goo blog サービス終了のお知らせ 

#photobybozzo

沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【Mar_23】大斎原

2013-04-09 | KUMANO
おおゆのはら…と読む。明治22年の大水害で流されるまで本宮があった場所。
熊野川・音無川・岩田川の中州に今の8倍の大きさで、存在していた。

中州に建立すること自体無謀な話だが、人間の驕りがそうさせたに違いない。

  「明暦丙申立」と裏にある石碑に、「禁殺生穢悪」とあった。
  神社の中で、殺生や、穢れや、悪を禁ずるとの意味であろうが、
  紀伊半島の土地土地を経巡る途中の私には、それはことさら眼に付いた。
  つまり、楷書でしっかりと書き彫り上げた石碑の筆遣いから、
  その筆を持って文字を書く人間の、自信と驕りに対する驚きと、反感だった。
  自然は、八百万の神々はそんなに生易しくない。自然はもっと生き生きとある。
  そう思った。神々は一度や二度、打ち倒されてもなおもぞもぞと生きながらえてある。
  自信と驕りとは、つまり堕落のことだろう。本宮という神の場所ではなく、碑に文字を書いた人間、
  それを建立した者の人為が、この本宮という場所を、閉塞させている、と思った。
  神の場所とは、貴と賤、浄化と穢れが還流し合って、初めて神の場所として息づく。

                        (紀州「本宮」中上健次)

実際、一遍上人の時代は、貴賤入り乱れた場所だったらしい…のだけど。


【Mar_23】八咫烏

2013-04-09 | KUMANO
八咫烏の八咫(やた)とは、咫=親指と中指を開いた長さ八つ分、
つまり三尺二寸(1メートル)ほどの大きな烏…という意味。

中国では太古の昔から、太陽の中に住む3本足の烏を「金烏」、
月の中に住む兔を「玉兎」と名づけ、太陽と月を崇めるシンボルとして親しんできた。
日本には奈良時代以前に伝わってきたようで、法隆寺の調度品に「金烏玉兎」が描かれている。

今でも月の中には兔が住むことは自明だが、
烏については悪鳥のイメージが幅をきかせているため、
誰も太陽の象徴と崇めることはない。

慈鳥孝鳥とされた烏は、夜明けとともに朝日に向かって飛び出し、
日没には夕日に向かってねぐらへ帰るので、その姿が太陽と結びついた。

また方角を知る鳥として、道に迷った神武天皇を熊野に導いたことでも知られている。
日本サッカー協会のマークも、相手のゴールに導く鳥として八咫烏が使われている。

死と再生を願う古代の太陽信仰とつながる、熊野の八咫烏は、
日本人の死生観を探るキーワードなのだ。


【Mar_24】中上健次

2013-04-07 | KUMANO
中上健次(1946.8.2-1992.8.12)。
新宮市のはずれ、南谷墓地にて。

お彼岸の時期だったので、
読経するお坊さんの声が遠くから聞こえてきたりして、
健次の大きい背中が見えたような気がした。

熊野ではサカキとなる梛が、献花といっしょに供えられる。
「千年の愉楽」で半蔵が誤ってナタで切り、山の神の祟りを引き起こす、あの神木だ。

【Mar_24】「路地」

2013-04-06 | KUMANO
中上健次の「熊野サーガ」の発祥となった新宮市春日の付近。
ここの踏切を健次少年は行き来していた。
「路地」と呼ばれた健次の生家はすでに開発され、
県営住宅の棟が連なっていた。

トタン板の錆び付いた変色が、その名残を見せる。

【Mar_22】那智大社

2013-03-25 | KUMANO
商店街ではパネルで景勝地を展示。
この寂れた感じが、たまらない。

今回、とにかく思ったのは、
世界遺産にまで高められた景勝地でも、
こんなに力の抜いたままで居られるのだ…ということ。

オキナワの世界遺産認定後の変化を知っているので、
どこもかしこもカネに目がくらんだような風情かと思いきや、
ここ熊野は、まったく意に介さない力のぬけっぷり。

いや、この自然な感じが、とても好感持てた。