改めてオリンピックの件で談合があったことを責められているようですけど、私の中では、
談合と出来レースだったら出来レースの方がよっぽどタチが悪くないか!!?
というふうに主張したい。
「談合」って本来の意図としては、「お互いの潰し合いの無いように関係者同士が順繰りに益をまわし合う話し合いみたいなもの」ってことだと聴いてましたが、おそらくこれが人によって解釈がマチマチになって、「特定の誰かにだけ益が回るもの」という風にすり替わってしまったんだと思います。
これの代わりに出てきたのが、私の実経験の中では90年に入って早々の「出来レース」でした。
当時はそうとは知らずにそのことに直接関わらざるを得ない立場で動かなくちゃいけない時期を過ごしましたが、
「これ、人としてやってはマズい。談合よりタチが悪い。言葉で説明できないけど相当に妙だ。
法に触れないって言っても全体を騙してるようなもんだ。
なんでこんなに表向きを取り繕う必要があるのか?
正直にやらないのはなんで??
どこまでが公にしていて、どこまでがクローズなのかも曖昧。とにかくやり方がまずいから。
世間すら道理を狂わしちゃうよ。」
と悩み続けて区切りのつく辺りで強制的に離れたのでした。
世の中的にはやはり時間の経過とともに「捩れ○○」とか評される世の中になっていきました。
談合と出来レースの境目について考えたことがある方はどれだけいらっしゃる事でしょう?
私の中では本来の意図を正とするなら、
「談合のほうがよっぽど全体の益が考えられていて、ズルい部分もなく、平和な解決策だ」
と考える訳ですが、談合ってなんで悪の代名詞にすり替わったんでしょう。
新参者が入る余地がなくなるとか、そういうことなのかもしれませんが、出来レースよりはよっぽど良いです。
この辺りが問題定義され、「公で議論にならないか?」と思い続けて早くも30年近く経ちますな。