ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

ホタルの季節が過ぎていく

2010-06-11 | 花と自然
今年も京都銀閣寺付近を流れる琵琶湖疎水に飛ぶホタルが夏の訪れを教えてくれた。夕ご飯を食べた後、毎日のようにホタルを見に出かけている。なにしろ家から歩いて1分で行けるのだから、ついつい毎日出かけてしまう。闇夜にふわふわと舞うゲンジボタルの幽玄の火を見ていると、心が洗われるように思える。ついつい口数も減り、小さな橋の欄干にもたれて、黙って夢中になって眺めている。ふと気がつくと隣に知らない人が並んで黙ってホタルを眺めているのに気がついてびっくりすることもある。みんなホタルの光に感動しているのだろう。

 今年は昨年よりホタルの数が多いようだ。ところが、見に来る人が今年はぐんと増えた。学生のような若者が群れをなしてやってくる。若い人もホタルの火をみて感動するのも良いだろうとうれしく思うのだが、彼らは一人や二人で来ない。なぜか大勢で群れをなしてくるので、黙ってホタルをみて感動するというのとはちょっと違う。ぺちゃくちゃしゃべって、とにかくうるさい。黙ってみて欲しいと隣で静かにみている私は思うのだが、彼らはホタルを見に来るという機会を作って、おしゃべりに来ているとしか思えない。

 疎水には桜などの木が植えられているが、その周りは住宅街だ。街灯もある。ホタルがか細い灯りをともしているのだが、周りの街灯や家の照明、自動販売機の照明など、明るくて、肝心のホタルが見えにくい。せめてホタルの季節くらいあたりを暗闇にして欲しいと思うのだが、ホタル?そんなもの何になるの?と思う人が多いのか、疎水のホタルを守る会の人が照明を暗くして欲しいと頼みに行くと、けんもほろろにされることもあるという。もちろん、協力してくれる家も多いが。

 ホタルは一年の長い間幼虫で水の中で生活する。成虫になって地上に出てくるのはほんのわずかの期間。餌も食べず、水だけすすって短い命を光り続け、生殖を果たすと雄は死に、雌も卵を近くの土やコケの中に産んで死んでいく。ホタルの短命を思えば、その間だけでも灯りを最小限にするくらい何でもないと思うのだが、人の価値観もさまざまだ。

 価値観と言えば、昨年は多くのホタルが明滅していた京都の街中を流れる鴨川の上流の高野川だが、今年はどうやらほとんどホタルがみられない。昨年、かなり大規模は河川改修が行われたり、河床を重機を使って整地したりしたようなのだ。ホタルがいなくなるのも当たり前かもしれない。一部の人がホタルのために河床の整地に反対したそうなのだが、結局、実施されたという。ここでも価値観の違いが鮮明になる。川は自然に水の流れによって流れ、生き物もそこに住み着くのだが、川はただ人間に牙をむかないように水を流すところだということに価値を見いだす人もいる。行政に携わる人はどうやらそういう教育を受けているのかもしれない。悲しい日本のお役所だ。

 疎水でもホタルがたくさん飛んでいるところと、ほとんどいないところがある。歩きながらみていると、やはり木や草が生えて、茂みが適度にあるところでは、ホタルも多い。河床にさまざまな変化があるようなところにも多い。これはホタルの幼虫の餌となるカワニナがそういう複雑な地形に集まることによる。疎水はもともと人間が作った用水路なので、あまり自然がないのだが、それでも多少とも自然に近いところにホタルは集まっている。地元の人が一生懸命草を抜き、ゴミ一つ無いように掃除をしているようなところはやはりホタルも棲みにくいのだろう。

 今夜もホタルを見に行こう。疎水のホタルを毎日数えている地元の自治会の人の話によると今年のピークは6月2-3日頃だったそうだ。ちょうど私は京都を離れていた時期だった。そのときは、わずか200mくらいのあいだに、700匹くらいのホタルが飛んでいたと言うから、驚きだ。今はもう200匹くらいに減っているらしい。あと一週間もすればホタルの影もなくなるだろう。短い命を燃やしているホタルの生き様を、今夜も静かに見つめておこう。