瀬戸内海に巨大な原発を作るという中国電力の計画は、海面埋め立てを巡って生活と命をかけて反対する祝島の人たちや、危険な原発を瀬戸内海という閉鎖系水域に作ることの危機感から集まった人たちの戦いによって、ブイを設置するという手続きはなんとか卑劣な手段を使って乗り越えたものの、実際に海を埋め立てることができないままになっている。もちろん彼らは次の卑劣な打開の道を探っているのだろう。
しかし、私たち祝島の人たちと思いを同じくする人間にも、もっと考えてみるべきことがあるのではないか。ブイを台船に積み込ませないように漁船をつないで阻止線を張っている漁民たちに、中国電力の社員が拡声器で投げかけた言葉を聞きながら、そう思いついた。彼らは祝島漁民たちに向かって、島にも電気を送っている、と言った。それは、言葉には出さなかったが、おまえら誰に電気を作ってもらって生活しているんだ、文句を言うなら電気を送ってやらないぞ、という気持ちを投げつけたものだと私は聞いた。
その言葉を聞き、気持ちを思って、私が考えたのは、「そうだなあ、そんな原発の電気なんかいらないぞ」と私たちが言えるかどうかが問われているんだということだった。原発は嫌いだ、いやだと言う人は多いが、その人たちは原発が作った電気をどの程度拒否できるのだろうかということだ。やはり原発の電気なんかなくってもいいんだとはっきり言える生活をする必要があるのではないだろうか。あまりに電気を垂れ流すような生活をしていないだろうか。そして口だけで原発反対を唱えていないだろうか。
コンビニの24時間営業は電気の無駄、自動販売機の24時間営業は電気の無駄などと私もいろいろ主張してきた。そう私が言うとき、このように反論されることが多い。「明かりに使う電気なんか全体のほんの一部、工業などの産業に使われる電気が圧倒的に多いから、少しばかり明かりを消して見てもほとんど意味がない。」たしかに事実はそうだろう。でもそれをいいことに自分たちが無駄な電気を使っていていいのだろうか。私は決してそうは思わない。上関の原発に反対なら、中国電力の電気を使用することを少しでも減らす努力をするべきだし、東京電力の東海原発に拒否感を持つなら、東京電力の電気をなるべく使わないようにするべきではないか。
見ていないときはテレビを消す、部屋のライトは半分に減らす、エレベーターやエスカレーターはなるべく使わない、職場の昼休みなどの部屋の照明は消す、などなど一つ一つの行為がすぐに効果があるとは限らないけれど、一人でも多くの人が心がけることによって、もっと多くの人がそれを行わないことに引け目を感じるような世の中になっていくだろう。そうすれば、きっと原発を作るという危険で高価な選択をしないでも、電気が足りないと言うこともなくなるだろう。
そもそも今の発電事業は、無駄な電気を作ることを前提に行っている。なぜなら、もっとも電力が使用される時にでも停電しなくても言いように十分余裕のある発電量を確保するという政策があるからである。それは真夏にエアコンとテレビを皆が使うときだという。しかし、そんなに電気を作る必要があるんだろうか。電気を使いすぎたら停電になる方が、みんなが節電をしていいのではないか。去年だったか、地震やデータの不正・改ざんが露見して東京電力の原発がすべて停止になったことがあった。その夏、節電を呼びかけた結果、真夏にも電力が足りないという事態は避けられた。電力会社からの要請で、消費者が使用を控え、工場も一部操業を自粛するなど協力したからだった。やればできる。原発がなくてもなんとかなるし、最近は人口減もあり需要は減ってきているのだ。いま新しい原発を作るという選択をするべきではない。停電したっていいじゃないか。
しかし、私たち祝島の人たちと思いを同じくする人間にも、もっと考えてみるべきことがあるのではないか。ブイを台船に積み込ませないように漁船をつないで阻止線を張っている漁民たちに、中国電力の社員が拡声器で投げかけた言葉を聞きながら、そう思いついた。彼らは祝島漁民たちに向かって、島にも電気を送っている、と言った。それは、言葉には出さなかったが、おまえら誰に電気を作ってもらって生活しているんだ、文句を言うなら電気を送ってやらないぞ、という気持ちを投げつけたものだと私は聞いた。
その言葉を聞き、気持ちを思って、私が考えたのは、「そうだなあ、そんな原発の電気なんかいらないぞ」と私たちが言えるかどうかが問われているんだということだった。原発は嫌いだ、いやだと言う人は多いが、その人たちは原発が作った電気をどの程度拒否できるのだろうかということだ。やはり原発の電気なんかなくってもいいんだとはっきり言える生活をする必要があるのではないだろうか。あまりに電気を垂れ流すような生活をしていないだろうか。そして口だけで原発反対を唱えていないだろうか。
コンビニの24時間営業は電気の無駄、自動販売機の24時間営業は電気の無駄などと私もいろいろ主張してきた。そう私が言うとき、このように反論されることが多い。「明かりに使う電気なんか全体のほんの一部、工業などの産業に使われる電気が圧倒的に多いから、少しばかり明かりを消して見てもほとんど意味がない。」たしかに事実はそうだろう。でもそれをいいことに自分たちが無駄な電気を使っていていいのだろうか。私は決してそうは思わない。上関の原発に反対なら、中国電力の電気を使用することを少しでも減らす努力をするべきだし、東京電力の東海原発に拒否感を持つなら、東京電力の電気をなるべく使わないようにするべきではないか。
見ていないときはテレビを消す、部屋のライトは半分に減らす、エレベーターやエスカレーターはなるべく使わない、職場の昼休みなどの部屋の照明は消す、などなど一つ一つの行為がすぐに効果があるとは限らないけれど、一人でも多くの人が心がけることによって、もっと多くの人がそれを行わないことに引け目を感じるような世の中になっていくだろう。そうすれば、きっと原発を作るという危険で高価な選択をしないでも、電気が足りないと言うこともなくなるだろう。
そもそも今の発電事業は、無駄な電気を作ることを前提に行っている。なぜなら、もっとも電力が使用される時にでも停電しなくても言いように十分余裕のある発電量を確保するという政策があるからである。それは真夏にエアコンとテレビを皆が使うときだという。しかし、そんなに電気を作る必要があるんだろうか。電気を使いすぎたら停電になる方が、みんなが節電をしていいのではないか。去年だったか、地震やデータの不正・改ざんが露見して東京電力の原発がすべて停止になったことがあった。その夏、節電を呼びかけた結果、真夏にも電力が足りないという事態は避けられた。電力会社からの要請で、消費者が使用を控え、工場も一部操業を自粛するなど協力したからだった。やればできる。原発がなくてもなんとかなるし、最近は人口減もあり需要は減ってきているのだ。いま新しい原発を作るという選択をするべきではない。停電したっていいじゃないか。
すごい数の蛍光灯ですね。
HPで「Earth at night」の映像見られた事ありますか?
小さい島国が光っていて驚きます。
私も、コンビニは7-11で十分で夜中にあけている必要ないし、自動販売機も夜は消灯指定医と思います。
第一、水道水が飲める国に住んでいるのだから、夜に喉が渇けば水を飲めば十分だと思います。
もっといろんなところで、こんなに明るい必要があるの?という疑問をもつと、もう少しは電気がなくても良い生活ができると思います。