ねーさんとバンビーナの毎日

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自問自答する時間を持たない親世代の子だから。

2009年09月25日 12時28分37秒 | 考えるねーさん
先日、親をやっている乗組員をまじえて、
いつものようにむだ話をしておりました。
どうも、このごろの子どもは、
異性にふられただとか、誰が好きだとかいうことを、
母親にいちいち報告しているらしいじゃないの?
というようなことを言っておったのですが、
どうやら、そういうものらしいです。
 
わるいとは言いにくい。
よろしいんじゃないでしょうか、それは。
ただ、世代のちがいなのかなぁ、
それとも、育ちのちがいなのか、
「そういうこと、親に言うの?!」と、ぼくなんかは思っちゃうわけです。
秘密の領域なんじゃないのか、恋愛ってのは。
母親というか、家族そろって話すことだったのか?
アメリカ製のホームドラマなんかでは、
よくある光景だったかもしれないけれど、
日本中が、なんでも親に言う明るい家庭になったのか。
 
そういうもんだと言えば、そういうもんかもしれない。
あらゆる場面で、秘密というものがなくなるのだろう。
しかし、どんどん世界がそうなっていったら、
「自問自答」というものは、なくなっていくじゃん。
こころを育てるのが「自問自答」なのだしたら、
なんでもかんでも「ねぇ、ママ、あのね」じゃ、
こころが育たないんじゃないのかと思いもするわけです。

ひとりで考えること、誰にも言えないこと、
やっとしぼりだすように友だちに相談すること、
そういうことが、人間の光と影をつくるんじゃないのか。
なんてことを、ちょっと思ったりもしたのでした。




こうやって、本日は、
とあるイトイさんって方のサイトに書かれてありました。

あたしも、

「しかし、どんどん世界がそうなっていったら、「自問自答」というものは、なくなっていくじゃん。
こころを育てるのが「自問自答」なのだしたら、なんでもかんでも「ねぇ、ママ、あのね」じゃ、こころが育たないんじゃないのかと思いもするわけです。」

これに大いに同感なのです。


だけど、今の親世代というのが「自問自答しない世代」なんじゃないかと思うのです。
「自問自答なんかしてる暇があったら仕事してるか遊んでるか恋愛してるか不倫してよう(失敬)。」みたいな。

頭が動いちゃってるか、身体が動いちゃってるかで、心が止まってないわけ。
だから自問自答なんかできないわけ。
口が先走っちゃうわけ。耳が先走っちゃうわけ。欲が突っ走っちゃうわけ。

だから、親子の関係性に「秘密」が持てないっていうか。

「秘密」を持つとそれだけ「自問自答の時間」が必要になるじゃないですか。
心を落ち着かせて、目を閉じて耳をふさいで(目が開いていようが耳が聞こえていようが閉じてふさぐのね。)、自分で自分に問いかける訳じゃないですか。

その時間が面倒臭くて、どうしたらそういうことが出来るのかもわかんないわけ。

オープンにしたほうがいいのは「心」であって、「秘密」じゃぁないんだよねぇ。

だけど「秘密の暴露大会でディスカッションする」のがいいらしのね。

そうすると理詰めになるんだよねぇ。左脳が鍛えられちゃうの。
「言葉を作りだそう、作りだそう」「言葉を覚えよう、覚えよう」と、しちゃうから、浅い会話になってくんだよね。「いい間」ってものも生まれない。

その状態で「秘密を共有する関係性」が生まれるのね。
心で繋がれてないわけ。ルールで繋がれているわけよ、理詰めだからね。


だからねー、ブログは「全国民必須参加事項」ってことで、コメント無し、トラックバック無しでやるっていいと思うんだよねぇ。

朝の「ラジオ体操」みたいに、出来るだけ全員参加みたいな。

こうやって考えながら言葉をあーでもないこーでもないと吐き出す。
んで、自問自答する時間が生まれる。

何かの時間を削ってこの一人で考える時間を作るのさ。

ノートにえんぴつで文字を書いて日記をつけるのが本当はいいとは思うよ。

だけど「交換日記」ってあったように(今も女子間ではやったりするのかね。)、人の日記を読むって案外考えさせられるのよね。

「今日こんなことがありました。こう思いました。悔しかったです。」それだけでもいい。

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