私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

蚊屋采女   <吉備の国の美女達‐8>

2007-09-21 10:39:10 | Weblog
 七月に『吉備の国の美女達』で7人の美女取り上げました。この前の吉備津神社の研修で行った加夜奈留美命神社の「加夜」について調べていますと、日本書紀の中に、もう一人、吉備の美女を発見しました。8人にもなります。
 その人の名は「蚊屋采女」という人です。
 
 飛鳥時代から平安の初めまで、日本各地方の豪族が人質として自分の娘を送り、天皇に献上していました。この女性を「采女」と呼んでいました。大体、全国から60人程度の采女が選ばれて天皇に仕えていたという事です。
 その選定条件の第一に挙げられるのが、『容姿を厳選する』でした。その国の第一級の美女がなっていたということです。だからこそ、中臣鎌足が、天皇から采女を「頂いちゃった。頂いちゃった。」と、有頂天になった歌が万葉集にあります。男として、如何にうれしかったか、他の者が決して手にすることが出来ない特別な女性を頂いたのですから、その心が、手に取るように分ります。
 この采女は天皇に献上されたのですから、勝手に誰かを恋するなどという私事は許されていませんでした。天皇の者ですから。
 書紀には、舒明天皇の時、采女と情を取り交わした男を処罰する時、その責任を負って三輪君小鷦鷯(ヲサザキ)という男が首を切って自殺するという記事が見えます。
 また、万葉集にある吉備津采女の入水自殺も恋人との結ばれぬ恋のためであったようです。そのほか色々な悲劇がこの采女制度から生じている事は確かです。
 これなどは総て、采女がその時代その地方を代表する美女だったことから起った悲劇だったのです。
  
 幸い蚊屋采女は、舒明天皇に大変愛され妃となり、蚊屋皇子を生んでいます。非常に貞淑な女性のようでした。

 吉備地方からも沢山の采女が選ばれて朝廷に上ったと思えますが、歴史に残る美女が相次いででたという事は、この地方にいかに美女が多かったかという証になります。
 それは、又、朝鮮系の人たち(加夜)との関連からも語られるのではないでしょうか。他民族との交わりが美男美女を生む生物的な基となるという説を、以前、どこかで聞いたように思います?。