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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Apr_10】教育をめぐる虚構と真実

2020-04-10 | BOOKS&MOVIES
「小さな国家で知られる新自由主義はふたつ柱があります。
ひとつは先に述べた財政破綻の回避。ところがもうひとつある。能動的市民社会性の護持。
【国家は社会の補完物に過ぎないのに、社会が国家に依存するのはおかしい。社会は自立しなければいけない】とする発想です。
新自由主義はもともと市場原理主義ではありません。

能動的市民社会性、社会の自立、国家から自立した相互扶助、社会的包摂といった概念がひとまとまりになっています。
これらは新自由主義というより、今日の欧州主義の柱です。
グローバル化は不可避だが、グローバル化に個人が晒されないように、社会の分厚さによって
包摂された状態が望ましいとする考え方です。
ただしサッチャーやレーガンが、伝統護持と社会的包摂と等値し、規律や道徳を前面に押し出したので、
今日「ネオリベ」と揶揄されるイメージになりました。
社会的包摂の空洞化による不安を利用して、感情浄化をもたらす重罰化や戦争を奨励するイメージです。
いわば福祉国家的なリベラルの時代への、バックラッシュでした。

今日ではバックラッシュにかわってグローバル化が問題になってます。
グローバル化は不可避だが、個人が直接グローバル化の嵐に晒されては大変だ。
でも国家が個人をダイレクトに手当する財政的余力もない。だから社会的包摂_自律的相互扶助_によって、
個人を守る必要がある。ただし社会的包摂の手段は、伝統にこだわらずオープンに考える、と。

日本は経済の好調もあって、国家の財政破綻が問題化するのが遅れました。
同じく、経済の好調が背景で、教育が抱える困難の問題化が遅れました。
91年にバブルが崩壊して以降、先進国から20年遅れで、財政問題や教育問題が主題化されはじめ、
リベラル派が自己決定化、分権化、民権化、市場化などを主張するようになりました。

僕もこうした流れにコミットしましたが必ずしもうまく行かなかった。理由はポストモダン化です。
いわば「外が消えた状態」がポストモダン化です。
〈生活世界〉を生きる我々の便益のために〈システム〉を利用するという観念が崩れた状態。
〈生活世界〉の空洞化と〈システム〉の全域化のせいですべてが〈システム〉のマッチポンプに見える状態。

〈生活世界〉が空洞化しているので、「〈生活世界〉に任せます」というタイプの分権化・民権化・市場化は、不安をもたらしがちです。
そこにグローバル化の波が重なるので、そうした傾向に拍車がかかります。
「隣は何をする人ぞ」「やったもん勝ち」「勝ち逃げ万歳」といった雰囲気になります。

それ自体がふたたび不安を増幅しますから、規律化要求、監視化要求、重罰化要求が上昇して、
それに応える【不安のマーケティング】や【不安のポピュリズム】が経済と政治を席巻します。
かくして、市場原理主義的なもの小泉純一郎的なものと、国家主義的なもの安倍晋三的なものが、カップリングを見せ始めます。

「市場原理主義がもたらす不安を国家主義的なもので埋め合わせる」という循環を断ち切れないと、
鈴木さんや僕が言うような「真・善・美の判断能力」と「コミュニケーションスキル」に重きを置く教育は、
「新しい勝ち組志向」の一種になってしまうでしょう。それを回避するにはどうするべきかです。

市場原理主義と国家主義のカップリングを早く終わらせるには
「市場原理主義がもたらす痛みは国家主義程度じゃどうにもならない」という経験が不可欠です。

それにはもっと経済的に貧窮する必要があります。

幸か不幸か必ずそうした方向に向かうでしょう。
我々に出来るのは「気付きまでの時間をできるだけ短縮すること」です。

具体的には「みんなで懲りる」ことが必要です。
文科省が言うような中央集権化を徹底して、国民が要求する規律化・重罰化・監視化を行っても、
いじめも犯罪もモラルハザードもなくならない。それどころか失敗を象徴するような大事件がいくつか起こる。
かくして「昔と変わらないどころか、悪くなってるじゃないか」と気付くことが重要です。


(宮台真司×神保哲生『教育をめぐる虚構と真実』より)