ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

違う、違う、全然わかってない?

2010年03月04日 10時38分20秒 | 観察屋ねーさん
とある有名ミュージシャンのブログに、

(オレは)やれそうにもない事をやるのじゃー。

と今さらながらに語ってあった。


こういう熱さは表向きの世の中としては、
「1990年代中盤で終わった」かと思うんだけど、どうだろう。
個人個人ではとっくに終わっている人もいたとしても、
表の世の中の流れ的な話し。


人は自分でやれることをやらねば仕方ねぇのだよなぁ。

傍目にはやれそうもないと思われても、それは確実にやれることであって(帳尻合わせの計算が入ってはいけなくて、自分自身にもうある程度の力もつき、自分自身である程度の場数も踏み、知識もつけて学習してるということ)自分を信じて踏ん張る。

そういうことしかやっても仕方がないのでーす。
「そうであって欲しい」という願いもあったり。


経験不足については絶対自分で自覚してないと怪我するし、
自覚していればその不足を人に任せて補強したりも出来るんですよね。

自覚しているから「信用信頼できる人に任せたい」と思っても、

「なかなか任せられる信用信頼に足る人がいなくなった、
とにかく金を掴ませて誤魔化さないとやってもらえない。
それは信用信頼じゃない、利用できるってだけ。」

みたいな変な世の中が1996年くらい以降。


自覚のない状態で思いだけで「やれそうもないことをやるんだー」で突っ走ると、
どこか計算して利用してはかりだして関係性崩壊、大怪我になるんですよねぇ。


それすら腹を括っていればまぁそれも大したもんなのですが、
もぅこの先の世の中ではこういう考え方の人との併走はちょいと遠慮したくなる傾向ありなんだよなぁ、オバチャマは。


効率とか生産量はそのパワーで上がっても、それ以上にすり切れ度が上回るから。(笑)

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