ねーさんとバンビーナの毎日

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感情をぶつけるか、何かを悟ろうとするか。

2010年03月04日 09時32分04秒 | 2種分ねーさん
例えば美術館に出掛けて絵画を鑑賞するとしよう。

一枚の絵があって、それをとてもウキウキ調子がいい状態の時に見た時と、疲れきって鬱々してる状態の時に見た時とでは、その絵がまるで違うように見えて、まるで違う感情を持つ人もいるだろう。


だけど自分の感情を振り撒いて振り回されて生きてない人ってのも案外いて、それはフィーリングを振り撒いて振り回されて生きてる人なんだけど、そういう人は案外、感情による感じ方のブレはなくてね。


フィーリングってものは、その日の自分の体調の感じ方とかまわりの人の状態に合わせて変化するだけで、そもそもがものに対しての感情的なブレはなくて。


だから、ウキウキしてようが、鬱々してようが、「明るい絵だ」「暗い絵だ」みたいな感情的な変化がないかと思う。


絵画の鑑賞の仕方も違って、自分の感情をぶつけて見てるんじゃなくて、その絵事態が発しているものをわかろうとして鑑賞して、そこで「ああ、この人多分、この時こうだったんだろうなぁ。色調がなんか安定してないしなぁ。それでもキャンバスに向かって絵を描くんだからすごいよなぁ。なんでかねぇ。」とか思って納得したりしてるだけ。
それを自分と比べたりしてるだけ。


オバチャマ自身、感情の浮き沈みが激しい人達の中にいるのが相当疲労してしまう。
子供の頃からなんだか超苦手。


けど「世の中の妙」として、感情の上下がある人のほうが他人から見ればわかりやすいせいか、ただ「わかりやすいだけ」なのに「だから嘘がない」という判断にリンクしていく様子で、沢山の人に好かれたりはする。
「いくらわかりやすかろうが、裏計算の入った大嘘はあるんだけどねぇ。なんでそんな短絡的に判断できるのかねぇ。」と、ヤレヤレする。(笑)


フィーリング任せの中にいると疲れて仕方がない人も多くいるようなんだけど、わたしはフィーリング任せの人のほうが、どこかいつも安心できる。
「これはどうしてなんでしょう」と考えてみると、依存心がそもそも薄いんだと。依頼心は案外あるかと。

つまり、自分は自分(自分勝手とは違う)が出来上がちゃってるから、関係性に感情による波風が立たないのが安心するんだと思う。


フィーリングによる波は仕方ないと処理してる。
何かを感じたら変化させて調整してるから、「あれ?こないだと違うよな。」と思っても、感情がブレてないから安心するんだと思う。


ただ感情相手のほうが「流行商売」って成り立つんだよねー。


今はその最骨頂を越えて崩壊気味?


どのように絵画を鑑賞してるかって客観的になると、人となりが見えてきますな。
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