ねーさんとバンビーナの毎日

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宗教、神様

2017年01月18日 11時53分22秒 | 考えるねーさん
今週末から遠藤周作の「沈黙」が公開されるにあたり、色々と情報が目に付いたり、耳に入ってくる。

相当大雑把に言えば宗教が権力によって迫害される話だけど、宗教となると思想が絡んでくるから、やはり「よろしくない」とされるものに規制をかける力が働くのは致し方がないことだろう。

ここを規制なしでフリー(×自由)にしたら、極端な話、オウムやイスラム国のように人を殺戮することを肯定してる思想の宗教までも、

「それを信じてる人達とすら寛容な心で認め合うのか?」

となってしまう。


ものすごい極論だけど、

「神様にすがる」

って、何にもならない、実は。


神様が見える化してあってあちこちの「神がいる」とされてるところにまつられてようが、あれらは自分の中にいる神様と対話する機会の為に作られたものにすぎない。


「あぁ神よ、、、」とお祈りだけしてても、何も変わらない。


お祈りのその先に、

「自分が自分で答えを導き出す鍛錬をしなくちゃどうしようもないことに気付けるか?」

ないんだわなぁ。


神様は何も喋らないんです、、、
沈黙してるだけ、、、
助けもないです、、、

永遠に。

自分で答えを導き出さない人には神様は何もしない、いや、しようがないのです。


宗教団体は組織体だけに私は(基本的に)嫌いです。

「存在する色々な宗教の思想がどんなもんか?」は知りたいけど、いくらその思想や教えに納得しようが、組織体に所属することになって上下関係が出来上がるのは、どうしようもなく苦手なのです。
「所属することで安心出来る人たちがいる」ということは寛容してますが。

安心感欲しさだけで宗教馬鹿になるのもある意味恐怖すら感じるほうで。苦笑
だったら自分で答えを導き出す試練にチャレンジしてたほうがかえって安心出来るほうで。
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