私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

中秋の名月

2007-09-25 12:30:42 | Weblog
今日は「中秋の名月」(8旧暦8月15日)です。
 唐の飲兵衛詩人であった白楽天も、この月を見て『この良夜を如何せん』と歌っています。日本だけでなく中国や朝鮮でも名月として親しまれてきたようです。日本では、『月を玩(もてあそ)ぶ』とも言われ、月と一緒になって夜を楽しむという宗教的な感情が入っているのではと思えます。『月見に一杯』という言葉にもある通り、大方は、月を友としてお酒を飲んでいたようです。また、この他に『芋名月』と呼ばれたこともあったようです。これは、この日にサトイモの醤油の煮っ転がしをお供えしたから、そう呼ばれるようになったようですし、古老の話しによると、その他、『団子名月』『栗名月』とも呼ばれていたということです。
 それぞれ芋と一緒に栗やお団子を、三宝に入れて高盛にしてお供えします。なお、「めいげつ」は「名月」「明月」共に使うようですが、一般いは名月のほうが多いようです。
 
 話がいささか脇にそれますが、このお月見の行事からもわかるように、大神神社と一緒で、神様は、空行くお月様で、特別な神殿は設える必要はありません。これが神社の基本の姿で、どの神様の最初は、このような神殿のない拝殿だけの大神神社様式であったのではとも思われます。

 さて、我家でも、今夜月見の宴を、孫達と一緒に催します。今から里芋を掘りに畑に行きます。

 さて、この名月について、先生は「松の落葉」の中では何も述べてはいませんが、別の随想録;『松屋文集』の中では、この名月の夜のことについて、名文を書き綴っておられます。
 少々長くて文語体なので読み辛いとは思いますが、一杯やりながら月を眺めながら声に出して読んでみてください。家族で皆でお楽しみいただけたらと思います。
      
    
   ・山家の月という事を;
 『身を隠すべき宿を求めて、山里にうつろい住みそめたる頃、しも秋なりければものさびしさ やらんかたなし、されど、世の浮に思いくらべつつ念じおる。
 ようやく住みつきて、椎葉の風にそよめく音も耳慣れぬれば、いとうものすごくもあらず。さるかたに、おかしきことども多かる中に、月の明き夜こそ、あわれさもおかしさも、とりどりにいみじけれ。程なき軒端なればうちもあらわにさし入りて、さうじに松の影のうつりたるなど、さながら絵にかきたるようなり。
 「あまりくまなきよはの月かな」と、打ずんじつつ、あくがれいづる木の下道もたどたどしからず。岩もる音のさやかに聞ゆる方をと、めざし行きてみれば、水の清らかなる流れに宿れる影、いとしずかに見ゆ。月もかかるところはすみよきにこそ。』


 私事(ひとりごと);
 高尚先生が、京都遊学から、再び、この吉備津にある自宅『松屋』に戻られて直ぐの秋の風景であったようです。
 我;郷里にも、こんなにわびしい秋を、自分と一緒になって慰め語ってくれる山里の自然があったのかと、思い知らせてくれたまわりの風景の美しさに、改めて驚きもし感謝もしたのではと思います。
 
 障子に写る松の影にも、えもいわれぬ趣があります、行く道のなんとなく単純で、しかも、単純さゆえに、その中にかえって面白味さえ描き出している月影頼りに、ゆっくりと歩を進めるとに、やがて、谷川の水音もさやかに聞こえてきます。そんな清らな音につれられて、谷川の岸辺に立つと、ちょろちょろと流れる谷水の中に、月影が写し出されています。
 お月様もこんな清らな谷水に映し出され、きっとうれしかろうと、自分のこころを月影に同宿させて、田舎住まいの自分のわびしさをあきらめ紛らわせておるのではとも思いました。

 ゆっくりと声に出して読んでください。


 
 蕪村の句にこんなのがあります。

  月天心 貧しき街を 通りけり

 この「山家 月という事を」という随想をお書きになった時かどうかは分りませんが、高尚先生の和歌にもこんなものがあります(吉備国歌集より)

   何を見て 物おもうことを なぐさめむ
             秋しも月の さやけからずは
   すみのほる 影さやけきも ことわりや
             今宵そ秋の 中山の月