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やっぱりモリマリ20110909-04

2011年09月09日 21時41分53秒 | 紹介屋ねーさん
諸家の論の中で一番がっかりしたのは、「帽子と鉢巻」なぞの小説、劇作なぞで尊敬していた飯沢匡の説である。

型を踏襲して巧く遣るのは当り前のことであるという説だが、従来の型を継承しても、その型から出ているのでないと、いい芸とは言えない。

巧い役者は、代々の型を継承し、踏襲しながら、その型から出ているのであって、型をただ踏襲しているのではない。

立派だった田村高広の鑑真(これは型というものがないので、至難であり、大変な苦しみをして演じおおせたのだが)に匹敵するものを歌舞伎役者の芸の中に探すとすれば、最近もNHKで見た、歌右衛門の墨染桜の精だろう。

私は今度、テレビで、墨染桜の精を見て、真実(ほんとう)に、桜の精が抜け出して来たという、美を感じた。
その幽幻な美は前と同じにたとえようがなかった。
たしかに、桜の樹から抜け出て来て、桜の精であった。

せりふや仕科(しぐさ)、踊は訓練で、到達出来るだろうが、これは桜の精だと、見る人に感じさせることはむずかしい。
これ又、演劇理論では片づかない演技である。


歌右衛門がどう遣って、樹から抜け出た桜の精だという感じを私に抱かせたか、私は知らない。
それは芸というものの微妙で不思議は、歌右衛門がどこからか、宇宙のどこからか、奪って(とって)来た、誰にもわからない、(或もの)である。





型のままじゃ誰でも同じになっちゃうし、その型をまぁ上手に演じていたとしても「だから・・・?」ってシラケルのが客なんだよねぇ。
ミーハーちゃんは「贔屓の誰それ君(誰それちゃん)だからそんなことはどうでもいいの~~~」だったとしてもね。

「セリフやしぐさ、踊りは訓練で到達出来る」

そうなんですよ。

これをやれて当たり前でそこからはみ出たモノに感動してるんだも~~~ん。
到達できない面倒くさがり(その職(習い)につきながら怠慢)は最初に頭のほうが働いちゃってそれっぽく巧みに演じちゃうんだけど、見る人が見れば、「はい、思いっきり手抜き~~~~ぃぃぃ、ウソ八百~~~ぅぅぅぅ、○作り(×やらせ)過ぎ~~~~ぃぃぃx」って相当シラケるのです。













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