ねーさんとバンビーナの毎日

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今日突かれたお言葉・その303

2010年10月01日 21時50分13秒 | 突言葉ねーさん
たまたまフランスの小学校の試験問題を見たんですが、理系でも算数でも何でも、すべて国語の問題にしてしまう。
たとえば算数で、ピタゴラスの定理の数式が書いてあって、それを文章にしなさいという問題がある。
つまり科学者でも数学者でも、言葉で真実を伝えなければいけないという思想ですね。
そこで、答えも大切だが、そこへ辿りつく過程を言葉にする方がもっと大切だという出題のしかたをするわけです。
それが小学校から中学校、バカロレアという大学入学資格試験まで、すべてそういう姿勢を貫いている。
言葉でものごとを伝える方法を社会化、つまり共通の財産にしようと必死になって考えている国がある。
日本はむしろ逆でしょうか。
言葉より先に式や答えがあって、早くそこへ辿りつけ、途中の言葉などどうでもいい、というようなところがありますね。



司馬遼太郎と井上ひさしの対談集(1995年)より、井上ひさしの言葉。



これは金八の第二シリーズ、「白紙の解答用紙(だっけか?)」の回で、まさに金八が言うんだよね。

「数学の国語的表現をやってみたい」って。

で、マイナスの計算式を恋物語にして、生徒に配役して、ドラマ仕立てに演じさせるんだよ。

数学の乾先生(カンカン)に「生徒の数学の学力低下は国語に問題があるっ」とかってイジメられて(笑)、金八が。


ちなみにオバチャマも中学校とか高校の時に、

「数学の授業ってこうじゃなくてさぁ…、こんな解き方の暗記みたいな強制じゃなく…」

と、よぎってたんだよなぁ。
別に金八に影響されたんじゃなく(当時は夜塾通いしてたから金八の第二はほとんど観てない。)、まさに「国語的表現に変えたらもっと食いつきいいだろーに。単なる数学嫌いも食いつくのに。」とよぎってたんだよなぁ…。


金八第二は1980年初期。
1995年に井上ひさしもおんなじようなところに着目したこと語ってる。


フランスってあなどれないね。


少し前の中村江里子のブログにも、娘の小学校の行事かなんかで、どこかに出かけたかなんかで、「集合~~」がかかっても娘が仲良しの男子とひっついるまま、離れてこちらに来ようとしない。
母である中村江里子が注意しようとしたら、そのおふらんすの学校の先生はこう言ったそうな。

「二人は恋をしてるから注意しても仕方がない。そのままで。(みたいな言葉、確か。)」

そのブログを読んだときに「フランスはいかしてるなぁ、子供もいっぱしの大人扱いだ。」と思ったわ。(話題とズレましたが。)

日本だったら「子供の分際でなにやってんの!今は早くこっちに来い!」こうでしょう。

事態がどうであれ、背景を読むってか、情緒的ってか、背景を立てるってか、数学の国語的表現に繋がるよなぁ…。
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