イザヤ書 9章
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。(9・2)
先の第8章の預言では、ダマスコとサマリヤはアッシリヤによって滅ぼされるのだと語られました(8・1~4)。しかし、そのような苦しみにあった地にも、やがて光が差す時が来るのだと、主は言われます。
「苦しみにあった地にも、闇がなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。」(9・1)
ダマスコとサマリヤの滅びは神のさばきであり、罪に対する神の御怒りであると語っているのですが、あわれみ深い神は、そのような滅びの中にも希望の光を注がれます。
上記の「ゼブルンとナフタリ地」とはアッシリヤによって滅ぼされた北イスラエルのことです。そして、その地域はアッシリヤの植民政策によって外国人との混血がすすみ、やがて「異邦人の地」と呼ばれるようになりました。
端から見れば、神から見捨てられた地です。暗やみにつつまれた地です。そこは希望の光が閉ざされた地です。そのため、「ナザレからいったい何の良きものが出ようか」と揶揄(やゆ)される地です。
しかし、神は、そんな暗闇の地をお見捨てになっていません。そこに光を注がれます。「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」のです(9・2)。
預言の本文は〝過去形〟で記されていますが、預言が語られた時点ではまだ実現されていません。たとえ未来のことであっても、まるで過去のことのように表現してます。それほど確実な約束であることを意味しています。
では、この御言はいつ実現したのでしょうか。
イエス・キリストが来られた時です。イエス様はユダのベツレヘムで誕生されましたが、育ったのはガリラヤ地方の寒村のナザレです。神の救いの福音は、預言通りこのガリラヤから語り始められました。そのことをマタイは次のように記録しました。
「そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。これは預言者イザヤによって言われた言(ことば)が、成就するためである。
『ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった』。」(マタイ4・13~16)
神は、約束をお忘れになってはいませんでした。イザヤを通して預言なさったことを、約700年の歳月を経て見せてくださいました。
神のなさることは、人の感覚では先延ばしになさっているようですが、お忘れになったのではありません。私たち人間の方が、神様の永遠の尺度に追いついていないだけです。その隔てを埋めるのは信仰です。
かくして約束された「大いなる光」は、キリストを通して照らされるようになりました。ヨハネ福音書は、このお方は世の光であって、暗闇はこれに打ち勝つことができなかったと紹介しています。
さて、イザヤはこの預言の成就をはるか彼方(かなた)に見ながら、そのお方が〝生まれたばかりのみどり子〟であると紹介しています。
「ひとりのみどり子が我々のために生れた、ひとりの男の子が我々に与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって、これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ9・6~7)
この「みどり子」は、先のイザヤ書7章の「乙女が身ごもって生む男の子」のことなのでしょうか。
7章の男子は直近の意味では、預言者の妻から生まれた子でした。しかし、この子がやがてイスラエルを統治した事実がありません。ですから、9章の男子は、未来に生まれてくる男子のことです。
しかし、先の7章の男子が「インマヌエル」と呼ばれることと関連して、7章の男子誕生預言は2重の意味が込められていて、後に来られる「みどり子」によってより確実に実現すると解釈されます。
このお方によって、暗闇の中に住んでいた私たちの上に光が照るようになりました。罪の闇が照らされ、「ゆるし」という光のもとで生きることができるようになさいました。
9章1~7節はイスラエルの回復とキリスト誕生の預言が記されていますが、8節以降は再び北イスラエルに対するさばきが語られています。内容が前後していますので混乱しないように。
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