20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹
人間は「他の人々と同じ」ように生きているだけでは、
ペストへの加担から逃れることができない。
人間は「より人間的になる」ためには、
自らへの倫理的負荷を「他者よりも高く」設定しなければならない。
そのことをこの語は含意している。
自らの本性的邪悪さを浄化してゆく不断の「自己超越」
(このような言葉遣いそのものはニーチェの「超人」思想とそれほど違うわけではない)
しかし、この「自己超越」は「超人」や「貴族」という(やや浪漫的な)語と
「紳士」という(凡庸な)語の語感の違いが正しく示しているように、
決して同じものではない。
カミュの「紳士」は何らかの種族的召命を地上に実現するためにいるのではない。
そのような壮大な企図は彼とは無縁である。
おそらく「紳士」が日常生活の中で実践するのは、
老母を敬い、妊婦に思いやりを示し、
一人の相手に二人がかりでかかってゆくのを
とどめるくらいのことにすぎないのかもしれないし、
ドアの前で「お先にどうぞ」と
人に道を譲ったりすることにすぎないのかもしれない。
しかし、この「日常的な営み」はある徹底した覚悟性に支えられている。
つまりそれは難破する船の最後の救命ボートの最後の席についてさえ、
にこやかに「お先にどうぞ」と言い切る決意をもって口にされているのである。
これは「謙譲」であり、「礼節」であり、ある種の「やせがまん」でもある。
【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA
人間は「他の人々と同じ」ように生きているだけでは、
ペストへの加担から逃れることができない。
人間は「より人間的になる」ためには、
自らへの倫理的負荷を「他者よりも高く」設定しなければならない。
そのことをこの語は含意している。
自らの本性的邪悪さを浄化してゆく不断の「自己超越」
(このような言葉遣いそのものはニーチェの「超人」思想とそれほど違うわけではない)
しかし、この「自己超越」は「超人」や「貴族」という(やや浪漫的な)語と
「紳士」という(凡庸な)語の語感の違いが正しく示しているように、
決して同じものではない。
カミュの「紳士」は何らかの種族的召命を地上に実現するためにいるのではない。
そのような壮大な企図は彼とは無縁である。
おそらく「紳士」が日常生活の中で実践するのは、
老母を敬い、妊婦に思いやりを示し、
一人の相手に二人がかりでかかってゆくのを
とどめるくらいのことにすぎないのかもしれないし、
ドアの前で「お先にどうぞ」と
人に道を譲ったりすることにすぎないのかもしれない。
しかし、この「日常的な営み」はある徹底した覚悟性に支えられている。
つまりそれは難破する船の最後の救命ボートの最後の席についてさえ、
にこやかに「お先にどうぞ」と言い切る決意をもって口にされているのである。
これは「謙譲」であり、「礼節」であり、ある種の「やせがまん」でもある。
【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA