2017年から足繁く通っている銭湯の写真をまとめました。
【on_Flickr】THE_SENTO
消えゆく昭和の社交場〜銭湯。
「公衆浴場などではなく自宅で入浴するようになったことは、人々の自身の身体への意識、
羞恥心、身体への経年変化への感受性も大きく変えたと考えられる
簡単に言えば、自らの身体の変化のみに意識が集中し、老いは誰の身にも必ず訪れるものであることを
受け入れにくくなったと言えよう。他者の身体を実際に見る機会が少なくなり、老若男女、体型や身体がさまざまあることも
徐々に実感ではなく、観念的にとらえるようになった。」(山本芳美著『イレズミと日本人』より)
地域の人々の社交場としてあった銭湯。
色々な人がいて、色々なカラダがあって、
様々なことに寛容となる「公」の場があったからこそ、
共助の精神、公助の気持ちも培われた。
他者と対峙することで、自身を省みることが出来る。
昨今の「忖度」は、「公」の精神が薄れ、「私」に固執する余り生まれた態度だと、ボクには見える。
四肢を失った人や、腹や背中に大きな手術痕のあるお年寄りと風呂場を共にして、
さまざまな人たちと共生していることを実感する場、銭湯。
ハダカになれば、すべてが見える。そのような寛容性が、今は必要な時だと思う。
#photobybozzo
#銭湯
写真は板橋の「愛染湯」。
【on_Flickr】THE_SENTO
消えゆく昭和の社交場〜銭湯。
「公衆浴場などではなく自宅で入浴するようになったことは、人々の自身の身体への意識、
羞恥心、身体への経年変化への感受性も大きく変えたと考えられる
簡単に言えば、自らの身体の変化のみに意識が集中し、老いは誰の身にも必ず訪れるものであることを
受け入れにくくなったと言えよう。他者の身体を実際に見る機会が少なくなり、老若男女、体型や身体がさまざまあることも
徐々に実感ではなく、観念的にとらえるようになった。」(山本芳美著『イレズミと日本人』より)
地域の人々の社交場としてあった銭湯。
色々な人がいて、色々なカラダがあって、
様々なことに寛容となる「公」の場があったからこそ、
共助の精神、公助の気持ちも培われた。
他者と対峙することで、自身を省みることが出来る。
昨今の「忖度」は、「公」の精神が薄れ、「私」に固執する余り生まれた態度だと、ボクには見える。
四肢を失った人や、腹や背中に大きな手術痕のあるお年寄りと風呂場を共にして、
さまざまな人たちと共生していることを実感する場、銭湯。
ハダカになれば、すべてが見える。そのような寛容性が、今は必要な時だと思う。
#photobybozzo
#銭湯
写真は板橋の「愛染湯」。