探らなくていいから気分が楽チンなんだよね~。
だから自然と集団意識が芽生える。
その逆で常に「信頼できるか・できないか」を探らなきゃいけない環境は自然と個人主義の意識が芽生えるわな~。
表向きは集団を乱さないような言動をしていても(そのほうが「他人に望まれる」と思い込んでいて)、実は超個人主義なのね。
何のために「信頼できるか・できないか」を探るのかって、「自分は損したくない・自分は騙されたくない」っていう意識からだと思うんだけど、「仮に損したところでどんだけのデメリットがあるんだ?」とか「騙されたところでどんだけのデメリットがあるんだ?」とか、その先の状況を具体的に考えられる人は、必要以上に「信頼性」とか「信頼感」を意識してないよね。
だから案外集団意識が強いっていうか。
ここを考えられないと、ずーっと「信頼」ってことを意識せざるを得ない。
それと、デメリットの分量は「信頼できる・できない」のものさしにはならない。
デメリットの分量が多かろうが対処できる人は出来ちゃうし、デメリットの分量が極々少なくても、それだけで「信頼できない、対処できない」となってしまう人はいる訳でね。
だから意識的な「信頼」って必要が無くて、結果として「信頼」を生めたら、「こんなに嬉しいことは無いね。」って、そんだけのことだよね。
だから自然と集団意識が芽生える。
その逆で常に「信頼できるか・できないか」を探らなきゃいけない環境は自然と個人主義の意識が芽生えるわな~。
表向きは集団を乱さないような言動をしていても(そのほうが「他人に望まれる」と思い込んでいて)、実は超個人主義なのね。
何のために「信頼できるか・できないか」を探るのかって、「自分は損したくない・自分は騙されたくない」っていう意識からだと思うんだけど、「仮に損したところでどんだけのデメリットがあるんだ?」とか「騙されたところでどんだけのデメリットがあるんだ?」とか、その先の状況を具体的に考えられる人は、必要以上に「信頼性」とか「信頼感」を意識してないよね。
だから案外集団意識が強いっていうか。
ここを考えられないと、ずーっと「信頼」ってことを意識せざるを得ない。
それと、デメリットの分量は「信頼できる・できない」のものさしにはならない。
デメリットの分量が多かろうが対処できる人は出来ちゃうし、デメリットの分量が極々少なくても、それだけで「信頼できない、対処できない」となってしまう人はいる訳でね。
だから意識的な「信頼」って必要が無くて、結果として「信頼」を生めたら、「こんなに嬉しいことは無いね。」って、そんだけのことだよね。