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ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

この楽器はなんでしょう?

2010-12-02 | 南の海
タイのプーケットのリゾートホテルで、毎日夕方になるとやってくる来客のために、玄関の一段と高くなったところで、真っ赤な伝統衣装を着た女性が、楽器を演奏する。この楽器の音色が何とも言えず美しい。音楽に造詣のない私には、この楽器が何というものなのかまったく分からない。弦を張った上をスプーンのようなもので軽く叩いて音を出しているが、その音がえもいわれぬ軽やかで心癒される音がする。先日聴いたインドネシアのガムランの音にも似ているが、もう少し高い音のようだ。誰か知っていたら教えて欲しい。やはりこの楽器も、ガムランと同じように高周波の音を出して、熱帯雨林の自然の音を再現しているものではないだろうか。日本では聴かれない。



津波のあった街から

2010-11-24 | 南の海
久しぶりにタイのプーケットにやって来た。プーケットは何度か来たことがあるが、今回は初めてのリゾートホテルでの滞在だ。観光客が集まるパトン・ビーチにあるリゾートだった。広い庭にある二つのプールのそばの2軒続きのコテージが私の滞在した部屋だ。夜中に到着したのでどんなところかよく分からなかったが、翌日昼間によく見てみると、例のインド洋の大津波のときに、流された映像に映ったリゾートホテルとそっくりだ。まさか同じホテルではないだろうが、このあたりのリゾートはほとんど同じような造りになっているから、似たような状況がここでも繰り広げられたのだろう。地震が起こったら怖い。昔と変わったことと言えば、あちこちに津波の時の避難場所を書いた標識があちこちにみられることだ。

 そういえば、あれからジャワ島沖などで何度か大きな地震と津波が起こっている。いつなんどきあのような津波がここを再び襲うかしれないと思うと、ぞろぞろと歩いている観光客が不思議に思えてくる。もっとも自分も同じようなものかもしれないが。これまでプーケットに来ても、街の中のホテルに泊まることが多かったので、リゾート周辺のこの騒がしさはあまり知らなかった。白人の遊び人のような入れ墨男がいっぱいうろうろしている。レストランでは客引きの男たちがメニューを持ってつきまとう。ホテルから出ると災いが降りかかりそうな気配がする。

 それでもホテルで食べる料理と比べると、屋台で食べるタイ料理のおいしさは比べものにならない。しかも圧倒的に安い。トムヤムクンや魚、エビなどの美味しいタイ料理をたらふく食べても、一人あたり1000円もかからない。ホテルの半分以下で食べて、しかも美味しい。タイへ来る楽しみの一つは、このタイ料理だ。やはり何度来てもタイ料理は美味しい。しかもここの料理は観光客向けなのだろう。タイ料理の辛さがほどよくマイルドにされている。しっかり食べて、満喫した。

 実はプーケットに遊びに来たわけではなく、会議に参加するために来たのだ。2-3年に一回開かれるこの国際会議には、ここ2回ほど参加できなかった。久しぶりにアジアで開かれるというので、タイ料理にも惹かれて参加した。懐かしい顔が何人かいて、久しぶりだなあと肩をたたき合った。昔、日本にやってきたときに会った人が多い。でも、会議の参加者は昔と違ってほとんど顔を知らない人ばかりだった。いつか自分も年を取ってしまったなあと感慨深い。

 次回はブラジルで開かれることになった。ブラジルかあ。きっと行けないだろうなあ。庭の旅人椰子の木の下で、安楽椅子に寝ころび、本を読んだり、周りに咲いているブーゲンビリアや蘭の花を見ながら、のんびり遊びに来られたらなあと、日頃のあたふたぶりを思い出して嫌になった。最後のパーティにも出られずに一日早い飛行機便で帰ってきてしまった。いま、バンコクの空港で書いている。また、あたふたする生活が始まる。

緊急報告 中国電力がまた埋め立て工事再開を強行!

2010-11-16 | 南の海
山口県上関の長島田ノ浦を埋め立てようと、中国電力がまた工事を強行しようとしている。原発を建設するためだが、原子炉設置許可もまだ下りていないのに。祝島の住民の90%以上が同意していない。漁業権も放棄していない。なのに、なぜ埋め立てを強行するのだろう。原発推進で経済回復したい民主党政府は、この暴挙をむしろ促進しようとしている。国民の生活第一というマニフェストはどこへいったのだろう。以下は、長島の自然を守る会からの呼びかけです。

16日
>11:30
緊急報告です。
中国電力がまた埋め立て工事の再開を強行しようとしてきました。
台船1隻は祝島沖で祝島の漁船の抗議によって引き返しましたが、
砂利運搬船と見られる1隻は排水口側の海域に侵入しました。

>20:30
排水口側に侵入した台船ですが、祝島の漁船の抗議で工事区域外の海域で停泊しました。


午後4時過ぎには中国電力の社員の乗った船や海上保安庁の船は現地から去りましたが、

台船はそのまま停泊を続けています。
報道によると中国電力は明日も作業強行を試みるとのことで、
この台船とは別の台船が動く可能性もあります。
なお今日は10月19日に座礁した台船は姿を見せませんでした。

また今日も前回に引き続き、経済産業省の旗を掲げた船が現場海域に張り付いていました。
経済産業省は、地元住民の理解を得られないまま埋立て工事を強行しようとする
この中国電力の暴挙を、いったいどのように見ているのでしょうか。
前回の10月25日の最後の台船の撤退後、なにも状況が(中国電力にとって)
前進していない中、むしろ中国電力に対する非難の声が全国的、また世界的にも寄せられた中で、
そういった声に真摯に応えることすらしないまま工事再開を強行しようとすることは、理解し難い行為です。

祝島島民の同意のないまま、また全国及び世界から寄せられた批難や声明に
きちんと応えないままでの工事再開の強行に対し、ぜひ下記連絡先やマスコミ等のメディア、
そしてご自身のネットワークに、抗議、要請、また情報の共有をしていただけますようお願いいたします。

種子島はサーフィンの島

2010-05-27 | 南の海
大雨の京都を後にして、南の島へ出かけた。鹿児島空港は雨も上がり雲も明るくなっていた。鹿児島から南へ飛ぶこと25分で、種子島に着く。生まれて初めての種子島訪問。種子島といえば、鉄砲の伝来と宇宙航空研究所のロケット発射の宇宙センターくらいしか思い浮かばない。勝手に想像していたイメージは、隣の屋久島と違って平坦な島に、緑のあまりない畑が広がっている島だった。しかし、種子島空港の上空まで来て、イメージが間違っていたことが分かった。種子島は緑豊かな島だった。

 あまり高い山がないことは、隣の屋久島と比べて著しく異なる。それでも種子島は平坦とは言い難い。最高点は282mと低いが、常緑照葉樹林が山をこんもりと覆い尽くしている。もっとも平坦な場所は畑や水田が広がり、それは島と言うよりも本州の風景に似る。

 今、種子島はタケノコのシーズンで、どこへ行ってもタケノコが出る。孟宗竹のタケノコではなく、もっと細いニガタケと呼んでいるタケノコだ。東北や北海道で好んで食べるネマガリタケほど細くはないが、ややそれと似ている。あくを抜く必要がないため、そのまま煮込んで、ゆがいて食べられる。柔らかく、美味しい。民宿の夕食には、このニガタケの天ぷらと伊勢エビが一匹出てきた。立派な伊勢エビで、体長25cmくらいある。取れたてではなく、ゆがいて冷凍していたみたいで、ちょっと残念だったが、それでも十分美味しい。伊勢エビを食べるのは久しぶりだ。

 島の人に案内してもらい、島を見て回った。島全体を回っても、車なら3時間で回れる程度の島だ。海岸の風景が美しいのが印象的だった。なぜか? それは、海岸にほとんどコンクリート護岸や消波ブロックがないからだ。自然の造形がそのまま美しい海岸を作っている。砂浜はどこまでも広く、長い。砂がどんどん無くなりつつある本州の浜にはもう見られない光景が続いている。後背地には砂山が築かれ、昔の砂浜はかくあったのだろうと思わせる。この素晴らしい海岸の風景をいつまでも残して欲しいと思った。南の浜の先には、宇宙センターの発射台がそびえている。



 そういえば、種子島はサーフィンのメッカとして知られているらしい。砂浜が素晴らしいし、そこに作られる波が、サーフィンで有名なハワイの波とよく似ているらしく、全国からサーファーが集まってくるらしい。その人たちの中で、何人かはこの島の美しさと波のすばらしさに魅せられて、島へ移住してくると言う。古い人ではもう20年になる。100人以上の若者がこの島に移住してきている。特に仕事があるわけではないこの島に若者がこれだけ移住して住んでいると言うことは、島の自然が豊かで、定職が無くても食べていける島の豊かさがあるということ。食べさえできれば、それ以上望まなくても良いほどサーフィンが楽しめるということでもある。

 島の北端の喜志鹿崎から眺めた景色もまた素晴らしい。意外と近い種子島には、また来てみたいと思わせる何かがあった。しかし、隣の屋久島も行ってみたいが・・・。 



南国の王様ドリアン

2010-05-16 | 南の海
フィリピンに行ったときに、果物の王と女王と呼ばれるドリアンとマンゴスチンを食べた。たしかマンゴスチンが果物の王様と呼ばれていて、ドリアンは女王だったように思うが、フィリピンの人たちに聞くと、ドリアンこそが果物の王様だという。しかし、私にはどちらもあまり好きになれない。とくにドリアンはあの強烈な臭いもあり、果肉がまるで腐ったチーズのような臭いと口当たりがして、はっきり言って嫌いだ。まだマンゴスチンの方は、美味しさがある。

 今回のフィリピン行きで、このマンゴスチンとドリアンを同時に食べた。ドリアンはひとかたまりを口にしただけですぐに止めたが、マンゴスチンは勧められるままに、10個近く食べた。そうしたら、その夜に異変が出た。アレルギー反応だろうか。右の肩につぶつぶの発疹が現れ始め、みるみるうちに赤く腫れ上がりかゆみがし始めた。からだの他の部分にも肩ほどではなかったが発疹が出て、かゆみが続いた。アレルギー反応であることは確かだと思うが、食べた量からマンゴスチンが原因かなと思った。しかし、現地の人に聞くとマンゴスチンでアレルギーを示した人はいないという。おそらくドリアンだろうと。

 日本に帰ってからもはや3週間以上が過ぎて、肩の腫れはほとんど分からなくなった。しかし、かゆみは続いている。からだの他の部分の発疹とかゆみはなくなったが、肩の部分だけは時々手で掻こうと思ってしまう。耐えられないかゆみではないが、いまだにかゆみが無くならないのが嫌だ。ドリアンの強烈さは臭いだけではないらしい。もちろんアレルギー症状を示すかどうかは人によって違う。ドリアンを美味しいと思う人も多いのだろう。だから果物の王と呼ばれる。フィリピンの人たちは非常に好むらしい。

 フィリピンの人たちがお土産にドリアンを買ったために、車の中はドリアンの臭いが充満して、乗るたびに嫌な思いにさせられた。ドリアン号だな、って嫌味も言ってみたが、彼らは動じない。ドリアンにはもうこりごりだ。南国の果物には美味しいものが多いし、種類も多い。その中で私がもっとも美味しいと思ったのは、パプア・ニューギニアで食べたマンゴーだった。あの味は忘れられない。椰子の実の汁も、汗をかいた後で飲むとまるで天国の飲み物のように美味しい。しかし、同じものをレストランでグラスに入れてストローで飲むと、お金を損したような気がするほど不味い。果物の味は味わうときと場所とその雰囲気でまったく違うから面白い。

支配するものと川の水

2010-04-25 | 南の海
フィリピンのミンダナオ島には、イスラム教徒が多く住んでいる。インドネシアに近く、ミンダナオから島嶼群をつないでボルネオ島までひとつながりの多様な民族が住んでいた。200年近くのスペイン統治時代にルソン島のスペイン総督府が結局まつろわぬミンダナオの人々を完全に統治することをあきらめたほど、ミンダナオ地方の自治意識は強い。その後、日本の短期占領のあと、アメリカによる統治があり、マニラ政府が政治的経済的にミンダナオの統合を進めてきたが、キリスト教徒が圧倒的に多いルソンから移住してきた人々と、ミンダナオのイスラム教徒の間にはしっくりこない関係が続いている。イスラム教徒は貧しい人々が多く、ルソンから来たキリスト教徒には富裕で政治や経済を牛耳っている人が多い。それがいまでもミンダナオに反政府組織が三つもあり、どれもそれぞれ武装組織を持って政府軍と戦闘を続けていることの底流にある。

 今回、これまで何度も訪ねてきた南ダバオ州とは違って、もう少しイスラム教徒の多い北部イリガン州を訪れた。イリガンには多くの鉱山があり、産業開発が行われてきたために、街の賑わいはダバオにも匹敵するほどのように見えた。日本の商社マンもかなり来ているらしい。しかし、街ではやはりイスラム教徒を見かけることが多い。男の人は宗教を見分けるのは難しいが、女性はイスラム教徒は一見してわかる。スカーフなどで頭を隠しているから。さらにブルカとよばれる真っ黒い布で目以外の体のすべてを隠しているイスラム教徒女性もしばしば見かける。このブルカ姿の女性はダバオでは見かけたことがなかった。

 スーパーマーケットの人混みの中でブルカ姿の若い女性たちを見かけた。すれ違ったときにブルカの中の目を見て驚いた。目の回りにきらきらと輝くラメ(というのだろうか?)を装飾しており、睫毛は長く作られ、目の周りにはアイシャドウらしき色がつけられている。まるで原宿あたりをうろうろしている若い女の子のようだ。ブルカを来ている女性といえば、敬虔なイスラム教徒で、おしゃれなんかとは縁遠いと思っていた。実際、これまで南ダバオ州で見てきた頭から布をかぶった女性たちはみな貧しくて、生きていくのが精一杯のように見えた。化粧をしている人は、ほとんどいなかった。でも、よく考えてみれば、若い女性が経済的に許されるなら、ブルカの下でも精一杯のお化粧をしたいと思うのは当たり前なのだろう。しかもブルカを着用することを義務づけられた若い女性にとって、他人に見せるために化粧できるのは目とその周りだけなのだ。彼女らは、思いっきりその女心を目と目の回りに集めたのに違いない。けっして原宿あたりをうろついている不良娘と同じに見るわけにはいかないのかもしれない。

 今回も南ダバオ州のマリタというところで、ジュゴンを見ようと思って来た。しかし、昨年に続いて、今年もジュゴンは姿を見せなかった。観察した時間がせいぜい二日間のうちの4-5時間くらいだったので、ジュゴンがいなくなったと結論づけるのは早すぎる。実際、土地の人は今でもジュゴンが見られると言っていた。しかし、ジュゴンが少なくなっていることも、地元に人たちの共通した話でもあった。どうしてジュゴンが減っているのか。昨年の観察でジュゴンが見られなかったことから、今年はこの原因を探しに行った。およその目処はつけていったのだけど、やはりその原因は山林を切り開いて大規模に作られているバナナや椰子のプランテーションだろうと思う。川をさかのぼってみると、川の両側の平野はほとんどバナナのプランテーションに変わっている。昔はもっぱら日本への輸出のためのバナナだったけど、今は中国やアメリカ向けが多くなっているという。プランテーションの所有者はアメリカ資本やマニラの大資本だ。

 バナナや椰子のプランテーションは、山林をほぼ完全に切り倒して作られるので、表土が流出しやすい。流出した表土は、川を濁らせ、沿岸の海水の透明度を減少させる。それによってジュゴンの餌である海草が減る。そしてジュゴンも餌不足で減少する。しかも、プランテーションの問題は、農薬の大量使用である。使用した農薬が雨によって大量に海に流れ出て、海草を枯らす。どちらにしてもバナナや椰子のプランテーションは、ジュゴンの絶滅に大きい貢献をしている。そしてそれを食べている私たちは、ジュゴンの絶滅を促進していることになる。

 そんなことを考えながら川をさかのぼっていったが、中流から上には行くことができなかった。そこに流れて込んでいる支流は、きれいな水だったので、その支流に沿ってもっと上に行きたかったのだが、その上流は反政府組織の支配地域だという。反政府組織が支配している地域から流れる川の水があんなにきれいだというのは、まさに政治によって環境も支配されていると言うことを表しているのだろう。その意味を慎重に考える必要があると思った。

フィリピンの選挙とホテル

2010-04-21 | 南の海
一年ぶりでフィリピンのミンダナオ島に入る。着いた日に、いきなりミンダナオのバシラン島で爆弾が破裂して15人が死ぬというテロが伝えられ、ちょっと驚いた。しかし、行き先の南ダバオ州からは遠いので、あまり心配はない。それよりもフィリピンではいま選挙の真っ最中で、大統領から地方の議員までありとあらゆる選挙が同時に行われており、フィリピン人の選挙への関心の高さもあり、実に賑やかだ。大統領選挙の投票率はいつも80%近い。日本の人々の選挙への無関心と比べて大きな違いがある。もっとも選挙に関心があるから民主主義が進んでいるかどうかは分からないが。

 とにかく、あらゆるところに選挙のポスターがべたべたと貼られ、景観の悪いこときわまりない。森の中に椰子の葉でふいた小屋が数軒建っている集落を訪れたときも、その周りの椰子の木の幹にたくさんのポスターが貼られているのを見て驚いた。森閑と静まりかえった集落にコーランの声が朗々と響いているようなこんなところまで?という感じだ。モロイスラム解放戦線が近くで反政府の戦争を続けている村で、唯一聞こえるコーランの声を聞いていると、どこからかイスラム教徒たちがじっとこちらを見ているのではないかという恐怖も感じる。コーランの詠唱は、異教徒には威圧感さえも与えている。

 17日にイリガン市の宿にはいる。安宿で部屋が日本ビジネスホテルほどに狭いので驚いた。あまり外国でこんなに狭い宿に泊まったことがない。トイレは一応水洗トイレだが、水槽が壊れていて、便器に水が流れっぱなしになっている。しかし、使用後のフラッシュアウトができない。結局、普通のトイレのように水をくんで流さないといけない。次の日は、別の部屋に変えてもらった。今度の部屋も同じように狭い。しかも窓がない。昼間はいないので、窓はなくてもいいのだが、なんとなく閉塞感がある。トイレはちゃんと使えるし、シャワ-と便器の間には仕切りもある。ところが、問題が潜んでいた。シャワーを浴びようと部屋に入ってドアを閉めたら、ドアのノブが壊れていて、押せども引けども開かない。シャワー室には電話などあるわけ無いし、読んでも聞こえるはずもない。いよいよこれはどうしようもないと、思案に暮れた。しばらくして、ドアを蹴破ろうと思い、ドアを見ると下の方に空気取り入れ口の窓があり、それを引きはがすと簡単にとれて、小さな窓が開いた。そこから体をむりやり通して、擦り傷だらけになりながらなんとか部屋の外へ出ることができた。いまいましいホテルだ。これで勘定がいくらになるのか、チェックアウトが心配だ。

 結局、翌日になって別のホテルに替えることにした。というのも、朝になってホテルのフロントマンに事情を話したら、彼は私が換気用の狭い窓から必死に出てくるのを想像したらしくて、真っ赤になって笑っているのだ。さすがに私もこれには怒りがこみ上げてきた。謝るところを笑うとはいくら私が紳士?でも、許さない。一喝したら、まじめな顔になって謝ったけれども、それまで昨夜のことは忘れかかっていたのに、怒りが頭を支配してしまった。やはり、怒るところは怒らねばならないと思った。ついでに宿代を負けさせた。一泊500ペソ(約1100円)のところを、半額にさせた。そのくらいにしても当然だろう。本当ならタダにさせたいくらいだったが。

 取り替えたホテルは教会の横にあり、べたべたとキリストの顔のポスターをいたるところに貼り付けてある。キリスト教にあまりいい感情を持っていないのだが、安心できるような気にはなる。安ホテルには違いないが、昨日のホテルに比べるとややましだった。シャワーもお湯が出たのには感激した。日本からツアーで行くような旅行者は決して泊まらないホテルもいろいろあって、リスキーだが面白くもある。

原発推進の民主党への落胆

2010-03-14 | 南の海
民主党への落胆は続く。鳩山首相のお母さんからの譲渡や、小沢さんの政治資金での不動産購入や、北教組からの献金などが原因ではない。これらはたとえ違法だとしても微罪でしかないし、検察による民主党つぶしの狙いが見え見えなので、むしろ民主党頑張れと言いたくなることばかりだった。

 しかし、今回、鳩山内閣が決めた温暖化対策基本法案には、心底あきれた。温暖化対策のために原発推進を明記したことだ。なぜ原発が温暖化対策になるのか。CO2排出量がほかの発電よりも減るという証拠はどこにもない。以前書いたように(2009/12/20のブログ参照)、現在存在する約50基の原発から流れ出す巨大な熱排水の流れは、海水から大量のCO2を大気中に放出させる。政府はCO2削減のためと称して電気自動車をエコポイント制で推薦しているが、その電気は半分くらいが原発によって作られている。原発の熱効率は約30%ときわめて悪い。日本の自動車の半分を電気自動車にしても、その電気を原発増設でまかなおうとすると、自動車がガソリンで走っているのと同じくらいのCO2を排出することになってしまう。

 つまり電気で走っても、ガソリンで走っても、CO2は同じくらい出てくると言うことだ。しかも、個人的には電気自動車は燃費が高くつく。さらに問題なのは、原発の運転でできた高レベルから低レベルまでの放射性廃棄物の処理に、多額の金と危険と多くの土地や施設が必要になり、しかも、高レベル放射性廃棄物は処分方法さえまだ決まっていない。

 さらにやっかいなのは、原発を運転するとウラン燃料からプルトニウムといういっそう危険で核兵器の原料になる物質ができてしまう。プルトニウムを所持すること自体が核拡散防止条約に違反するため、IAEAの核査察を受け入れないといけない。核物質を使って発電を始めると、永遠に核物質が生産されて、その危険を未来永劫管理しないといけないことになる。

 このような危険で、しかもCO2の削減にもつながらない原発を推進するというのは、民主党政権も何も分かっていないのだろうか。いや、きっと分かっている。それでも原発推進というのは、原発建設によって手に入る巨大な利権とそれによる一時的な経済発展を得ようとしているからなのだろう。経済の成長政策が無いと批判される民主党だから、それを経済の成長政策だと言いたいのだろう。鳩山首相はベトナムに原発を売り込みに行くらしい。発展途上国に公害を輸出してきたこれまでの自民党政府のやり方と、何も違わない。

 山口県の上関原発建設のための埋め立てが中国電力によってまもなく始まろうとしている。3月9日から、広島の中国電力本社前で、一人の若者が原発建設を止めて欲しいと、72時間のハンガーストライキを始めた。中国電力はこれを無視。警察も路上への夜の座り込みを許可しないなど、露骨な企業よりの姿勢を示している。全国から集まった若者がいっしょに一日だけのハンスト(絶食)に参加したり、いっしょに座り込んだりしている。

 また、上関の原発で壊される祝島の人々の生活や長島の貴重な自然を紹介した映画「ぶんぶん通信」(鎌仲ひとみ監督)の上映会が日本各地で頻繁に開催されるようになった。瀬戸内海の中に作る上関原発を止めさせようという動きは全国的な広がりを持ち始めている。しかし、大手の新聞やテレビは決してこの問題を報道しようとしない。電力会社はこれらマスコミの巨大スポンサーであるからである。大手新聞には、電気事業連合の全面広告が「原発はCO2を出しません」というウソの宣伝を続けている。それでも人々は少しずつそのウソに気づき始めている。民主党の誤った政策が破綻するのは、わかりきっているのだが、それがばれるまでは、日本中で毒をまき散らし、将来の人々の財産と安全を食いつぶし続けておらが春を謳歌しようというのだろうか。原発反対の社民党は、温暖化法案の原発推進の部分を削れないなら、閣外に出るべきだ。

 72時間ハンストを成功させた若者には心から敬意を表したい。そしてその若者に対して巨額の損害賠償を請求している中国電力に、限りない軽蔑を送りたい。民主党へは、さらなる支持率の低下を予想しよう。

ベトナムの海からアメリカの犯罪を思う

2010-03-11 | 南の海
 フエから南に車で1時間ちょっと、Langco beach という美しい砂浜が広がるリゾートが、今回の仕事の場所だった。二日間、難しい話をした。1日目の夕方、おかしくなった頭を冷やしに海に入った。でもしばらく運動していない体は思ったように動かない。太平洋から打ち寄せる波に、潮水をのんでしまった。もっと体を鍛えないといけないと反省した。

 すべての仕事が終わってみんなで近くのラグーンの水上レストランに昼食を食べに出かけた。店の前でハマグリやカニや魚を水槽で飼っているのを見ていたとき、一人の物売りの子供が近づいてきたのを見て、息をのんだ。水頭症の子供だったのだ。お多福のように巨大な頭をした5-6歳の子供が、なにやら土産ものを売りに来た。私はどう対応して良いか分からず、いそいで目をそらし、彼がなにやらベトナム語で言っているのも無視して、足早にそこを去ってしまった。

 彼を見て、やっと思い出した。このベトナムは35年前まで20年間もあの偉大なベトナム戦争を戦い、アジアの小国が世界の覇王アメリカ帝国を実力で追い出した国だったのだ。アメリカがベトナム全土に徹底的に撒き散らした大量の枯れ葉剤というダイオキシンを含む猛毒によって、いまだにベトナムではその後遺症に苦しむ人たちが多い。母親の胎内で被曝した子供たちが、あるいは異常発生で胎児のうちに死に、あるいは異常を持ったまま生まれてきている。ベトちゃんとドクちゃんの多頭一体の例などは日本人にもよく知られているが、ベトナムではこれまでそのようなことが日常茶飯事だったのだ。アメリカはそれでも乳児の高死亡率や異常児の出生とアメリカが行った枯れ葉剤の散布には関係がないと言い張っている。責任を取ろうとしない。その姿勢は、イラクやアフガンで起こっている白血病の多発とアメリカ軍が使った劣化ウラン弾の間に関係はないというのと同じ構図である。アメリカはベトナムの事例に何も学んでいないか、もしくはベトナム人やイラク人が死のうが異常になろうがかまわないと思っているのだろう。

 いや、そうとも言えないのかもしれない。同様なことはアメリカ国内でもあるのだから。スリーマイル島の原発事故や、核実験場、原子力発電所周辺の住民の放射能被曝による乳幼児の死亡率の高騰さえも、関係ないと未だに言い張っているだけではなく、あきらかに周辺の住民の乳幼児が他と比べて10倍以上の死亡率が明らかになったときに、それ以後の乳幼児死亡率の統計を取ることを止めてしまった(もしくは公表しなくなった)。自国民でさえ、平気でそのようなことをする。(日本もいまだに原発は安全だと言い張っている)

 すべての水頭症がダイオキシンの影響とは言えないのは承知しているが、ベトナムで見たあの子供の未来を押しつぶしたのがアメリカの行為でないとどうして言えようか。そして、その子供を見てどうして良いか分からなかった自分に今、やりきれなさを感じている。あのベトナムで行われた米軍によるベトナム虐殺に日本の自民党政府もアメリカの前線基地を提供しておおいに協力したのだから、彼の巨大な頭は私たち日本人にもその罪を問うているのだ。

 ベトナムから帰った昨日、夜中に大きな頭をしたお多福のようなお化けの夢を見た。心の中に彼の姿がいつまでも残っているのだろう。非人道的な戦争を今すぐ止めさせたい。地球の上から戦争が無くなる日が来ることを祈る。そのために私は何をしたらいいだろうか。

ベトナムの古都フエから

2010-03-08 | 南の海
ハノイからベトナムの古都フエまで1時間のフライト。フエの町は以前やってきた時の静かな面影は消えて、町の中は建設ラッシュ。のっぽのビルが建ち並んできた。道路沿いの民家も新しい家が多い。ドイモイで社会主義政策を資本主義政策に大幅修正した結果の経済発展なのだろう。10年前は町の中を除くとほとんどの道路は舗装していなかった。町中の道路も中央だけの舗装で、両側には雨が降ると水たまりができていた。でももうそんなところは見かけなくなった。

 前回とは違って、新しくできた高級ホテルに泊まる。一泊50ドルとかいうので、日本で私が止まるビジネスホテル並みの値段だなあと驚いた。こんなに物価が安いベトナムで日本と同じくらいの値段のホテルとは・・・。たしかに立派なホテルだったが、でも50ドルとは高いなあと思いながら支払いをした。でも請求されたのは、50万ドン。日本円に直すと約2500円だった。ホテルの値段表にも5万ドンと書いてある。しかし、50ドルとも書いてある。ドルで払うと倍も取られるようだ。この値段表は昔の為替レートをそのまま書いてあるのかもしれない。その後修正していないのだろうか。ドンで払うに限る。

 フエにある広さが数十平方㎞という大きなラグーンに出かけた。焼き玉エンジンのような音のする漁師の舟に乗って、ラグーンを見て回った。10年前に来たときは、数カ所で魚の養殖が行われていたが、今回見てみると、このラグーンの中の枝湾全体が養殖網と竹竿でびっしりと区切られ、ラグーン全体がまるで養殖場に変わってしまっている。養殖しているものは主にブラック・タイガー。日本にもいっぱい輸出しているエビだ。昔は日本が東南アジアのエビを一手に輸入して買いまくり、ひんしゅくを買っていたが、いまは最大の輸入国はアメリカになっているとか。第2位が中国で日本は3位らしい。アメリカ人はエビが好きになったのだろうか。健康食指向で肉ではなくエビになったのだろうか。あまりそんな話は聞かないが。

 ラグーンでとれた天然のエビとノコギリガザミを買って、近くの食堂へ行き昼食にする。エビとカニは持参したものを料理してもらい、それ以外のシーフッドを注文する。出てきたのは、まずハマグリの吸い物が鍋に山盛り。だしがよく出ておつゆがおいしい。次にイカのゆでたものが皿に山盛りで。おいしい蔓植物の煮物がこれも皿に山盛りで出てくる。次いでエビをゆでたものがまたまた山盛り。それからノコギリガザミも山盛り。ノコギリガザミはマングローブガニともいい、熱帯地方では極上の味。ただ、今回のカニはやや小振りで、ガザミ程度の大きさ。味もまあまあ程度だった。でも、ニンニクがたっぷり入った美味しいたれで、両手をどろどろにして山盛りのカニに挑戦した。

 お腹いっぱいになって満足してフエ市内のホテルに戻り、街中の道路に広げられた露天商たちのありとあらゆる種類の商品や食品を眺めて回る。ちょうど、これまで10年以上南方へ出かけるたびに履いていったサンダルの金具が壊れたので、惜しげもなくそれを捨てた。本当は惜しかったのだが・・・。昔、フィジーでインド商人から買ったものだった。代わりのサンダルを近くの立派な店のショーウインドウから探し出し、早速買って履いた。革のサンダルだが、足にぴったりで、よくフィットする。気に入った。値段も1000円しない。町から帰って、シャワーを浴び、夕方のパーティに備える。夜もまた美味しいものばかりで、過食気味だ。10年ぶりのベトナムも来て良かったと思わせてくれる。