ねーさんとバンビーナの毎日

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「比較する」と「並べる」

2011年12月01日 14時21分25秒 | 2種分ねーさん
例えば、漠然とした目的があってお店(洋服屋でもいいし、雑貨屋でもいいし)に入り、店中をグル~~~ッと一回りして、「あれとこれとそれと」をチョイスすることってあるだろう。

例えば、芸能界をテレビから雑誌からいろいろから垣間見て、「あれとこれとそれと」をチョイスすることだってあるだろう。


オバチャマはしょっちゅうやる。
これが脳内(右脳だな)活性するわ、心がワクワクするわ、○楽しくて(△面白くて)しょうがない。

漠然とした目的というのは、

「ひと仕事終えたし、自分への褒美に何か買ってやりたい。」

「ここんところイベント不足でツマンナイから、1イベント出費くらいの散財でお買い物を楽しもう。」

「○心(×頭)が動かされるタレントっていないかなぁ。探して追っかけて楽しもう。」

みたいな、そんな程度のこと。



んで、手にした(目にした)「あれとこれとそれと」をチョイスして並べる。

これ、決して、優劣を決めてるんでない。
だから決して比較してる訳でない。
単に並べて楽しんでいる訳だ。(×面白がってない。母親がよく言うが「人を面白がったら相当に失礼よ。人はモノじゃないんだから。「楽しいわ!」で関わらないと!」と。)

人を楽しませてくれてるんだから、対象物には「感謝、感謝っ!!(他人には理解しずらかろうが自分は感謝っ!!!)」しかない。


あれもこれもそれも、自分のアンテナに「ピピッ!」と来たわけだから、どれも「あ、いいな!」って思ったモノなのだ。
それらを比較して優劣を決めたい訳でもなんでもなく、そこらあたりを分析したい訳でもなく、あえて分析するとしたらば、「なんで自分はこれを「いいな!」って思ったんだろう。」という部分だろうか。


例えば、だからって「あれとこれとそれと」を一気買いして手に入れられる訳でもない。
懐具合もあるし、冷静に返れば、「今はこれは「すごく自分に必要」ということでもないから、手に入れずにしばらく置いておこう。」って判断するものもある。
その時に手を放したものが優劣の「劣」に判断された訳ではない。


比較する(優劣を決める)ってのは、評論家とか、そういうことを仕事にしてる人はやればいいと思う。

オバチャマはやんない。
つか、やったことない。
でも、並べることはする。

「今はこれじゃないんだよね・・・。」ってのはあっても、それは「劣」という判断ではないから。

そういう判断を下された対象物(人物)であっても、誰かの今には「これこれっ!」てのはあるわけで、そう考えれば、巡り合わせの問題だけなんだと思う。
それには、個人個人の主体性がないとまずいけどもね。
みんなが誰かの「これ!」に簡単に流されちゃうと、劣の判断をした訳でもないのに、「巡り合わせが合ってない」ってだけなのに、そういう人の意見が「×」のレッテルを貼ったように勘違いされちゃう怖さがあるのよねぇ。




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