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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

イザヤ書 6章

2022年07月23日 | イザヤ書

イザヤ書 6章
私はまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれを遣わそうか。だれが我々のために行くだろうか」。そのとき私は言った、「ここに私がおります。私をおつかわしください」。
(6・8)


第6章の記事は「ウジヤ王の死んだ年」となっていることから、紀元前約740年頃のことです。南ユダ王国は列強のはざまで、舵(かじ)取りの難しい時代を迎えていました。

そんな時、イザヤは神による神秘体験を得ました。ウジヤ王の死んだ年、私は主が高く上げられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見たのです(6・1)

彼に顕(あらわ)れたのは〝主〟という名によって遣わされた御使(天使)です。人は神を直接見ることはできません。そして、神が人に対して、ご自身を顕現なさるのは、御使を通してです。

ただ一度、神が見える姿でご自分をあらわされたのは、御子イエスによってのみです。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ、父のふところに居るひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」と語られているとおりです(ヨハネ1・18)

旧約の時代は、御使が〝主〟という名で神をあらわしましたが、新約の時代は、神の御子が〝イエス〟という名で神をあらわされました。

御子が受け継がれた名は父の名であったので、イエスの名に最高の権威が与えられました。ですから、イエスの名に罪をゆるす権威、すなわち救いの権威が与えら得ました(使徒4・12)。それゆえ、「御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」とはそういう意味です(ヘブル1・4)

さて、イザヤ書に戻りましょう。イザヤにあらわれた主は、神のメッセージを伝える人物をさがしておられます。だれを遣わそうかと言われます。この時、イザヤは「ここに私がおります。私をおつかわしください」と申し上げました。

神は、ご自分の重要な働きをなさるとき、必ず人々に伝えてからなさるお方です。いよいよ「終わりの日」「その日」が実現しようとしているのです。突如として、その日が来ることがないように、神はそれを伝えようとなさいます。

大洪水の時もそうでした。神は、ノアとその家族を用いて、洪水による神のさばきがあることを知らせました。そのように、イスラエルに臨まんとするさばきの場合も、神は、それを伝える人物を求められ、イザヤはその召しに従ったのです。

今の時代も同じです。キリストが再び来られるとき、「終わりの日」が完成します。ですから、その日の到来とイエスの救いを伝える者を神は求めておられます。

さて、イザヤが主の召しに応答した直後に告げられた預言が、私たちの理解を苦しめます。

あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなた方はくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなた方はくりかえし見るがよい、あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである。(イザヤ6・9~10)

人々の心は頑(かたく)なだと言われたのです。語っても受け入れる者はほとんど居ないと。御子イエスが来られた時もそうでした。神の御言を聞いて見ているのに、人々はイエスを信じなかったのです。

私たちがイエスの証人として遣わされるのも同じです。神のみことばを伝えるのは一筋縄では行かないんだよ……という、主の警告と励ましです。それでも、時が良くても悪くても語るのがイザヤの使命でした。そして、新約時代の私たちの使命です。

「こんな私には無理です」と断りますか。それとも、勇気を出してここに私がおります。私をおつかわしくださいと主の召しに応えますか。

イザヤを召された神は、いま私たちを召しておられます。

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イザヤ書 5章

2022年07月22日 | イザヤ書

イザヤ書 5章
わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。
(5・4)


イザヤによる預言は、再びイスラエル民族への叱責です。

神は、イスラエル民族を特別に選び、神の民とし、神の御国を建てあげるために用いようとなさいました。そのために、彼らを奴隷の地であるエジプトから連れ出し、荒野で律法を与え、約束の地であるカナンに導き入れました。ぶどうの木を植えるようにして、神はイスラエル民族をカナンの地におかれました。それは、良い実を収穫するためです。神への謙遜と従順という聖なる実を収穫しようとなさったのです。

しかし、イスラエル民族の結んだ実は野ぶどうの実(新改訳では「酸っぱいぶどうの実」)であったと、主は言われました(5・2、4)

神は農夫のような方です。御子イエスも「わたしの父は農夫だ」と言われました。神は、豊かな収穫を得ようと人々を養い育ててくださる方です。

旧約の時代に、イスラエルが結んだ実は酸っぱい実でした。神を喜ばせる芳醇な甘い実ではありませんでした。しかし、神は、なおも豊かな実を結ばせるために、御子イエスをお遣わしになりました。それが新約の時代です。イエスは「わたしはぶどうの木だ。あなた方はその枝だ」と言われ(ヨハネ15章)、罪の実を結ぶ悪しき木から切り取って、イエス・キリストというぶどうの木につながるようになさいました。

このキリストからは、いのちの御霊の流れが供給されるので、豊かな実を結びます。「いのちの御霊の法則」の中で結実するのです。

しかし、イザヤが預言した当時は、まだ「その時」は来ていません。キリストの来臨を待たなければなりませんでした。

当時のイスラエル民族の退廃ぶりは手の施しようがありません。「わざわいなるかな、彼らは偽りのなわをもって悪を引きよせ、車の綱をもってするように罪を引きよせる」のです。罪に車輪がついていて、いとも容易く罪を引き寄せる始末です。

神は、このぶどうの木(イスラエル)をカナンの地から切り取ってしまわれます。それは、遠くからひとつの国民を起こして、イスラエルをこの地から引き抜いてしまうのです(5・26~30)。はたして、イスラエルの未来はいかに……。

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イザヤ書 4章

2022年07月21日 | イザヤ書
イザヤ書 4章
シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
(4・3 新改訳)
 ※口語訳聖書では3~4節をまとめている。


さて、先の第3章では、御国の完成のために、人間的に頼りにしているものや飾りは取り除かれることを見ました。それは、神からの厳しい取り扱いを受ける事態になるでしょう。

しかし、真に頼るべきお方は主です。神がお遣わしになるキリスト(メシア)です。

それをイザヤは主の枝」「主の若枝と表現しています。そして、このお方に信頼するものを「残りの者」と呼んでいます。

この残りの者という思想はイザヤ書でくり返し語られるテーマです。多くの人が神から離れ、滅びて行くが、それで終わってしまうのではない。主を信頼する「残りの者」がいる。その者たちによって、神の御業はなされるのだ……という預言です。冒頭の聖句でも、その「残りの者」が聖なる者で、エルサレムを構成する民であることを言っています。メシア王国の聖なる市民のことです。

新約の時代は、イエスを信じるクリスチャンもこの残りの者に相当します。今はイエスを拒絶しているユダヤ人の中にも、この「残りの者」の系譜は細々とではありますがつながっています。

神は聖なる方です。ですから、私たち人間を聖なる者にしようと取り扱われます。そのために、先の第3章でみたように、不要なものを取り除いて、純粋なものを残そうとなさいます。

その取り扱いを、主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるときと表現されています(4・4 新改訳)

さばきの霊」と「焼きつくす霊とあるように、それは聖霊の取り扱い、あるいは天使によってもたらされる試練のことです。それによって、神は、私たちを聖なる者になさいます。不純物は取り除かれ、純粋な信仰が残るようにされます。

そのようにして「残りの者」が起こされます。小さい群れですが、神は、この残りの者たちを用いて、ご自身の御国を完成しようとなさっています。

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イザヤ書 3章

2022年07月20日 | イザヤ書

イザヤ書 3章
見よ、主、万軍の主はエルサレムとユダから支えとなり、頼みとなるものを取り去られる。
(3・1)


先の第2章では「メシヤ王国」の預言が記されていました。この王国は新約聖書では「御国」とか「神の国」と呼ばれています。

さて、この王国が実現する日のことを、イザヤ書では「その日」とか「終わりの日」と呼ばれており、その日がいつなのかは明示されていません。しかし、その日には様々なしるしがあります。たとえば、第3章では、「取り去られる」という出来事があると預言されています。2つの〝取り去られる〟です。

第一の取り去られる
は、人間的な支えとなっているものが取り去られます。「すべて支えとなるパン、すべて支えとなる水:……を取り去られる。すなわち勇士と軍人、裁判官と預言者、占い師と長老、50人の長と身分の高い人、議官と巧みな魔術師、老練なまじない師を取り去られる。」(3・1~3)


人は、目に見えない神を信頼するよりも、目に見える「食糧」「富」「人間」を信頼しがちです。しいては魔術や占いを信頼する始末です。それは愚かなことです。ですから「あなた方は鼻から息の出る人間に頼ることをやめよ」と主は言われます(2・22)

被造者と創造者とどちらに力がありますか。被造者を拝みますか、それとも創造主を礼拝しますか。自明の理です。もし、私たちから、神以上に頼りにしているものが取り去られたなら、それは、神の御国の仕上げのためです。私の中に、創造主への真実な礼拝を完成するためです。

第二の取り去られるは、人間的に飾っているものが取り除かれます。「その日、主は彼らの美しい装身具と服装すなわち、くるぶし輪、髪ひも、月形の飾り、耳輪、腕輪、顔おおい、頭飾り、すね飾り、飾り帯、香箱、守り袋、指輪、鼻輪、礼服、外套、肩掛、手さげ袋、薄織の上着、亜麻布の着物、帽子、被衣などを取り除かれる。」(3・18~23)

アダムとイブが罪をおかして以来、人は自分を隠し、自分を飾るためにイチジクの葉でおおうようになりました。右記に記されている飾りは、みな「イチジクの葉」の延長線上にあります。

それらは神の御国では不要なものばかりです。御国は〝イエス・キリストを着た〟者たちの世界です。王子の婚宴の席に礼服を着ていない者がつまみ出されたように、イエス・キリスト以外の服を着た者は外に出されるでしょう。

御国では人間的な虚飾は通用しません。そのような飾りを捨てて、イエス・キリストを着るべきです。

終わりの日に取り除くと言われた「飾り」は、目に見える装飾品というより、むしろ学歴や地位や世的な誇りです。また、言い訳や嘘も目に見えない飾りとして、自分をおおっているものです。

そのような諸々の「飾り」や「おおい」を神は取り除こうとなさいます。それは、真実な行いによって飾られるべき御国を完成するための、神の取り扱いです。

今日も再び祈るのです。「御国が来ますように」。

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イザヤ書 2章

2022年07月19日 | イザヤ書

イザヤ書 2章
彼(主)は諸々の国の間
(あいだ)にさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはその剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。(2・4)


時は戦乱の時代です。アッシリア帝国は勢力を拡大し、北イスラエルを侵略し、その勢いはとどまることを知らず、ついに南ユダにまで及ぼうとしています。

そんな戦乱の時代に、神の御言は光のように輝いています。神は、平和な世界を完成なさるのだと宣言なさっています。

かつて、アメリカのオバマ大統領は核兵器廃絶を提唱しましたが、それ以前から、神は、「剣を打ちかえて鋤(すき)とし、その槍を打ちかえて鎌(かま)とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」という世界を宣言なさっています。

この聖句はニューヨークの国連本部にも掲げられていますが、いったい、いつ実現するのでしょうか。それとも神は、この宣言を撤回なさったのでしょうか。そんなことはありません。主はこう言われています。

「わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない」と(詩篇89・34)

武器のない、武器を必要としない世界を、神は必ず実現されます。そんな王国が誕生するのだという預言は、旧約聖書のなかに一貫して流れる約束であり、それを実現するために神はキリスト(メシヤ)をお遣わしになるのです。 ※これは旧約預言の中心テーマ。この王国は「メシヤ王国」と呼ばれている。

ですから、神の御子イエスが来られたとき、「天の御国は近づいた」との宣言は、この旧約のメシヤ王国の実現が近づいたという意味なのです。

そこで、はたしてイエスはメシヤ(キリスト)なのか否かが論争になったわけです。イエスがキリストであるなら、彼はメシヤ王国の王となって新しい世界秩序をもたらす方であるはずです。

ですから、イエスをキリストと信じた人々は、その御国がすぐにでも実現するであろうと期待し熱狂しました。ところが、反対派の人々からイエスは十字架で殺され、神のご計画は頓挫したかに見えました。

しかし、イエスは復活してご自身の姿を弟子たちに現されました。ならば今度こそその御国が実現するのだろうかという弟子たちの質問に対してイエスは答えられました。その質疑応答は次の通りです。

「弟子たちが一緒に集まった時、イエスに問うて言った、『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』。彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなた方の知る限りではない。ただ、聖霊があなた方にくだる時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』」(使徒1・6~8)

メシヤ王国の約束は中止になったのではない。ただ時期と場合は父なる神の御心の中に隠されている。今は、聖霊を受けて、御国の王であるイエス・キリストの福音を世界中に届けよと命じられています。そして、この御国の福音は、すべての民に対して証しをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである(マタイ24・14)とは、メシア王国の実現を意味しています。

その時、イエスは再び来られます。2千年前に来られたときは十字架で死なれるために来られましたが、再臨のイエスは、御国の王として、御国を完成するために来られるはずです。

とはいえ、それに先だって、メシヤ王国は私たち個人の中で実現します。剣のような私の言葉を打ち替えて鋤(すき)に変え、槍のような私の考えを鎌(かま)に打ち変えるのです。つまり、人を傷つける言葉を打ち替えて、人の心を耕すための鋤とするのです。人と戦おうとする考え方を打ち替えて、豊かな交わりという収穫を刈り取るための鎌のような考えに変えるのです。

そんな取り組みから「神の御国」は始まります。今日も祈りましょう。「御国が来ますように」。

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イザヤ書 1章

2022年07月18日 | イザヤ書
イザヤ書 1章
主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなた方の罪は緋(ひ)のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
(1・18)


預言者イザヤは、ユダの王ウジヤの時代から活動を始めたといわれていますから、紀元前700年代の預言者です。

イスラエル王国はダビデ王によって統一王国として始まったものの、息子ソロモン王が死去すると南北に分裂してしまいました。北はサマリヤを首都として北イスラエル王国。南はエルサレムを首都とする南ユダ王国。以後、南北は長きにわたってゆるやかな敵対関係が続きました。

そのような中で南ユダ王国は、北東には新興国アッシリヤ、南にはエジプトという大国のはざまに生きる小国として翻弄(ほんろう)される歴史をたどります。このような時代背景の中で、イザヤは南ユダ王国の人々に対して預言を語りました。 預言とは「神のことばを預かって語る」という意味であって、未来に起こり得ることに対する〝予言〟の部分も含まれるが、それがすべてではない。

さて、神が預言者イザヤを通して語られたメッセージとは何でしょうか。

神は、特別に選び訓練したイスラエル民族に対して、悲しみを表しておられます。家畜でさえも自分の主人のことを忘れないのに、あなた方は主である神を忘れている……と。

わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない。(1・2~3)

神は、ご自身の働きのためにイスラエルの民を選び、エジプトから導き出されました。それは、神へのまことの礼拝者とするためでした。そして、この民から始めて世界中に、神への従順と謙遜を広げるためでした。神は、ご自身の御心を実現するために、イスラエルの民を用いようと選ばれたわけです。

イスラエルの民は神を礼拝しなかったのではありません。しかし、彼らの礼拝は形式的で、神に心を向ける真実な礼拝ではありませんでした。ですから、こう言われました。

あなた方がささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭(はんさい)と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。あなた方は、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。(1・11~12)

犠牲が捧げられているので、形としては礼拝がなされていましたが、いったいその礼拝は主である神に向かってなされた礼拝なのでしょうか。「わたしの庭を踏み荒らす」という表現にあるように、偶像への捧げ物であれば由々(ゆゆ)しきことです。

ですから、神は、そのような礼拝や集会に耐えられない(1・13)、わたしには重荷であり、それを負うのに疲れたとまで言われたのです(1・14)

新約時代の教会はどうであろうか。形式だけの礼拝になっていないだろうか。御利益だけを求める礼拝になっていないだろうか。吟味すべきです。

そんなイスラエルの民に、神は語りかけておられます。さあ、われわれは論じ合おうと。忍耐深く民と語り合い、罪から救い出そうとなさる神の慈愛の深さがあらわれています。神が「論じ合おう」と言われるのは、力尽くで悪を滅ぼそうとか、間違いを正そうとかなさるのではなく、民の中に神の御言を植えつけ、御言によって造り変えようとなさるからです。

神は、罪をはげしく憎まれますが、その罪によって民が滅びることを願われません。そこで、神は、民が悔い改めるようにと、慈愛と忍耐をもって御言を語られるのです。何と語られていますか。

たといあなた方の罪は緋(ひ)のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだと言われます。

人間には己の罪をきよめる力がありません。だから、神がなさるのだと言われます。

どのようにしてですか。それは、わたしはわが敵にむかって憤りをもらし、わがあだにむかって恨みをはらす。わたしはまた、わが手をあなたに向け、あなたのかすを灰汁(あく)で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除くのです。(1・24~25)

灰汁とは灰の水溶液の上澄みの汁のことです。アルカリ性なので、洗剤の役割をしました。旧約では罪のいけにえの動物を焼きつくし、その灰から灰汁を作って罪の汚れを落としました。でも、それはあくまで動物です。真の犠牲であるイエス・キリストの血によって完成するきよめを預言しています。

さあ、このように預言される神と論じ合ってみませんか。神の御言の中で救いを得てみませんか。

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