと思うんですよね】…という金さんの言葉にずしん。

原一男監督の映画『さようならCP』で、

脳性麻痺の横田さんが横断歩道や電車の中、地下街で
車椅子から降りてひたすら動かない足を使って移動するのだけど、
1970年当時の日本は、それこそ障碍者を完全にシャットアウトして外在者扱いにし、
健全者の日常を円滑に動かすことだけモーレツに考えていた社会で、
CPの彼らに対しての凍てつく目線と言ったらないのだが、
その障碍者排除の背景には政治が色濃くあって、
日常から排除し施設へ追いやる行為の後押しを【空気】のように動かしているものがある。
その見えない圧力やら見えない常識といったものが【政治】そのものだということを、
この映画は現していて、健全者をタテマエとする社会の成り立ちが50年経って
さらに色濃く出てきているのだわ…と思わされた。

そんでもってフェミニズムの観点から見た母親の存在。

【母親から一緒に死のうかと口に出して言われるってのはもう、
一回や二回必ず経験してるんですよね。障碍を持った私らは。
それを入り口として、自分らは在ってはならない存在なんだと常に教えられるのが、
母親経由なわけなんですよね】

【こんなに大変な不自由な身体の子どもを、
自分は一人で踏ん張って介護して来たんだということを砦にする。
女の人のその家族関係の位置の取り方でそれを余計に使われるところがあってね。
だから自立を阻んでくる、お前は私なしでは息の根が止まるんだぞ、みたいなことで。
だから関係の中でもまた閉じている。
障碍者の方から言うと生まれてきてなんで悪いんやと思っているのに、
悪いことだと意識付けさせてくる、産んでごめんなさいは、
つまり生まれてきてごめんなさいと言われてることなんですね。
その母親の存在を超えないと、絶対に自己確立が見えない。
だけど、親を問題にしたいと思っても愛も注いでるんで非常に見えにくい】

【その人が物理的に言語を発することができないとしても
その人の人間存在としての要求、それを代弁、
代理してくれる第三者があって当然なんですよね。
それをするのが親だけというのは確かにおかしい。
親はそれをやらない、やれないんだから】

家族という幻想がどうしてここまで大きくなってしまったのか。
これも結局、『一億一心』の大東亜思想が根深い故かとも思うのだが、
それもつまりは政治的規範で指向が定められてしまっている証左なわけで。
世に蔓延る【障碍者性善説イメージ】って、言うなれば母性幻想の拡大で、
いつまでも庇護の下という印象操作が【自律】にそぐわない行為・欲求を排斥してきた。
だから障碍者はSEXしない&できないで、語ることもタブーの空気を醸成してきたように思う。


『さようならCP』で原一男監督の言葉で印象的だったのは、
「障碍者は車椅子介護によって、どこへ行くにも自分の身体と向き合うことなく、
養護学校から作業所へと移っても相変わらず車椅子で、その身体性を体感せずに死んでいく」という言葉で、

故に横田さんの身体を引きずり回すのだけど、劇団態変のやってることはまさにコレやんと。

自分の身体でこの世界と対峙し、ひとつひとつ実感を伴って生きることが、
ホントの意味での生きていることの本質を見いだせるし、
それが【自律】を獲得するために必要な行為なのだ…と。

戸籍制度が天皇制を下支えしている…という堀江有里さんのコラムも目からウロコで、ホント有難い冊子です。

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