10日の土曜日に父の兄が82歳でその人生を閉じ、12日(月)が通夜、13日(火)が告別式であった。
久しぶりの静岡行き。
久しぶりの親戚や従兄弟やはとことの再会。
この叔父はもうかれこれ15年も前に奥さん(嫁)を亡くしていて、それこそ亡くなった当時は仏壇の前で毎朝毎晩「オレを早く呼びに来てくれ。なんでオレより先に逝くんだ・・・」ってそれはそれは同居している従兄弟達が「ちょっと気がおかしくなったかね・・・?」って心配するほど傷心してたようなので、やっとあの世で奥さんと再会できて安心してるに違いないだろうと思う。(願う。)
13日になる明け方というか、夜中に、オバチャマの夢にこの叔父の弟であるオバチャマの亡き父が夢に出てきたから、「なんだろなぁ・・・このタイミング・・・」っていうか。
静岡でも静岡市内よりちょいと西にいった田舎(浜岡は案外近い)だから、なんとゆったりした時間の流れ方だろう。
空の色も違うし、雲の形も違う。
「これでも同じ日本なんだもんねぇ・・・
都会が変化がめまぐるしすぎるんだわねぇ・・・」
って改めて感じるんだよねぇ。
静岡自体、穏やかな気候と産業も発達してるから、食べるに困らない、働くに困らない、っていうのがあるのか、「都会に出て暮らしたい」って願望があまりにも無いのが不思議。
はとこ♂も名古屋のとある大学を卒業して証券会社に就職したものの「都会は暮らせない、特に何がいいもない。」って静岡に引っ込む始末。
そのくらいどうやら静岡は暮らしやすいらしい。
というか、確かに時間の流れ方とか道理に乱れ(作り込み)が無いって感じがするんだわなぁ。
ちょっと足を伸ばせば、東の都会があるし、西の都会もあるから、わざわざ出るまでしなくても、満足しちゃうんでしょうねぇ。
父の実家、もうず~~~~っと曹洞宗(本山が例の鶴見の總持寺と福井県の永平寺の宗派ですね。仏教ってやつですね。)のお寺さんの檀家になっているから、お葬式が曹洞宗のやり方で、お坊さん4人がお経をあげてくれた。
祖父祖母の代の頃は自宅から出棺して(庭をぐるぐる廻るのね)お寺さんに出向いてそこで(長々)儀式があり、自宅で(仕出し屋さんに頼んで)精進落とし・・・って風だったかと記憶するが、今回の叔父はもうすべてを葬祭場で執り行ったんで、「時代だなぁ・・・」と実感。
「都会の一般家庭が葬式出すんじゃなかなか坊さん4人なんか来ないよなぁ・・・」
なんて思いつつ、お経とかお説教に聴き入ってしまった。
母なんかは、
「お坊さんを沢山呼べばそれだけお金も倍の倍ってかかるからねぇ・・・
まぁお父さんの家は代々あのお寺さんの檀家さんになってるからお付き合い上そうもいかないっていうのもあるかもねぇ・・・」
なんてゲンキンなことを言っていたが。(苦笑)
中心に座っているのがメインのお経をあげるお坊さんで、
右に2名、鈴と式進行の担当役と、シンバルみたいなドラみたいなものの担当役、
左に1名、太鼓と木魚の担当役。
それぞれにお経の担当のところがあって、掛け合い(と言っていいのか?)みたいなところもあったりして、「とにかくみなさん声がよく通りますねぇ・・・ひとつのこの継承されている型っていのがキッチリ隅々まで身に付いてて、すごいわね。」ってホレボレする感じ。
しかしお経をあげる人のあの独特の声量と声質ってなんだろうかね。
八百屋のオヤジさんが店先で「さ~、いらっさい、いらっさい」って言ってる独特の声量と声質もあるけど、訓練でああいう風な感じというか、技が身に付いていくんでしょうかねぇ。
お坊さんのお説教で、
「人生は一直線の線と思いがちだけども、そうではないんですね。
人生というのはひとつの環を描いていて、最後には元に戻るんですね。
その環が人それぞれに与えられた寿命で、小さな環の人もいれば大きな環の人もあり、太い環の人もいれば、細い環の人もいる。
それぞれがその人その人の人生なんですね・・・
お釈迦様は80歳で亡くなりましたが、それを考えれば82年間という人生を送れたというのは大往生だったのではないかと思います・・・。」
って話しがありました。
袈裟を身につけたお坊さんの穏やか~~~~~な表情でゆったりと説くお説教にはなんかこちらまで「穏やか~~~」にさせられる効果がある感じで。
こういうの聴くの嫌いじゃないんですよねぇ。
「人生は直線じゃなくてひとつの環」っていうのは、よくなんだろ、仏像の後ろに輪っかがあるのは、それを意味してるんでしょうかね。
叔父と小学生時からの同級生だったという方の弔辞が、これまた涙を誘う名文で(聞けば学校の教師をやっておられたという方らしい。代読した葬儀場のお姉さんも随分涙をこらえてたなぁ・・・声が詰まってるところがあったもんなぁ・・・)、昭和4年生まれ同士、当時からの振り返りの中で、満州事変だのなんだのという時代背景があったことやら、戦争で小学校が国民学校に変わったこと、小学生であっても土地開墾の手伝いをさせられた事などに触れ、
「あぁ・・こうやって今の日本を創ってきた世代の人がいなくなっていくんだねぇ・・・
私たちの葬儀の頃は「バブルという好景気がありました・・・しかしその後のグローバル化によって日本産業は空洞化の時期を迎え、大変なインフレ時代を過ごしました・・・大地震によっておきた大津波によって原発の痛ましい事故もあり、自然も破壊されました・・・そんな中を一生懸命生きてきました・・・」とかいう弔辞の内容になるのかね・・・」
なんて、横にいた弟とシミジミしていました。
前に座っていた婿養子のオジサンが(この弔辞を聞いて)涙ボロボロになっていたところを、横に座ってる従姉妹が「ペシッ!」ってツッコミ入れてたのに、「ウハハハ・・・いいなぁ・・・男は優し、女は厳し・・・」って。
従姉妹はその後にくるこの婿養子(喪主)の挨拶が心配で心配で仕方がなかったようで。(笑)
「そんなに悠長にボロボロボロボロ泣いてないで正気に戻ってピシッとしててよぅ」ってことだったんだろう。
久しぶりの静岡行き。
久しぶりの親戚や従兄弟やはとことの再会。
この叔父はもうかれこれ15年も前に奥さん(嫁)を亡くしていて、それこそ亡くなった当時は仏壇の前で毎朝毎晩「オレを早く呼びに来てくれ。なんでオレより先に逝くんだ・・・」ってそれはそれは同居している従兄弟達が「ちょっと気がおかしくなったかね・・・?」って心配するほど傷心してたようなので、やっとあの世で奥さんと再会できて安心してるに違いないだろうと思う。(願う。)
13日になる明け方というか、夜中に、オバチャマの夢にこの叔父の弟であるオバチャマの亡き父が夢に出てきたから、「なんだろなぁ・・・このタイミング・・・」っていうか。
静岡でも静岡市内よりちょいと西にいった田舎(浜岡は案外近い)だから、なんとゆったりした時間の流れ方だろう。
空の色も違うし、雲の形も違う。
「これでも同じ日本なんだもんねぇ・・・
都会が変化がめまぐるしすぎるんだわねぇ・・・」
って改めて感じるんだよねぇ。
静岡自体、穏やかな気候と産業も発達してるから、食べるに困らない、働くに困らない、っていうのがあるのか、「都会に出て暮らしたい」って願望があまりにも無いのが不思議。
はとこ♂も名古屋のとある大学を卒業して証券会社に就職したものの「都会は暮らせない、特に何がいいもない。」って静岡に引っ込む始末。
そのくらいどうやら静岡は暮らしやすいらしい。
というか、確かに時間の流れ方とか道理に乱れ(作り込み)が無いって感じがするんだわなぁ。
ちょっと足を伸ばせば、東の都会があるし、西の都会もあるから、わざわざ出るまでしなくても、満足しちゃうんでしょうねぇ。
父の実家、もうず~~~~っと曹洞宗(本山が例の鶴見の總持寺と福井県の永平寺の宗派ですね。仏教ってやつですね。)のお寺さんの檀家になっているから、お葬式が曹洞宗のやり方で、お坊さん4人がお経をあげてくれた。
祖父祖母の代の頃は自宅から出棺して(庭をぐるぐる廻るのね)お寺さんに出向いてそこで(長々)儀式があり、自宅で(仕出し屋さんに頼んで)精進落とし・・・って風だったかと記憶するが、今回の叔父はもうすべてを葬祭場で執り行ったんで、「時代だなぁ・・・」と実感。
「都会の一般家庭が葬式出すんじゃなかなか坊さん4人なんか来ないよなぁ・・・」
なんて思いつつ、お経とかお説教に聴き入ってしまった。
母なんかは、
「お坊さんを沢山呼べばそれだけお金も倍の倍ってかかるからねぇ・・・
まぁお父さんの家は代々あのお寺さんの檀家さんになってるからお付き合い上そうもいかないっていうのもあるかもねぇ・・・」
なんてゲンキンなことを言っていたが。(苦笑)
中心に座っているのがメインのお経をあげるお坊さんで、
右に2名、鈴と式進行の担当役と、シンバルみたいなドラみたいなものの担当役、
左に1名、太鼓と木魚の担当役。
それぞれにお経の担当のところがあって、掛け合い(と言っていいのか?)みたいなところもあったりして、「とにかくみなさん声がよく通りますねぇ・・・ひとつのこの継承されている型っていのがキッチリ隅々まで身に付いてて、すごいわね。」ってホレボレする感じ。
しかしお経をあげる人のあの独特の声量と声質ってなんだろうかね。
八百屋のオヤジさんが店先で「さ~、いらっさい、いらっさい」って言ってる独特の声量と声質もあるけど、訓練でああいう風な感じというか、技が身に付いていくんでしょうかねぇ。
お坊さんのお説教で、
「人生は一直線の線と思いがちだけども、そうではないんですね。
人生というのはひとつの環を描いていて、最後には元に戻るんですね。
その環が人それぞれに与えられた寿命で、小さな環の人もいれば大きな環の人もあり、太い環の人もいれば、細い環の人もいる。
それぞれがその人その人の人生なんですね・・・
お釈迦様は80歳で亡くなりましたが、それを考えれば82年間という人生を送れたというのは大往生だったのではないかと思います・・・。」
って話しがありました。
袈裟を身につけたお坊さんの穏やか~~~~~な表情でゆったりと説くお説教にはなんかこちらまで「穏やか~~~」にさせられる効果がある感じで。
こういうの聴くの嫌いじゃないんですよねぇ。
「人生は直線じゃなくてひとつの環」っていうのは、よくなんだろ、仏像の後ろに輪っかがあるのは、それを意味してるんでしょうかね。
叔父と小学生時からの同級生だったという方の弔辞が、これまた涙を誘う名文で(聞けば学校の教師をやっておられたという方らしい。代読した葬儀場のお姉さんも随分涙をこらえてたなぁ・・・声が詰まってるところがあったもんなぁ・・・)、昭和4年生まれ同士、当時からの振り返りの中で、満州事変だのなんだのという時代背景があったことやら、戦争で小学校が国民学校に変わったこと、小学生であっても土地開墾の手伝いをさせられた事などに触れ、
「あぁ・・こうやって今の日本を創ってきた世代の人がいなくなっていくんだねぇ・・・
私たちの葬儀の頃は「バブルという好景気がありました・・・しかしその後のグローバル化によって日本産業は空洞化の時期を迎え、大変なインフレ時代を過ごしました・・・大地震によっておきた大津波によって原発の痛ましい事故もあり、自然も破壊されました・・・そんな中を一生懸命生きてきました・・・」とかいう弔辞の内容になるのかね・・・」
なんて、横にいた弟とシミジミしていました。
前に座っていた婿養子のオジサンが(この弔辞を聞いて)涙ボロボロになっていたところを、横に座ってる従姉妹が「ペシッ!」ってツッコミ入れてたのに、「ウハハハ・・・いいなぁ・・・男は優し、女は厳し・・・」って。
従姉妹はその後にくるこの婿養子(喪主)の挨拶が心配で心配で仕方がなかったようで。(笑)
「そんなに悠長にボロボロボロボロ泣いてないで正気に戻ってピシッとしててよぅ」ってことだったんだろう。