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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Feb_20】これは「謙譲」であり、「礼節」であり、ある種の「やせがまん」でもある。

2020-03-04 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

人間は「他の人々と同じ」ように生きているだけでは、
ペストへの加担から逃れることができない。


人間は「より人間的になる」ためには、
自らへの倫理的負荷を「他者よりも高く」設定しなければならない。

そのことをこの語は含意している。

自らの本性的邪悪さを浄化してゆく不断の「自己超越」
(このような言葉遣いそのものはニーチェの「超人」思想とそれほど違うわけではない)
しかし、この「自己超越」は「超人」「貴族」という(やや浪漫的な)語と
「紳士」という(凡庸な)語の語感の違いが正しく示しているように、
決して同じものではない。

カミュの「紳士」は何らかの種族的召命を地上に実現するためにいるのではない。

そのような壮大な企図は彼とは無縁である。

おそらく「紳士」が日常生活の中で実践するのは、
老母を敬い、妊婦に思いやりを示し、
一人の相手に二人がかりでかかってゆくのを
とどめるくらいのことにすぎないのかもしれないし、

ドアの前で「お先にどうぞ」
人に道を譲ったりすることにすぎないのかもしれない。

しかし、この「日常的な営み」はある徹底した覚悟性に支えられている。

つまりそれは難破する船の最後の救命ボートの最後の席についてさえ、
にこやかに「お先にどうぞ」と言い切る決意をもって口にされているのである。

これは「謙譲」であり、「礼節」であり、ある種の「やせがまん」でもある。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_20】それをカミュは「紳士」と名付けた。

2020-03-04 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

私たちは存在しているだけですでに悪をなしている可能性がある。
私たちが生きているだけですでに他者に害をなしている可能性がある。

これがタルーの倫理の起点である。

だから、私たちにできる最良のことは、
あらんかぎりの努力をもっておのれの自分の邪悪さを抑えること
おのれを冒している病をこれ以上伝染させないことである。
そのような控えめな抵抗でさえ決して容易なわざではないのだ。
それを試みられる人間をカミュは「紳士」(l'honnête homme)と名づけた。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_20】ペストとは存在が自明だとするエゴイズムのこと。

2020-03-04 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

タルーが「ペスト患者」(pestiféré)と呼ぶのは「正義の暴力」の上に築かれる社会秩序に同意するものたちのことである。

彼は死刑宣告の上に成立する正義に同意することができない。
かといって「もはや誰も殺されることのない世界をつくりだす」ための革命闘争にも同意することができない。
そこでもまた革命的正義の名において暴力が無制限に行使されているからである。

正義の名において罪人に斬首を要求する裁判官も
「暴力を廃絶するための暴力」を正当化する革命家たちも、
ひとしく「ペスト患者」なのである。

「全員が自分の中にペストを抱えている。この世界では誰一人その感染をまぬかれることができない。」

それはペストとは「私」の「外部」にあって、戦い滅ぼすべき「悪」であるのではなく、
「外部」なるものを想定し、そこの「悪」を凝縮させ、
それと「戦う」という語法でしか「私」の生き方を語れないタルー自身の「症状」だということである。

ペストとは自分の外側に実在する何かではなく、
「私」の不幸の説明原理として、そのような「実体化された悪」をおのれの外部に探し求めずにはいられない
「私」の思考の文法をそのものだということである。

「みんな自分の中にペストを飼っている。
誰一人、この世界の誰一人、ペストに罹っていないものはいない。
だからちょっとした気のゆるみで、
うっかりと他人の顔の前で息を吐いたり、
病気をうつしたりしないように、
間断なく自分を監視していなければならないのだ。

自然なもの、それは病原菌だ。

(...)紳士とは、できるだけ誰にもペストをうつさない者、
可能な限り緊張していられる者のことだ。

「ペスト」とは「私」が「私」として存在することを自明である
とする人間の本性的なエゴイズムのことである。


おのれが存在することの正当性を一瞬たりとも疑わない人間
「自分の外部にある悪と戦う」という話型によってしか
正義を考想できない人間。それが「ペスト患者」だ。






【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_20】私が存在することの自明性についての疑念と不安

2020-03-04 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

「私」が他者を「殺そう」とするそのときに「私」を見つめ返すそのまなざしは
端的に「私」の暴力性、「私」のエゴイズム、「私」が存在することの邪悪さを、「私」に知らしめるからである。

他者のまなざしは、「私」が生き、呼吸し、空間を占拠し、太陽の光を浴びていることの正当性を揺るがす。

私が存在することによって、迫害され、権利を奪われ、空間を占拠され、
光を遮られている
他者がいることへの「疚しさ」が「私」の中に兆す。

「私」が存在することの自明性についての疑念と不安
「汝、殺す勿れ」の戒律が私たちのなかにひきおこす意識の攪乱はそのようなかたちをとる。



【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_20】「汝、殺す勿れ。」これが絶対的戒律である。

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

私の自由の前に立ちふさがり、
私の暴力の対象となっているその瞬間に「私を見つめ返すもの」を恐れよ。

これが唯一の戒律である。

あらゆる倫理はこの戒律に基づいて築かれることになるだろう。
こう考えると、『異邦人』でムルソーがアラブ人を殺すことができた理由が理解できる。

ムルソーが殺人に踏み込むことが出来たのは、均衡が達成されたからだけではない。
海岸での殺人の場面において、殺されるアラブ人の「顔」が訴えたはずの倫理的命令「汝殺す勿れ」はムルソーには届かなかったからである。

アラブ人の「顔」を最後まで見ることができなかったからである。
海岸を歩むムルソーは「灼けた大気」と「影」というふたつの遮断幕のせいでアラブ人の顔をうまく直視することができない。
そのときアラブ人がナイフを出して太陽にかざす。
「まさにそのとき、私の眉毛にたまった汗が転がり落ち、生ぬるく厚いヴェールで睫毛を覆った。
私の眼はこの涙と塩の幕で盲目となった。
(Mes yeux étaient aveuglés derrière ce rideau de larmes et de sel)」

拳銃を発射する前、ムルソーは瞬間的に「盲目」となった。
より正確には「盲目になる」ことによってはじめてムルソーはアラブ人を殺すことができたのだ。

ひとは盲目にならずには他者を殺すことができない。
「私」を見返す者を「私」は決して殺すことができない。


「異邦人の倫理」にこうして「抵抗の倫理」付け加えられた条件によって、
とりあえずカミュにとっての倫理の基礎づけは果たされたのである。

「汝、殺す勿れ。」これが絶対的戒律である。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_20】自由にはそれなりの限界があること、限界こそがこの存在の反抗の力そのものだ

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

「極限的自由、すなわち殺す自由は反抗の準則とは相容れない。
反抗とは全的自由の請求などではない。
反対に、反抗は全的自由をこそ審問している。
反抗はまさに無制限の権力に異議を申し立てる。
それは無制限の自由がある優越者に禁じられた境界線の侵犯を許すからである。
包括的な自由を請求するどころか、人間存在があるところはどこであれ、
自由にはそれなりの限界があること、
限界こそがこの存在の反抗の力そのものだ
ということが認められることを反抗は望んでいるのである。」

「私の自由」の極限的な発現とは、「他者の自由」の全的否定、すなわち殺人である。

だとすれば、人間の自由に境界線があるとすれば、
それは「殺してはならない」という「限界」に他ならない。
自由の限界はまさに「汝、殺す勿れ」という「戒律」のかたちをとって到来するのである。

この戒律は、いままさに殺されようとしている人間の、
それでも「殺そうとしている私」を見つめ返すまなざしから、
「自らを放棄せぬもの、身を委ねぬもの、私を直視し返すもの」のまなざしから、
訴えとして、祈願として、命令として、私に到来するのである。

「上位審級」なしになおかつ行動しうるための準則があるか、
とカミュは自らに問うた。この問いに彼はとりあえず次のような答えを得たことになる。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_20】ノモスは脆弱な仮設造営物にすぎないことがあばかれた。

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

理性の極北までたどり着き、カオスの縁から世界の無底をのぞき込んだあと、
自殺することも「跳躍」することも拒否した人間は「もとの世界に戻る」他ない。

それがカミュの選択である。

ただしそれは「不条理」以前のように、無反省的な酔生夢死をむさぼるための帰還ではない。
ノモスは脆弱な仮設造営物にすぎないことがあばかれた。
しかし、世界を超越する意味や永遠の秩序を夢見ることは「理性の自殺」にすぎない。

このふたいろの明晰な断念を携えて不条理の人間は世界に帰ってくる。
このような推論を経由して、カミュはニーチェが残した冒頭の問いを見出すことになる。

「上位審級なしに生きることが可能かどうかを知ること、
それが私の関心のすべてである。私はこの問題領域から一歩もでるつもりはない。」


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_19】いまや大衆が権力者なのだ。彼らが「判断し、判決し、決定する時代」なのだ。

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。
ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、
「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないのだ。

「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。
このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」

いまや大衆が権力者なのだ。彼らが「判断し、判決し、決定する時代」なのだ。

 大衆社会とは、自己満足、自己閉塞というふるまいの結果、個人が原子化し集団が砂粒化した状態である。
この「分解への傾向」をオルテガは「野蛮」と呼ぶ。

「あらゆる野蛮な時代とは、人間が分散する時代であり、
たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」 

そこには、自分とは異質な者と対話を試み、
ある種の公共性の水準を構築し、
コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如している。

「共同生活への意志」をもつもの、それが市民であり、オルテガのいう「貴族」である。
オルテガによれば、「貴族」の条件は身分でも資産でも教養でも特権でもなく、
この「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、対話する力のことである。

つまり、「貴族」とはその言葉のもっとも素朴な意味における「社会人」のことなのである。
社会とはほんらい貴族たちだけによって構成されるべきものなのである。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA

【Feb_19】20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ

2020-03-03 | LA
20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

大衆社会は、それがどのようなテクノロジーによって満たされ、
成員たちにどのような政治的特権を配分していようとも、
自己開放、自己超克の契機をもたないかぎり、本質的に「野蛮」な社会である。

なぜなら、大衆というのは本質的にきわだって「政治的」な存在であり、
大衆社会の究極の言葉は「私には存在する権利がある。私は正しい」に集約されるからである。

それに反して、貴族社会とは「私の存在する権利」「私の正しさ」つねに懐疑されるような社会のことである。

「私」には「私以外のもの」に優先して存在する権利があるのかどうか、
「私」には「私以外のもの」を非とする権利があるのかどうかを
終わりなく思い迷うような人々によって構成されている社会である。


【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA