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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【長文】03/11を迎えるにあたって思うこと

2012-03-02 | memories
1969年に生まれた。
70年代、80年代の経済一辺倒の時代に教育を受けて育った。
上の写真はおそらく75年頃の家族写真。

両親は理想的な核家族で
父親は一流企業の終身雇用を受け、
給料の年次昇給は約束されていたし、
母親は専業主婦で、家庭や子供の教育に
まなざしを注ぐことができた。

右肩上がりの約束された未来のために「貯蓄」は美徳とされ、
学歴を刻むことが将来を保証するかの如く、
絶えず上を目指すことが親の望みであり、子供の望みでもあった。

「将来は何になりたい?」

子どもたちの描く将来像は、判で押したように同じだった。
「野球選手」「お嫁さん」が常に上位にはいった。
理想的な家庭とは、目の前にある両親が築いた家庭であり、
社会全体がその輝ける理想に邁進していた時代だった。

バラ色の21世紀は、見事に一元化されていた。

90年代、登り切ったジェットコースターが奈落に落ちるかの如く、
ガラス細工の「理想の未来」は粉砕し、暗黒の世紀末が人々を震え上がらせた。

「地下鉄サリン」や「酒鬼薔薇聖斗」がノストラダムスの終末論をうながし、
デスメタルな除夜の鐘によって、「バラ色」の21世紀が普通にやってきた。

そして、911。テロリズムの跳梁跋扈…。

   ●

2012年3月11日。
東日本大震災からもうすぐ1年。

戦後から今までの歩みを振り返ってみると、
この現状は来るべくして来たように思われる。

まさか、せっせと貯め込んでいた日本の貯蓄が
アメリカの軍事費にどんどん回されていた…だなんて。

資本主義の基幹がアメリカの軍事産業だと知っていたら、
その「炉」の炎に焼べる薪が、世界一の貯蓄高を誇る日本のカネだと知っていたら。

世界の秩序を守ると息巻いて、
大戦以後もどんどん戦争をしかけ米経済を回し、
ドルの影響力を知らしめ、紙幣を世界中に配って外貨を稼ぎ、
さらにそのカネでもって戦争をオッ始める。

そのアメリカのお膝元で
せっせと薪を焼べていたのが、日本だとは。

    ●

「将来は何なりたい?」

そんな屈託のない問いに応えるように
年次昇給の大半を貯蓄にまわし、バラ色の未来を思い描いていた
ニッポンの愚直なサラリーマンは、
露程の疑いもなく日常を「やり過ごし」ていたのだ。

…嗚呼、戦後67年。

資本を増やすこと、営利を求めること、
…が「正義」で、ここまで来た。
ああ、…ここまで来てしまった。

もういいだろう。
しっかりともう一度振り返ろう。

「過去を書き換えるように未来を書き込んでいく」のだ。

    ●

「市民と市民の直接のつながりを考える思考(=Non Government)」
「社会的分配の公正をめざす思考(=Non Profit)」

人間社会には元々、「行政=公益」と「産業=私益」にバランスを取る「市民=共益」が必要なのだ。

なぜ、60年代、70年代の経済一辺倒の教育に、
この目線が含まれていなかったのだろう。

このオルタナティブな思考こそが、
今を切り開く唯一にして最良の道である。

少しずつだが、芽は出始めている。

「市民=共益」の視点。

それを為すためには、どのような思考が必要なのか。
67年の出遅れではあるけど、ひとりひとりが愚直に今を捉えれば、
きっと道は拓ける。

そこには、イノセントな眼差しこそが必須なのだけれど…ね。

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【mar_01】ピナ・バウシュとイ・チャンドン

2012-03-02 | BOOKS&MOVIES
毎月1日は映画の日。

なんとか時間を割いて2本の映画を観る。


ドイツの舞踊家pina_bauschへのオマージュを
「ビエナビスタ」のヴィム・ヴェンダースが3Dで昇華した作品。

 Dance,Dance,otherwise you are lost.
 踊り続けろ、さもなくば己を見失う。

圧倒的な「生命賛歌」。ここまでの踊りを、ボクは知らない。
3Dならではの空間の拡がりもすごいのだが、
ダンサーたちの「生きる」歓喜にはじける肉体に驚いた。
ダンスはここまでイノセントに生きることを全肯定できるのか。
人間の強さ、儚さ、悦びと哀しみ、愛し愛されたい願いと不安、
「やり過ごされる」日常の中で、置いてかれたまま放置される「純潔」。

ドイツの様々な都市や自然の中で表現されるダンスが、またイイ。

日頃アタマの片隅に追いやられていた「生きることへの純粋な悦び」を
呼び覚ますかのようにダンサーは己の「血の通った肉体」で表現する。

関節が動くことへの悦び、筋肉が収縮することへの悦び、
血が巡り熱が生まれ、汗腺から吹き出る汗が肉体を潤す悦び。

「生」そのものへのイノセントなまなざし。

ピナ・バウシュはその愉悦を伝えたくて、生きた。
ヴィムはその遺言を忠実に映像化した。
これは人間が生きることの「答え」そのものだ。
このようにカタチになったことは奇跡であり、人類の遺産だ…と思う。

おそらく「pina」を観た大半の人たちは、
「芸術は素晴らしい。私もそう生きたい…だけど日常はね」
と言って「やり過ごそう」としたかもしれない。

しかしイノセントな生きるまなざしは
日常にこそ育まれるのだ…と愚直に語る監督がいる。

イ・チャンドン_Lee Changdong。

たった5作しか撮り終えていないのに、
これだけの衝撃を与え続ける監督もいない。

夫を喪い、息子を喪いながらも、神に帰依して救われようとして果たされなかった
女主人公の壮絶な存在を描いた「シークレットサンシャイン」から3年。

今度は、詩を生むことで日常から脱皮する老女の姿を
「ポエトリー/アグネスの詩」としてカタチにした。

些末な日常に事件や病気やセックスが絡み、
それでも近視眼的にやり過ごされてしまう社会の中で
老女は突然「詩を書きたい」と詩作教室に通う。

自然をみつめ、言葉を紡ぐ努力をしながらも
一篇の詩すらカタチにすることができない日々が続くが、
身辺を凝視する作業の中で、はたと日常を「やり過ごす」コトができなくなる。

ここでもイノセントなまなざしが「生」に光を与える。

生きるコトの尊さとは、一刻一刻をどう過ごすか…にかかっている。
ピナの肉体による生命讃歌も、老女の言葉を紡ぐ行為も、
生きていることの不可思議に注ぐイノセントなまなざしが、在る。

今、必要なのはその純潔な、無垢な、まなざしじゃないだろうか?
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