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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

イザヤ書 21章

2022年08月10日 | イザヤ書
イザヤ書 21章
夜回りよ、今は夜の何時ですか。
(21・11)


21章1節には「海の荒野」についての預言とありますが、それはバビロンのことです。ペルシャ湾に面する国ということでそう呼ばれました。このバビロンについての預言が1~10節まで。

11~12節はドマに対する預言です。ドマとはエドムのことです。エドムはユダの南側に位置する国です。そして、13~17節はアラビアに対する預言が語られています。

バビロンはメディア(ペルシャ)によって滅ぼされることが暗示されています。「エラムよ上れ、メデアよ囲め。わたしはすべての嘆きをやめさせる」と語られています(21・2)。預言されたとおり、その後のバビロンはメディア人によって滅ぼされ、メディア人の王クロスがペルシャ帝国を興し、バビロンに取って代わる世界帝国となって行きます。

このように戦乱に次ぐ戦乱の時代は「夜」の時代です。人々は夜回りに尋ねます。夜回りよ、今は夜の何時ですか」。このような暗黒の時代はいつまで続くのですか。夜明けはまだなのですか……と。

「夜回り」とは、夜の警備兵のことです。そこから転じて、神の時を知っている預言者のことでもあります。電灯もない時代です。漆黒(しっこく)の闇夜は恐ろしいものでした。夜明けはいつなのか。希望の朝を待ち望む人々の心情があらわれています。

でも、この時の夜回りの返事は、朝が来ます、夜もまた来ます。もしあなたがたが聞こうと思うならば聞きなさい、また来なさいでした(21・12)

朝が来るようで、また夜も来るというのです。旧約聖書の時代はそのような時代です。しかし、本当の朝が来る時代が来ました。それが新約の時代です。世の光であるイエス・キリストの来臨こそ、夜明けのしるしです。

すなわち、あなた方の眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、私たちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、私たちは、闇のわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。
(ローマ13・11~12)


イエス・キリストの栄光の光で照らされますように祈ります。

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イザヤ書 20章

2022年08月09日 | イザヤ書
イザヤ書 20章
彼らはその頼みとしたエチオピアのゆえに、その誇りとしたエジプトのゆえに恐れ、かつ恥じる。
(20・5)


今日の預言は、「アッスリヤの王サルゴンからつかわされた最高司令官がアシドドに来て、これを攻め、これを取った年」とあるので、紀元前711年のことです。

アシドドとは、イスラエルの西側、地中海に面するペリシテ人の国の首都です。アシドドはアッシリヤに対して反乱を起こしたのですが、鎮圧され、ついにアシドドは陥落しました。

そのときにイザヤは神から、さあ、あなたの腰から荒布を解き、足からくつを脱ぎなさいと命じられ、イザヤはそれに従い、裸になり、はだしで歩いたのです(20・2)

言葉によらない預言です。生き様を通じて神のメッセージを伝えました。

裸は当時の捕虜や奴隷の姿を意味していました。ユダヤの人々は、アッシリヤの進撃から守られるために、エジプトとエチオピア(クシュ)に支援を要請していたのですが、その頼みとするエジプトやエチオピアも、このように裸になってとらえられるのだ……と告げたのです。惨めな敗北の予告です。

このようにエジプトびとの虜(とりこ)とエチオピヤびとの捕われ人とは、アッスリヤの王に引き行かれて、その若い者も老いた者もみな裸、はだしで、しりをあらわし、エジプトの恥を示す。彼らはその頼みとしたエチオピヤのゆえに、その誇としたエジプトのゆえに恐れ、かつ恥じる。(20・4~5)

ですから、どうして、そのようなエジプトやエチオピアを頼ろうとするのか。まことの神を頼れとイザヤは語ったわけです。

日本の多くの人々は、日米同盟があるから大丈夫だと思っているでしょう。米国がいかに大国であっても、主なる神こそ信頼すべきお方です。主への信頼を忘れた日本も、イザヤの預言の如(ごと)く〝恐れ、恥を見る〟ようになるでしょう。

いざという時に、神を頼るのは難しいことです。日頃からの積み重ねが、いざという時に出てきます。

聖書を読む人はいますが、毎日読む人は少ない。神に祈る人はいますが、毎日祈る人は少ない。礼拝をささげる人はいるが、毎週ささげる人は少ない。

日頃の積み重ねが、いざという時に神を信頼するのか、エジプトやエチオピアを頼るのかの分かれ目です。イザヤはそれを身をもって警告しました。

イザヤのように「裸で歩く」必要はありませんが――神がそう命じていないので――、生き様(ざま)によって神のメッセージを伝えることは大切なことです。言葉では伝わらないことがあります。生き様も重要なメッセージです。

私たちはキリストの〝手紙〟であることを忘れてはなりません。神からのメッセージは紙にではなく、私たちの心に記されています。私の心に記された神の御言を、私の生活を通して、人々に読んでいただけるように生きるのが私たちの使命です。

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イザヤ書 19章

2022年08月08日 | イザヤ書
イザヤ書 19章
主はエジプトを撃たれる。主はこれを撃たれるが、またいやされる。それゆえ彼らは主に帰る。主は彼らの願いをいれて、彼らをいやされる。
(19・22)


第19章はエジプトについての預言です。エジプトは南の大国です。アッシリヤ、バビロンと次々に新興国が台頭する中で、古豪のエジプトは徐々に衰退して行きました。

どんな偉大な王国であっても、神のさばきから逃れることはできません。エジプトも様々な偶像礼拝に満ちた国です。その偶像礼拝の背後にあるのは悪魔や悪霊たちです。

そこで、まことの神である主の厳しいさばきを前にして、エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえるのです(19・1新改訳)

先に預言された国々へのさばきは、外敵の攻撃による滅びでしたが、エジプトの場合は、主は曲った心を彼らのうちに混ぜられた。彼らはエジプトをして、すべてその行うことに迷わせ、あたかも酔った人の物吐くときによろめくようにさせた(19・14)とあるように、内部崩壊による衰退です。

この曲がった心よろめく霊(新改訳)迷わす霊(新共同訳)とも翻訳されていますが、偶像礼拝によってもたらされる思想は、人々に迷いの霊をもたらすことになるのです。

偶像礼拝に満ちる日本もいかに迷っているでしょうか。イザヤが預言したエジプトと同じ状況です。彼らは偶像および魔術師、巫子(みこ)および魔法使に尋ね求めるのです(19・3)。 ※新改訳では「彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる」。

「占いブーム」や「霊界ブーム」に興じる日本の人々を、こうしてよろめきの霊、曲がった心が支配します。こうして、まことの神の栄光が見えなくされ、その顔には覆いがかけられた状態です。

「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである」という御言の通りです(Ⅱコリ4・4)

このような偶像大国エジプトですが、神は回復の預言を与えられました。神はエジプトを撃たれますが、またいやされます。その結果、エジプトは主に立ち返るのだと言われるのです(19・22)

このように、一連の預言をとおして啓示されていることは、創造主である神はイスラエルだけを気にかけておられるのではない。異邦人の救いも視野に入れて、すべてを公平にご覧になっている神です。

まだ、エジプトは預言通りにはなっていません。でも、神の熱心がこれをなさるはずです(9・7)。これらの預言に日本の名は記されていませんが、諸外国の中に含まれてます。

祈りましょう。エジプトと同様に偶像大国である日本ですが、どうか、この日本を覆って、キリストの栄光の福音を見えなくしている働きを取り除いてください。日本の人々が、栄光の主イエスに立ち返ることができるようにしてください。

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イザヤ書 18章

2022年08月06日 | イザヤ書
イザヤ書 18章
その時、川々の分れる国のたけ高く、膚のなめらかな民、遠くの者にも近くの者にも恐れられる民、力強く、戦いに勝つ民から万軍の主にささげる贈り物を携えて、万軍の主のみ名のある所、シオンの山に来る。
(18・7)


第18章はエチオピア(クシュ)についての預言です。クシュとはエチオピアの首都です。新改訳では羽こおろぎの国と訳されていますが、黒く艶のある肌の民を意味しているのでしょう。

当時のエチオピアは、時にはエジプトを凌駕(りょうが)するほど繁栄した国でした。しかし、アッシリヤの進撃はエジプトとエチオピアにまで及ぼうとしていました。そのような状況下で、エチオピアは北イスラエルとアラム(スリヤ)の反アッシリヤ連合の後ろ盾となっていました。そして、南ユダにも、反アッシリヤ連合に加わるよう使者を派遣しました。

この国は葦の船を水にうかべ、ナイル川によって使者をつかわすとはそのことを指していると思われます(18・2)

2節と7節の川々の分れる国のたけ高く、膚(はだ)のなめらかな民もエチオピアのことです。彼らは、アッシリヤからの攻撃の防波堤となるべく反アッシリヤ連合を組ませるため、中東の諸国を取りまとめようと画策したわけです。いつの時代も、小国は大国の狭間で翻弄される宿命を背負っています。どちらにつけば安全か。どちらと与(くみ)すれば生き残れるか。イザヤが活動した南ユダもそのような時代の荒波にもまれる小国でした。しかし、神の命令は、事態を静観せよというものでした。

主は私にこう言われた、晴れわたった日光の熱のように、刈入れの熱むして露の多い雲のように、わたしは静かにわたしのすまいから、ながめよう(18・4)

今は時ではない。農夫が実の熟するのを待って収穫するように、最善の時を待って静観せよと言われました。結果、アッシリヤは撃退されるわけですが、そのことは列王紀下の18~19章に詳しく記されているとおりです。

さて、当のエチオピアはどうなったのでしょうか。冒頭の聖句のように、彼らは万軍の主にささげる贈り物を携えて、万軍の主の御名のある所、シオンの山に来ると預言されています。威勢を誇っていたエチオピアが、主を礼拝するために小国ユダのエルサレムに上ってくるというのです。当時の世界情勢や勢力図を考えると、イザヤの預言はあり得ない展開です。でも、主の熱心がそれをなさるのです。

アッシリヤとの戦争の後、そのような事実はありません。ということはこれから実現するのです。キリスト来臨の時ではないかと思われます。預言者が繰り返し述べている〝その日〟です。

異邦人であるエチオピアにも、ついに信仰が与えられ、主を礼拝するためにシオンの山(エルサレム)に詣(もう)でるときがやって来るのです。

〝その日〟である新約の時代になって、その初穂のようにして、エチオピアの宦官がエルサレムに詣で、イエス・キリストを信じました(使徒8・26~39)

さらに、主イエス再臨のとき、世界中の民は告白することになります。「『さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もうと。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。(イザヤ2・3)

イザヤの目はキリスト来臨に注がれていました。その時を待ち望みつつ、この時代の苦難を生き抜いたのです。

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イザヤ書 17章

2022年08月05日 | イザヤ書
イザヤ書 17章
その日、人々はその造り主を仰ぎのぞみ、イスラエルの聖者に目をとめ、おのれの手のわざである祭壇を仰ぎのぞまず、おのれの指が造ったアシラ像と香の祭壇とに目をとめない。
(17・7~8)


第17章はダマスコについての預言です。ダマスコはスリヤ(アラム)の首都です。スリヤは北イスラエルと手を組んで反アッシリヤ連合を打ち立てたことはすでに見てきたとおりです。

しかし、そのような抵抗もむなしく、アッシリヤの大軍の前に完膚無きまでに打ちのめされます。そして、スリヤと運命とをもにするようにして北イスラエルは滅びます。

北イスラエルの誕生は、南ユダの重税政策に反感をいだいて分離独立した時からでした。自分たちこそイスラエルの本流であると自負する彼らでしたが、エルサレム神殿とは別に神殿を建立し、律法に反する祭司制度を採用して独自路線を突き進み、行き着いた結果は偶像礼拝でした。そして、スリヤ(アラム)と歩みを共にする中で、偶像礼拝の悪しき習慣の虜となってしまいました。アッシリヤによる破壊は、そのような忌まわしい罪に対する神の激しい怒りでした。

そんな激しい怒りの中にも、希望が預言されています。その日、人々はその造り主を仰ぎのぞみ、イスラエルの聖者に目をとめ、おのれの手のわざである祭壇を仰ぎのぞまず、おのれの指が造ったアシラ像と香の祭壇とに目をとめないのです(17・7~8)

こんなひどい民であっても、偶像を壊し、真の神なる創造主を礼拝するようになるのです。いったいどうやってですか。鍵はその日です。キリストが来臨される〝その日〟。新しい霊を注ぐという〝その日〟です。預言はそこに向かっています。

新約の民である私たちは、〝その日〟を体験したであろうか。〝その日〟に込められた神の圧倒的な恵み深さを知っているであろうか。

 
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イザヤ書 16章

2022年08月04日 | イザヤ書

イザヤ書 16章
モアブのさすらい人を、あなたのうちに宿らせ、彼らの避け所となって、滅ぼす者からのがれさせよ。
(16・4)


アッシリヤの進撃によってモアブの人々は逃げ場を失いました。それまで疎(そ)(えん)であった南ユダに避難する人々もありました。その人々は手土産にと小羊を贈って助けを求めました。

彼らはセラから荒野の道によって、小羊をシオンの娘の山に送り、国のつかさに納めたとはそのことを表しています(16・1)

しかし、南ユダにとって、避難民を受け入れることは、アッシリヤに敵対する行為になるわけで、おいそれと引き受けられるものではありません。しかし、神の御言は南ユダの人々に向かって……

モアブのさすらい人を、あなたのうちに宿らせ、彼らの避け所となって、滅ぼす者からのがれさせよと言われるのです(16・4)

今までさんざん邪険にしておいて、困ったら、手土産をもって、したり顔でやって来るのか。そんなユダの人々の腹立たしい声が聞こえてきそうです。お前たちが滅びるのは自業自得だという指摘もあるかも知れません。

しかし、彼らを受け入れよ、かくまってやれと主は言われるのです。

神がイスラエルの民を選ばれたのは祭司の国とするためです。神に反逆する罪人を神に執り成す祭司職が彼らの職分です。そして、その職分は新約の時代のクリスチャンにも与えられています。私たちもイエスの中でかくまわれ救われたのですから、今度は私たちがその役目を担っています。

あなた方は、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなた方が語り伝えるためである。(Ⅰペテロ2・9)

どうか、このような聖なる職務をはたすことができますようにと祈ります。

確かに、神は、モアブの高慢について怒っておられます。彼らは逃げ惑い、滅ぼされるのだという厳しいさばきの預言が語られる一方で、今日の預言のように、南ユダに対しては、避難民を助けてやれと語られるのです。

また、神はモアブの滅びに涙なさっているとも語られています(16・9)。その悲しみは内臓が捻(ねじ)れるようなものであるとも語られています(16・11)。こんなところにも神の義と愛を垣間見るのです。

そんな神の心を体現するかのように、イエス様は滅び行くエルサレムに対して涙して祈られました(マタイ23・37)。祭司の国である私たちも、イエスのこの執り成しの祈りに続くものです。

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イザヤ書 15章

2022年08月03日 | イザヤ書

イザヤ書 15章
わが心はモアブのために叫び呼ばわる。
(15・5)


第15~16章はモアブの国についての預言です。モアブはヨルダン川の東側に位置する国で、川をはさんで西側がイスラエルです。

モアブはイスラエルに比べて豊かな土地柄で、イスラエルが飢饉の時もナオミとふたりの息子は難を逃れてモアブに移住したことからも、その裕福ぶりがうかがい知れます(ルツ記1・1)

また、モアブは、アブラハムの甥ロトの子孫であり、イスラエルとは親戚筋にあたる民族です。ロトはアブラムと袂(たもと)を分かつとき肥沃な低地を選び取ったわけですが、その子孫であるモアブがたどった歴史は、裕福であるがゆえに、主なる神に頼ろうとはしない生き方でした。すぐそばに、神の民イスラエルがいても、その神に立ち返ろうとはしませんでした。

また、かつてのイスラエルが奴隷の地エジプトから脱出してカナンの地に入ろうとしたときも、モアブはイスラエルを援助せず、自分たちの領土を通過するのを妨害したこともありました。

そして、アッシリヤの脅威が及ぶにあたっても、モアブは神に立ち返ろうとするよりは、イスラエルの試練を他人事(ひとごと)のように横目でながめ、隣国に媚(こ)びを売って難局を乗り切ろうと躍起になっていました。

そのようなモアブですが、結局はバビロンによって滅ぼされてしまいます。15~16章は、そんなモアブに対するさばきの預言です。

神は、神の民イスラエルに敵対するモアブを憎んでおられるかと思いきや、滅び行くモアブを悲しんでおられます。嘆いておられます。口語訳では記載されていないのですが、新改訳では15章1節、6、8、9節には〝あぁ〟という神の嘆きが記されています。

そして冒頭の聖句のように、わが心はモアブのために叫び呼ばわると言われるのです。

モアブはイスラエルと血縁関係にあったばかりか、いつもイスラエルの隣国として、神の恵みの近くにいました。でも、神を求めようとしない。立ち返ろうとしない民でした。

神の恵みの傍(かたわ)らにいながら、信仰の一歩を踏み出せない人に似ています。あなたに、そして私にモアブ的な傾向はないだろうか。

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イザヤ書 14章

2022年08月02日 | イザヤ書
イザヤ書 14章
しかし、あなたは陰府(よみ)に落され、穴の奥底に入れられる。(14・15)


アッシリヤもバビロンも、神の民を撃つために、神が用いられた杖であり鞭でした。しかし、自分の強さを誇り高ぶったアッシリヤはバビロンに滅ぼされ、そのバビロンもメディア人に滅ぼされるのだと、神は語られました。

そのバビロンの滅びについての預言が引き続き語られます。

北東の大国アッシリヤは、北イスラエルとアラム(スリヤ)を滅ぼし、その勢いは南ユダにまで伸ばされていました。しかし、新たに勃興したバビロンによってアッシリヤは滅ぼされ、脅威は払拭されたかのようでした。

この時のバビロンは、南ユダからすればまさに明けの明星(みょうじょう)でした。

「明けの明星」とは金星のことです。夜が明けるころ、他の星々が輝きを失って行く中で、金星だけはひときわ明るく輝くので「明けの明星」と呼ばれます。

ですから、つらい夜を耐えつつ朝を待望する人々にとって、金星は夜明けを告げ、希望をいだかせる象徴的な星なのです。それで黎明(れいめい)の子とか(あかつき)の子とも呼ばれるわけです。

アッシリヤの攻撃によって息絶え絶えになっていた南ユダの人々からすれば、まさにバビロンは「明けの明星」「黎明の子」でした。

しかし、そのような明けの明星であったバビロンは堕落するのだと預言されています。黎明(れいめい)の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまったのです(14・12)

なぜ、バビロンは堕落してしまったのでしょうか。それは、自分は神のしもべに過ぎないことを忘れて高慢になったからです。バビロンは心の中でこう考えたというのです。

あなたはさきに心のうちに言った、『私は天にのぼり、私の王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。」(14・13~14)

自分は神の座にのぼろうとしたのです。

しかし、神は、そのような神に反逆するバビロンを容赦せず、滅ぼしてしまうのです。あなたは陰府(よみ)に落され、穴の奥底に入れられると告げられました(14・15)

バビロンの姿を反面教師として学ばなければなりません。神への謙遜と従順。それは被造者としての基本です。しかし、造られた者が創造主を認めず自らを神とすること。これが罪の根っ子です。

創造主である神だけが栄光を受けられるのは、ズルイと思いますか。創造主である神だけが礼拝をお受けになるのは、独裁者のようで反感を抱きますか。

そのような感覚が〝バビロン〟です。高き塔を建造して、自分たちも神のいただきに登ろうとした、かつての〝バベルの塔に込められた反逆の思想です。

創造主である真の神こそが、栄光をお受けになるにふさわしいお方です。

このことに反論するのは、被造者としての「おるべき所」を放棄することです。まさに、天で神に仕える為におかれた御使(天使)の中には、そのあるべき本分を捨てて堕落した者たちがいます。この堕落した天使たちこそが悪魔とその仲間たちです。

主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれたのです(ユダ1・6)

そのようなわけで、イザヤが預言したバビロンの堕落とさばきは、悪魔の堕落とさばきをも重複して預言しているわけです。そして、ヨハネ黙示録には、神による最終的なさばきが預言されていますが、そのとき滅ぼされる町の名がバビロンであるのは示唆に富んでいます。

一方、神によってきよめられ、キリストの花嫁として描かれている町の名はエルサレムです。バビロンとしてではなく、エルサレムとして生きる者でなければなりません。

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イザヤ書 13章

2022年08月01日 | イザヤ書

イザヤ書 13章
わたしはその悪のために世を罰し、その不義のために悪い者を罰し、高ぶる者の誇をとどめ、あらぶる者の高慢を低くする。
(13・11)


イザヤが預言した時代は、南ユダ王国がアッシリヤの脅威にさらされていた時代であり、当時のバビロンはまだ小国にすぎませんでした。第13~14章はそのバビロンについての預言です。

その後バビロンは勢力を伸ばし、アッシリアを倒して中東の一大勢力となって行きます。南ユダ王国はアッシリアの攻撃に対しては何とか持ちこたえたのですが、遂にバビロン軍の前に倒れます。

バビロン軍によってエルサレムは破壊され、民は殺され、残された者たちは奴隷としてバビロンへと連れて行かれます。これがあのバビロン捕囚です。

神は、アッシリヤをご自身の杖(つえ)や鞭(むち)として用いて、ご自分の民イスラエルに対する懲らしめとさばきのために遣わされましたが、バビロンもまた同様に用いられました。

しかし、自分が神の鞭として使われているに過ぎないことを忘れて、勝利に酔いしれる高慢なアッシリヤに対して、主はアッスリヤ王の無礼な言葉と、その高ぶりとを罰せられる(10・12)のと同様に、神はバビロンに対しても対処なさいます。

第13章はバビロンに対する神のさばきにつての預言です。

バビロンは、神がユダを撃つための杖として用いられたのですが、その高慢をお見逃しにはなりませんでした。高ぶる者の誇りをとどめ、あらぶる者の高慢を低くされるのです(13・11)。具体的には、「メディア人を興してバビロンを滅ぼす」と言われました。

見よ、わたしは、しろがねをも顧みず、こがねをも喜ばないメディアびとを起して、彼らにむかわせる。彼らの弓は若い者を射殺し、腹の実をあわれむことなく、幼な子を見て、惜しむことがない。国々の誉であり、カルデヤびとの誇である麗しいバビロンは、神に滅ぼされたソドム、ゴモラのようになる。(13・17~19)

神の御言どおり、ユダヤ人を捕囚としたバビロンは、メディア人よるペルシャ帝国の勃興によって滅ぼされ、メディアの王クロスによって、ユダヤ人解放令が発布され、彼らは再びイスラエルの地に戻ってきました。

このように、神は高ぶる者を低くされます。こんな力強い神の御前で、自ら身を低くする者は幸いです。

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イザヤ書 12章

2022年07月30日 | イザヤ書

イザヤ書 12章
主よ、私はあなたに感謝します。あなたは、先に私にむかって怒られたが、その怒りはやんで、私を慰められたからです。
(12・1)


人は怒りにまかせて「そんなもん知るかっ!!」と以前のことをひっくり返してしまいますが、神は怒られてもご自分の約束をお忘れになりません。

罪に対して激しい御怒りをくだされる神ですが、悔い改める者たち……、残りの者たちをあわれみ、神の御もとに立ち返るようになさいます。放蕩息子を待っている父のようです。

ですから、先の第11章では、残りの者たちが世界の隅々から戻ってくるのだと預言されています(11・11~12)

その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる。(11・11~12)

この預言が語られたように、やがて南ユダの人々はバビロン捕囚の地から戻ってきました。しかし「地の四方から」の帰還ではありませんでした。これは、さらに後の時代のことを預言しています。

先に、聖書の預言は「二重の預言」になっている場合があることを見ましたが、この預言もそのように理解すべき箇所です。

紀元70年、ローマ軍によってエルサレムが陥落し、ユダヤ人たちは流浪の民となり、世界各地へと散らされて行きました。しかし1948年イスラエルの建国と共に、多くのユダヤ人たちが、文字通り「地の四方から」集まってきました。

この預言はいまも〝現在進行形〟です。イエス・キリスト再臨のとき、残りの者たちは文字通り地の四方から集められ、約束の御国の中に入れられることになるはずです。

その時、彼らは今日の聖句のように告白します。

主よ、私はあなたに感謝します。あなたは、先に私にむかって怒られたが、その怒りはやんで、私を慰められたからです」。

神は、罪に対して怒られる神ですが、御怒りは罪をきよめるためであって、怒りそのものが目的ではありません。御怒りの終着駅は慰めです。

この原則はイスラエル民族だけでなく、新約時代の私たちにも同じです。神は、罪に対する御怒りを、イエス・キリストの十字架に注がれました。私たちが受けるはずの御怒りを、イエスは十字架の上で引き受けてくださいました。

この十字架は私のためであったと信じる者は、神の御怒りから解放され、神の慰めを受けるのです。このように、イエスの十字架には神の御怒りと慰めとが込められています。

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イザヤ書 11章

2022年07月29日 | イザヤ書

イザヤ書 11章
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。
(11・1~2)


神のさばきと御怒りは、他国軍 ――それは、アッシリヤであり、その後に続くバビロン―― による進撃によってもたらされることが、先の章で語られていました。

その結果、南ユダは壊滅的な打撃を受けます。それは、茂った林が伐採されたような状態です。主は斧をもって茂りあう林を切られる。みごとな木の茂るレバノンも倒される(10・34)。しかし、そのような伐採された地から、ひとつの「芽」が生え出て実を結ぶのです。それは、エッサイの根株から生え出るのだと預言されています。伐採されたあとの根は死んだも同然。しかし、そんな死の中にも、神は新しいいのちをお与えになります。

「エッサイ」とはダビデ王の父の名です。かつて、神は、ダビデ王家からキリストが誕生すると約束なさいました。そのために家系を絶やさすことはないのです。神はその約束をお忘れになっていません。

たとえ切り株にしてしまうほどにお怒りになっても、神は、ご自分の約束を変更なさいません。私たち人間は、激しく怒るあまりに、かつての約束もなかったことにしてしまうのですが、神はそういう方ではありません。

さて、この切り株から生え出たとは、だれのことでしょうか。それはイエス・キリストです。エッサイの家系、ダビデ王家から来られたイエスこそ、新芽のように生え出たキリストです。

イエス・キリストはその公生涯を始められるにあたり、聖霊を受けて働かれました。預言の言葉の通り彼には主の霊がとどまるのです。

このお方は、父なる神を愛し従順して、正しいさばきをなし、公平をもって治められる王です。預言は次のように告げています。

彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国の内の柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。(11・3~5)

キリストは〝見るところ、聞くところによってさばかない〟のです。

見もしないでさばいたり、聞きもしないで他者のことをあれこれと決めつけてはいけません。だから、よく見て、よく聞いてから判断しなければなりません。しかし、キリストはさらに、〝見るところ、聞くところによってさばかない〟のです。人には見えない、その人の動機であったり生い立ちもふくめて、さばかれるという意味です。

人間は、見たからといって、すべてを見たわけではありません。聞いたからといって、すべてを聞いたわけではありません。それなのに、知ったかぶりしてさばいてしまいます。

さて、実際に2千年前、キリストが来られても、いまだに実現していない項目もあります。それは……

狼は小羊と共にやどり、豹は子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。

彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである
という預言です(11・6~9)


被造界全体が、創造された当初の状態に回復するのだと預言されていますが、まだ実現に至っていません。それは、イエスの再臨によって実現するはずです。

今は、被造界全体が、その時を待ってうめいている時代です。私たち人間もうめいています。それは、霊的には救いを受けましたが、肉体はまだ完全には贖われていないからです。

実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っている私たち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、体のあがなわれることを待ち望んでいるのです(ローマ8・22~23)

聖書の預言は、アッシリヤによって滅ぼされるが、回復が用意されている……という直近の予告と共に、キリストの来臨によってなされる更に先の予告も重ねて語られています。二重に三重にと、預言されているわけです。

キリストにあって、これら神の御言は、ひとつとして地に落ちることなく完成します。

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イザヤ書 9章

2022年07月27日 | イザヤ書

イザヤ書 9章
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
(9・2)


先の第8章の預言では、ダマスコとサマリヤはアッシリヤによって滅ぼされるのだと語られました(8・1~4)。しかし、そのような苦しみにあった地にも、やがて光が差す時が来るのだと、主は言われます。

苦しみにあった地にも、闇がなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。(9・1)

ダマスコとサマリヤの滅びは神のさばきであり、罪に対する神の御怒りであると語っているのですが、あわれみ深い神は、そのような滅びの中にも希望の光を注がれます。

上記のゼブルンとナフタリ地とはアッシリヤによって滅ぼされた北イスラエルのことです。そして、その地域はアッシリヤの植民政策によって外国人との混血がすすみ、やがて「異邦人の地」と呼ばれるようになりました。

端から見れば、神から見捨てられた地です。暗やみにつつまれた地です。そこは希望の光が閉ざされた地です。そのため、「ナザレからいったい何の良きものが出ようか」と揶揄(やゆ)される地です。

しかし、神は、そんな暗闇の地をお見捨てになっていません。そこに光を注がれます。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照ったのです(9・2)

預言の本文は〝過去形〟で記されていますが、預言が語られた時点ではまだ実現されていません。たとえ未来のことであっても、まるで過去のことのように表現してます。それほど確実な約束であることを意味しています。

では、この御言はいつ実現したのでしょうか。

イエス・キリストが来られた時です。イエス様はユダのベツレヘムで誕生されましたが、育ったのはガリラヤ地方の寒村のナザレです。神の救いの福音は、預言通りこのガリラヤから語り始められました。そのことをマタイは次のように記録しました。

「そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。これは預言者イザヤによって言われた言(ことば)が、成就するためである。

『ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった』。」(マタイ4・13~16)

神は、約束をお忘れになってはいませんでした。イザヤを通して預言なさったことを、約700年の歳月を経て見せてくださいました。

神のなさることは、人の感覚では先延ばしになさっているようですが、お忘れになったのではありません。私たち人間の方が、神様の永遠の尺度に追いついていないだけです。その隔てを埋めるのは信仰です。

かくして約束された「大いなる光」は、キリストを通して照らされるようになりました。ヨハネ福音書は、このお方は世の光であって、暗闇はこれに打ち勝つことができなかったと紹介しています。

さて、イザヤはこの預言の成就をはるか彼方(かなた)に見ながら、そのお方が〝生まれたばかりのみどり子〟であると紹介しています。

ひとりのみどり子が我々のために生れた、ひとりの男の子が我々に与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって、これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。(イザヤ9・6~7)

この「みどり子」は、先のイザヤ書7章の「乙女が身ごもって生む男の子」のことなのでしょうか。

7章の男子は直近の意味では、預言者の妻から生まれた子でした。しかし、この子がやがてイスラエルを統治した事実がありません。ですから、9章の男子は、未来に生まれてくる男子のことです。

しかし、先の7章の男子が「インマヌエル」と呼ばれることと関連して、7章の男子誕生預言は2重の意味が込められていて、後に来られるみどり子によってより確実に実現すると解釈されます。

このお方によって、暗闇の中に住んでいた私たちの上に光が照るようになりました。罪の闇が照らされ、「ゆるし」という光のもとで生きることができるようになさいました。

9章1~7節はイスラエルの回復とキリスト誕生の預言が記されていますが、8節以降は再び北イスラエルに対するさばきが語られています。内容が前後していますので混乱しないように。

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イザヤ書 10章

2022年07月27日 | イザヤ書
イザヤ書 10章
その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。
(10・20~21)


「その日」には、アッシリヤ帝国によって、北イスラエルは滅ぼされ、南ユダも激しい攻撃にさらされる。それは、神がご自身のさばきの杖として、また怒りの鞭としてアッシリヤを用いるのです(10・5)

そのような刑罰の日に、民よ、どう対処するのか考えてみよと主は迫っておられます。

あなた方は刑罰の日がきたなら、何をしようとするのか。大風が遠くから来るとき、何をしようとするのか。あなた方は逃れていって、だれに助けを求めようとするのか。また、どこにあなた方の富を残そうとするのか。(10・3)

やけになってふて腐れる人がいます。一方で、しずまって自分の生き方を振り返り、神の御前に正直になって祈る人もいます。

神のさばきには、常に悔い改めて神に立ち返れというメッセージが込められています。罪に対するさばき……それは神の「義」です。しかし義で終わらず、悔い改めて救われる道を用意なさっています。それは神の「愛」です。

悔い改めて神に立ち返れ。

これが神の願っておられる道です。しかし、この道を選ぶ人が少ないのです。その道は細く、その道に入る門は狭いからです。むしろ、多くの人々は、広い門と広い道を選びます。

自分は間違っていないと「自己正義」に立つ人ほど、悔い改めは狭い門であり、細い道です。そして、嫌いで苦手な方法です。

ですから、このイザヤの時代も、多くの人々は悔い改めないであろうと預言されています。わずかな「残りの者」が、神に立ち返るのだと……。

あなたは、そして私は、この〝残りの者〟となっているでしょうか。

残りの者とは、悔いし砕けし霊魂の者たちです。神のさばきに対して、「逃れていって、だれかに助けを求めようとする」のではなく、悔い改めて、まことの神に立ち返る者たちです。

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イザヤ書 8章

2022年07月26日 | イザヤ書

イザヤ書 8章
彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。
(8・12~13)


状況は先の第7章で述べたとおり、北イスラエルとスリヤ(アラム)の連合軍が、南ユダに進撃してきた時のことです。国内は、王国存亡の危機にいかに対処すべきかで大混乱に陥っていました。

そんな中、「大丈夫だよ」というしるしが与えられるのです。それは、乙女(おとめ)が身ごもって男の子を産むという小さなしるしだということを、先の7章でとりあげました(7・14)。この〝男の子〟とは、新約の立場からは、乙女マリヤから生まれたイエス・キリストだと解釈してしまうのですが、イザヤが預言した当時の文脈からすれば、預言者の妻(新改訳では「女預言者」)が男の子を産んだことを意味しています(8・3)。そして、この子が、目前の危機から救い出してくれる象徴的な存在となるのです。

神は、この男子にマヘル・シャラル・ハシ・バズと名づけよと命じました。その名の意味は略奪が来る、損傷は速やかに来るです。そして、こう告げられたのです。

それはこの子がまだ『おとうさん、おかあさん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの富と、サマリヤのぶんどり品とが、アッスリヤ王の前に奪い去られるからである」。(8・4)

つまり、迫り来る北イスラエルとスリヤを略奪し滅ぼすために、アッシリヤ軍が速やかにやって来ることを予見した名でした。 ※ダマスコとはスリヤ(アラム)の首都。サマリヤは北イスラエルの首都。

でも、こんな幼な子の名前が何の励ましになりますか。人々は侮ったのです。

こうしてある人々は、この際、北イスラエルおよびスリヤと和を講じ、北東に迫り来るアッシリヤの脅威に対抗すべく、反アッシリヤ連合を結成すべきだと考えました。また、ある人々は、逆に、アッシリヤと手を結ぶことで、当面の敵を挟み撃ちにすればよいと考えました。また、別の人々は、神ならぬ霊媒や口寄せに答えを求めて拝んでいました。神ならぬ者にどうして求めるのか。そのような時こそ、主である神に求めるべきではないのかとイザヤは告げます。

人々があなた方に向かって『さえずるように、ささやくように語る巫子(みこ)および魔術者に求めよ』という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。(8・19)

人は恐れに支配されると、正しい判断ができなくなります。ですから、イザヤは人々に語りました。彼らが恐れるものを恐れてはならないと。ただ、恐れるべきは、われらの神であると。

人々が恐れているものは、「造られた存在」に過ぎません。それらを造られた創造主である神こそ、本当に畏(おそ)れるべきお方です。その方を知らないので、被造物を恐れます。

恐怖に支配されそうになるとき、創造主である神を見上げよ。その方に祈り求めよ。万物を創造なさった方は、被造物たちより圧倒的に強いお方であることを覚えよ。

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イザヤ書 7章

2022年07月25日 | イザヤ書

イザヤ書 7章
気をつけて、静かにし、恐れてはならない。
(7・4)


ダビデによって統一されたイスラエル王国は、後に南北に分裂し、北はイスラエル王国、南はユダ王国となったことはすでにお話ししたとおりです。

先の第6章で、ユダの王ウジヤが死去したことが述べられていましたが、そのウジヤ王の孫にあたるアハズ王の時代のことです。北イスラエルの王ペカとスリヤ(アラム)の王レジンとの同盟軍が、南ユダ王国に進軍してきたのです。

当時、北東の大国アッシリヤが勢力を伸ばしており、小国の北イスラエルとスリヤ(アラム)は連合してこの脅威に対抗しました。彼らは、さらに南ユダ王国にも連合軍に参加するよう要請したのですが、アハズ王はそれを拒絶します。すると一転、北イスラエルとスリヤ(アラム)の連合軍は先手を打ってユダ王国を支配下におこうと進軍してきたわけです。

この時の南ユダの民と王の心境が記されています。「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」のです(7・2)。 ※「エフライム」とは北イスラエルの別名。

そんな時に、イザヤは神の御言を預言したのです。気をつけて、静かにし、恐れてはならないと語られました。また、もしあなたがたが信じないならば、立つことはできないとも語られました(7・9)

目に見える戦力や人間を頼るのか。それとも万物の創造主であり支配者である神を信頼するのか。そのことが問われています。

理屈では、神を信頼すべきであることは分かっていても、実際は目に見える戦力や人を頼ってしまいます。ですから、戦力や人を見て恐れも生じるのです。

日頃の小さな戦いの中で ――仕事上のこと、家族のこと、経済的なこと―― 戦いの場は小さくても、私たちは、目に見えるものを頼るのか、それとも神を信頼するのか。その選択の訓練です。

そんな中で神は私たちと共にいるインマヌエル)」というしるしを見せてくださいます。

アハズ王にも、見よ、乙女がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる(7・14)というしるしがあるのだと、主は語られました。乙女が生んだ赤子が〝しるし〟だと言われるのです。

もっと大きなしるしなら心強いのに。赤ん坊がしるしだなんて……、見落としてしたり、軽んじてしまいそうなしるしです。でも、小さなことに神はしるしを表して、「わたしはあなたと共に居るんだよ」と語ってくださっています。

敵の数ばかりを見ないで、小さなしるしに目を留める信仰をもとうではありませんか。「神が共におられる」と確信を与えてくれる小さく隠れた出来事に感謝しようではありませんか。

だからこそ気をつけて、静かにし、恐れてはならないのです。神は小さなしるしをもって、「わたしは共に居るよ」と見せてくださっているのですが、注意散漫で、心が騒いでいて、恐れていては、それに気づくことができません。

イエス・キリストが誕生なさったときもそうでした。だれもこの幼な子の誕生に気付きませんでした。気付いたのは東方の博士たちと、野宿をしていた羊飼いたちだけでした。

周囲の波風に翻弄(ほんろう)されそうなとき、気をつけて、静かにして、恐れないようにしよう。きっと身近なところに、インマヌエルのしるしはあるのです。

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