ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

手放しましょうの矛盾

2022年12月17日 17時28分00秒 | 伝われねーさん
不要なものは手放しましょう

ってよく耳にする。

昨今はスピリチュアル系などよく使ってますね、この言い方。

家の中の不要なものはメルカリなどを利用して売ったり(手放しするための術)

ってこともよく耳にする。


誰かの不要物が誰かの必要になる、、、
しかしその誰かも不要なものを手放していたとしたら、、、


結局はみんなで不要なものを擦りつけあってるだけではないのだろうか??


それって考えるだけで滑稽、、、
あれ?変なこと言ってるだろうか??


不要ならば廃棄に限ると私は考える。(それこそが手放し)
それに何か意味があるものでも時が来たら廃棄する事は悪いことでもないかと思う。(成仏させるっていうか)
価値があるなら眠らせて置けばいい。


不要品を買い漁る(貰い漁る)のも何だかそれに宿る悪い業も拾いそうで(結局は手放しどころではない)あまり積極的には好まないオバチャマである。

「本来は持ち続けたいのだけどあなたに譲りたい」みたいなのは別。
こういう方はメルカリで売買はなさらないかと、、、








日本人の特徴

2022年12月17日 16時17分00秒 | 観察屋ねーさん
面倒くさい事を避ける為に事をややこしくする。

ややこしくしたことを黙々とこなす。(これは面倒臭がらずに)

ややこしいからその事の本筋すら理解がおかしくなっていて(実は理解してなくて)物事が帳尻合わせ的になっている。


これはここ20〜30年は特に顕著というか、

「そうではなくて!」

「いっとき面倒臭くても現状打破します」

と、そこに向かないように動く人が激減(世代的引退もある)していて、組織や社会の成り立ちの中心になってしまったような気がする。

こういう人らが中心で世を牽引していた時代も上記のような人らはいたけど、中心にはなっていなくて、「それぞれの隅に一握り」って感じだったように思う。

時代背景的に今より忙しかったから(やり方が複雑で手数が多くて忙しいのではなく、事そのものの動く量が多かった)、必然、無駄を省く合理的な動きや変化は必要だったし、技術の早い進化と共にこれまでのやり方が新しいものに置き換わったり、なくなっていったりもした。
そういう現場でややこしくする人は「あっちいってて」な空気もあったかと思う。


一昨年から昨年にかけて一緒に働いた中国人やインド人やイギリス人からの、

「(一部)日本人おかしいよ?」
「こんなに働かなかったでしたっけ?」
「こんなに助け合わない国民性でしたっけ?」

というご指摘があったことがリアルに時々ふと蘇る。

おそらくだがこう指摘してきた彼ら彼女らはサッカーのワールドカップで日本人のマナーが良いとかいうマスコミ報道を見聞きしても「それはそれで素晴らしいけど。でもねー現実はこうだったよな。」と思っているに違いない。
今一緒にまだ働いていたらご指摘してきたかも。笑笑


同じ日本人同士でも同じことを感じる人もいる訳なので(私も私以外でも)、「こうなってきた要因は何だろねー」と思いを巡らす時がある。

乱暴にひと言いえば現代が「暇」ってのはあるかと思う。
「暇」だと余計なことをしだすし考え出す。

「暇」は「困ってはいない」。
本当に困っている人は何か打開策に励むはずなので忙しくなるはずなのだ。
しかし暇な人は困ってはいないから、それが一番厄介。
パッと見ると困っているのかな?と思わされる節もあって、親切な人は助けようとする。
しかし大概空振りに終わるし、場合によっては相手の態度に憤慨したりする。
要するに「暇な人は困ってはいない」からなのである。親切もアダで返される。
「困ったなぁ」風は「弱ったなぁ」ってくらいだけ。
弱りきってるのは病気の一種なので(おそらく精神的な)病院の先生に治してもらうしかない。
私もこの境目に長年翻弄され続けて自分が疲弊した。笑

Excelやパワポなんかで「ああやってこうやって」なんて経営上不要だったことが今当たり前の様になってる辺りも「暇人発想だね」「経営者発想のモノじゃないよね」と揶揄いたい。
組織の裏であらぬ噂を収集しては垂れ流して混乱させるようなオバチャン連中(女性のオバチャンもさることながら、男性でも噂大好きオバチャンみたいな人は現におり。)も「暇」がアレを成していた。

「暇」は人間が出来上がってる人がわかっていて使うには良いことだが、出来上がりもしてないまだ色々と不安だらけの人が「暇」だけ追い始めるとよろしくない思考に走り始める。ま、大抵がネガティヴに倒れる。

近代の中では日本が一番時間が先に進んでる風だし、時の流れや物事の成り行きの途中の社会風景は必然こうなるのかもしれない。事後の参考になるのかも。