地方の三文小説家「東義久」の独白

東義久のブログです。

門脇禎二先生が亡くなりました

2007-06-19 21:43:06 | ひとりごとの部屋
 門脇先生が平成19年6月12日に亡くなりました。
 その日の朝、奥様の幸子さんから電話をいただき、覚悟はしていたものの呆然としてしまいました。
 その10日ほど前、奥様から先生の意識が無く、危篤の状態だと電話をいただき、大崎康弘さんと病院に行ったのですが、そのとき、意識のなかった先生が突然、目を覚まされたのです。
「東です、先生、元気出してくださいよ」
 と、いうと、先生はうんうん、とうなずいてくださったのです。
 看護をされていた娘さんが、ありえないことだと驚いておられました。
 そんなことがあっての奥様からの電話だったのです。
門脇先生にはぼくの拙著「絵がたり山城国一揆」の帯文をいただいています。
 それだけに限らず、なにかことあるごとに世話のかけっぱなしでしたが、その都度いやな顔をせず聞いてもらいました。
 早いものでもう一昨年になりますが、頼まれて講演を依頼したところ、講演の最後には、ぼくとのかけあいでの質問も了解していただきました。
 ぼくが編集長をしている山城郷土史研究会の機関誌「やましろ」に、そのときの先生の講演とかけあいは掲載させていただいていますが、掲載にあたっても快諾をしていただきました。
 その後、「50年後の記憶」と、題して各界の方から原稿をもらい1冊の本としてまとめればおもしろい、ということで、先ずはそのトップバッターとして門脇先生に相談すると、興味を示され話に乗っていただけたのでした。
 先生の家で、雑談形式にお話を伺いました。
 それは歴史だけの話に限らず、幼いころの話や、故郷の高知の話、教育のことと多岐にわたりました。
「ある出版社から、こんな身辺雑記のようなものを出さないか、といわれてる。東くん手伝ってくれるか」
 そんな中で、先生がいわれたのですが、結局は出来ずに終わりました。
「NHKが今度、ぼくの説に沿った番組を作ってくれるんや。ありがたいんやけど、門脇説ばっかり採りあげていたら、日本の歴史界からソッポをむかれるぞ、というておいた」
 話の中で冗談ぽくいわれたり、とても貴重な濃密な時間を持たせていただいたと思っています。
 ひとつ印象に残っているのは、
「東くん、ぼくがこれまでやって来たことは虚業やったんやないか、と思うんや…」
 と、いわれたことです。
 あの喧嘩門脇と呼ばれた先生の意外な一面に驚いたものでした。
 もちろん、体力的に弱ってられたこともあったのでしょうが、学者としての責任感といったものを、ぼくは痛烈に感じていました。
 2,3年後には「50年後の記憶」が出せればと思っています。
 門脇先生、ありがとうございました。
 安らかにお眠りください。                     合掌。
 
 

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1 コメント

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重たい独り言 (絵夢)
2007-06-22 23:15:20
鬼さま

悲しみの重さと 責任の重さでしょうか・・・
先生のご遺志を継がれる方がいるって 仕合わせなことだと思います。
きっと鬼いさんの声を聞いて安心して旅立ったのですね。

500年前の山城を旅して私が一番に得た収穫とは、
「悔いは残したって良いんだ・・・ただし生きてるいる間に誰かと約束さえしていれば」
と、いうことです。100年、200年後に生まれ変わった自分が
必ず、その時の約束を果たしてくれるのだから。
絵空事かな・・・私はそう信じています。
2、3年で引き継ぐ人があれば最高の仕合わせです☆

鬼いさんが提示してくれたんです。そして山城が教えてくれたんです。
読者は作家にとって鏡なのかもしれませんね。
私の言葉は 鬼いさんから引き継がれたものです。
但し・・・この後に引き継げる自信はありませんが・・・

不思議なもので 我が家には門脇先生の単著が1冊と
古代史シンポジウムの討論を収録したものと序論を書かれたご本があります。
本棚にあっても手を伸ばすことの無かった自分とは無縁の本でしたが
鬼いさんを通して始めて触れることになりました。
『絵がたり 山城国一揆』の帯を飾って下さったお言葉には愛がありますね。
私もこの絵がたりを読んだ時には 誠に僭越ながら 門脇先生と同じような感想を抱きました。

いろいろとご縁があって 次々と自分の引き出しにあった物を引き出していただいているようで有り難いです。

鬼いさんは まだまだ若いです。門脇先生のお年まではたっくさんの事が成せます。
それにくっついて学んでゆける・・・そんな私の毎日が楽しくてたまりません。


門脇先生に合掌。

追伸・・・ブログへ お帰りなさい。読んでいます(^^)追々・・・


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