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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

イザヤ書 36章

2022年08月27日 | イザヤ書
イザヤ書 36章
しかし民は黙ってひと言も答えなかった。王が命じて、
彼に答えてはならないと言っておいたからである。(36・21)


破竹の勢いのアッシリヤ軍は、ついにエルサレムに到達し町を包囲しました。時は紀元前701年のことです。アッシリヤの王セナケリブは、将軍ラブシャケを名代(みょうだい)として遣わし、「すみやかに降伏せよ」と宣言したわけです。

彼らが言わんとするところは、「エジプトなんか信頼できないぞ」「お前たちの王ヒゼキヤにだまされるな」「お前たちの神である主など頼りになるのか」と不安感をあおることでした。

「エジプトは頼りにならない」。これは信仰の立場からしても、その通りです。しかしあとの二つはいただけません。

「あなた方はヒゼキヤに欺(あざむ)かれてはならない。彼はあなた方を救い出すことはできない」と語りかけました(36・14)。今日的に言えば「牧師の言うことにだまされるな」といったところです。

そして、冒頭に上げたように、主である神に対しても疑いを持たせたわけです。「これらの国々のすべての神々のうちに、だれかその国を私の手から救い出した者があるか。主がどうしてエルサレムを私の手から救い出すことができよう」(36・20)

こんな内容を、アッシリヤの将軍ラブシャケは毎日のように、しかも大声で、エルサレムの人々に語りかけたのです。こんな言葉を聞き続けたら、不安が駆り立てられ、神への信頼が揺らいできます。

悪魔の挑発もこれと同じです。このラブシャケのように何度もくり返し語りかけてきます。否定的な言葉のシャワーを浴びせてきます。皆さんの耳にも届いていることでしょう。

人の肉体は日々、口から入る食物からできています。添加物の多い食材を食べ続けるなら健康を壊します。同様に、人の心は日々、耳から入ってくる言葉によってできています。毒の入った言葉や不信仰の言葉を聞き〝続けて〟はなりません。

逆に、神の御言を聞き続けてください。御言を聞かなければ信仰は弱くなり、疑いが強くなります。なぜなら信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るからです(ローマ10・17)

不安をあおり立て、神への疑いをいだかせるのは、悪魔の常套(じょうとう)手段です。それは、あのエデンの園の時から同じです。悪魔は最初から悪いことは言いません。神の御言に対する不信感を徐々に吹き込むのです。「本当に神はそう言われたのですか」と(創3・1)

ラブシャケの目的は何ですか。エルサレムの人々に不安と疑いをいだかせて、ついにはアッシリヤに降伏させることです。降伏してアッシリヤの王セナケリブを拝めと言っているのです。

「アッスリヤの王はこう仰せられる、『あなた方は私と和睦して、私に降服せよ。そうすれば、あなた方はめいめい自分のぶどうの実を食べ、めいめい自分のいちじくの実を食べ、めいめい自分の井戸の水を飲むことができる』」(36・16)

「私を拝みなさい。そうすればこの世の栄華をあなたにあげよう」と言って御子イエスを誘惑した悪魔と同じです。

もちろん積極的に悪魔を礼拝する人など居ないでしょう。しかし、主イエスへの礼拝をやめなさい、そうすれば……という誘惑ならあります。

この時、信仰あつき王ヒゼキヤは、彼に応えてはならないと命令しました。言い返してやろうとか、言い負かしてやろうとすると、敵のペースに引き込まれるからでしょう。

「応えるな」というのは、消極的な対応のようにも思われます。でも、まず私たちはそうすべきです。そして、神のみことばに充分に聞き、養われる必要があるからです。反撃はそれからです。

祈りましょう。どうか、悪魔の挑発に惑わされることがないように、主よ助けてください。

 
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イザヤ書 35章

2022年08月26日 | イザヤ書
イザヤ書 35章
主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
(35・10)


これは贖(あがな)われた者たちの賛美です。罪の奴隷であった者が、その支配から贖われた喜びの歌です。

贖いと償(つぐな)いとは似た言葉です。償(つぐな)いとは自分で罪の代価を支払うことです。謝罪することで支払うことのできる罪もあれば、罰金を支払ったり、刑務所で服役することで支払うような罪もあります。しかし、それは表出した罪に対して便宜的に支払っただけです。神に対しては如何(いか)にして支払いますか。しかも、神を否定し、神に背を向けつづけた罪は何をもって支払うことができましょうか。

このように償うことのできない罪の代価を、私たちはかかえているのです。

しかし感謝すべきかな。私たちの支払うことのできない罪の代価を、神は、御子イエスを十字架に葬ることによって支払ってくださいました。罪のない御子の血の値うちは、全人類の罪の代価を支払ってもなお余りあるものです。

このように、自分では償えない代価を、他の者が代わって支払うことを〝贖い〟と言います。

イザヤが預言した〝贖い〟は、まず第一に、ユダヤ人が奴隷の地バビロンから解放されたことによって実現しました。アッシリアの攻撃に耐え抜いた南ユダでしたが、やがてバビロン捕囚の悲惨を味わいます。しかし、神は、そこからユダヤの民を解放し、約束の地に連れ戻されました。戻ってきた人々は「贖われた民」です。彼らはバビロンからの帰還を喜び歌いながら戻ってきました。

ただ、この35章で預言されていることの全ての項目が実現したわけではりませんでした。次の聖句はどうでしょうか。

見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は鹿のように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。(35・5~6)

この預言は、バビロン解放から約500年後のイエス・キリストの来臨によって実現しました。

イエス様は十字架の死をもって私たちの罪の代価を支払ってくださり、それを信じて贖われた者たちに、いやしが与えられるようになりました。イエスを信じて贖われた者たちは、喜び歌いながら、神のもとに帰ってくるのです。嘆きと悲しみとは逃げ去るという経験をするのです。

しかし、くどいようですが、まだ実現していない内容がさらにあります。

それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。」(35・6~7)

豊かな自然環境の回復の預言ですが、私たちはまだその成就を見ていません。それは、キリスト再臨によって実現すると解釈されます。神の御言は決して変更とか中止がないからです。 ※このように預言は、二重、三重の未来予告として描かれている。

聖書の最後の言葉……主よ、早く来てください(黙示録22・20)と呼びかけられている理由がここにあります。
 
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イザヤ書 34章

2022年08月25日 | イザヤ書

イザヤ書 34章
諸々の国よ、近づいて聞け。諸々の民よ、耳を傾けよ。地とそれに満ちるもの、世界とそれから出るすべてのものよ、聞け。
(34・1)


本章はイザヤ書の中でも最も恐ろしい記述のひとつではないでしょうか。神に敵対する者どもが徹底的に滅ぼされる情景が描かれているからです。この情景は、ヨハネの黙示録にしるされている最後のさばきのことであろうと思われます。

単に南ユダに敵対するアッシリヤの脅威へのさばきではりません。全世界に臨む最後のさばき。罪に対する神の激しい御怒りの描写です。

神は、悔い改める者には恵み深いお方です。七の七十倍まで赦してくださるお方です。しかし、心をかたくなにし悔い改めず、神に敵対する者には厳しいさばきがくだるのだと預言されています。

これには例外がありません。冒頭の聖句のように、諸々の国に対して宣言されています。すべての民族に対して呼びかけられています。被造物全体に対して語りかけられています。


今日、この厳粛な神のさばきの言葉を真摯に受け止め、主である神に立ち返れと語られています。

34章のように厳しくさばかれる神ではありますが、さばきの後に恵みの回復も用意なさっています。次の35章の預言です。


イザヤ書 33章

2022年08月24日 | イザヤ書
イザヤ書 33章
主よ、われわれをお恵みください、われわれはあなたを待ち望む。朝ごとに、われわれの腕となり、悩みの時に、救となってください。
(33・2)


「わざわいなるかな、おのれ自ら滅ぼされないのに、人を滅ぼし、だれも欺かないのに人を欺く者よ」(33・1)とは、エルサレムを滅ぼそうと取り囲むアッシリヤ軍のことだと思われます。

しかし、アッシリアとその王セナケリブは、あざむかれ、滅ぼされるのだと語られています。

アッシリア軍は船団を海路より集結し、西海岸からエルサレムを攻撃しようとした時のことです。この攻撃に際し、南ユダの王ヒゼキヤは特使を派遣しアッシリヤと和を講じたのですが、後にアッシリヤはこの契約を破棄し陸路進撃し、エルサレムを完全包囲したという経緯があります。いともたやすく、欺(あざむ)かれ、裏切られたわけです。

見よ、勇士たちは外にあって叫び、平和の使者はいたく嘆く。大路は荒れすたれて、旅人は絶え、契約は破られ、証人は軽んぜられ、人を顧みることがない。地は嘆き衰え、レバノンは恥じて枯れ、シャロンは荒野のようになり、バシャンとカルメルはその葉を落す。とはその欺きことです(33・7~9)

そんな偽りを、主はいつまでも放置なさいません。やがて力強く立ち上がられます(10~13)。立ち上がられた主に、いったいだれが耐えられようか。罪人はこのお方の前で恐れるのです(14)

かたや、神の国とその義を追い求めてきた者には、報いが与えられます。このような人は高い所に住み、堅い岩はそのとりでとなり、そのパンは与えられ、その水は絶えることがないのです(16)

いつ実現するのでしょうか。主が立ち上がられるときです(10)。キリストが王としてご支配なさるときです。私たちはこのお方を待ち望むのです。

(しゅ)は我々のさばき主(ぬし)、主は我々のつかさ、主は我々の王であって、我々を救われるのです(22)。新改訳は「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる」のです。

さあ、今日も主を待ち望んで祈りましょう。主よ、私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みますと。悔いし砕けし心で、神に立ち返るものは幸いです。

 
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イザヤ書 31章

2022年08月22日 | イザヤ書
イザヤ書 31章
アッスリヤ人は剣によって倒れる、人の剣ではない。剣が彼らを滅ぼす、人の剣ではない。彼らは剣の前から逃げ去り、その若い者は奴隷の働きをしいられる。
(31・8)


神への信頼を忘れてエジプトを頼り、エジプトと同盟を結ぼうとする南ユダに対する預言です。神は南ユダの不信仰を悲しんでおられます。

ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。(31・1 新改訳)

信仰が薄れてくると、目に見えるものを信頼するようになります。そして、目に見えるものに捕らわれるようになります。

信仰とは何ですか。………目に見えるものにではなく、目に見えないものに目をそそぐことです。なぜなら、目に見えるものは一時的であり、目に見えないものは永遠につづくからです(Ⅱコリ4・18)

信仰とは何ですか。………目に見えるものは、目に見えないもの(神の御言)によって造られたことを知ることです(ヘブル11・3)

〝目に見えるエジプト〟を頼り、それに心を奪われて行く人々に、冒頭の御言が告げられたのです。

さて、その後の南ユダはどうなったのでしょうか。破竹の勢いでアッシリヤ軍は諸国を侵略し、南ユダの町々も滅ぼし、ついにエルサレムの都を完全包囲しました。そのような事態に、神はイザヤを通して語られました。

アッスリヤ人は剣によって倒れる、人の剣ではない。剣が彼らを滅ぼす、人の剣ではない。彼らは剣の前から逃げ去り、その若い者は奴隷の働きをしいられる。(31・8)

目に見える剣ではなく、天の軍勢の剣に倒れるのだと語られました。そして預言通り、エルサレムを包囲したアッシリア軍は一夜のうちに滅ぼされたという、超自然的な方法で勝利を得させてくださいました。 ※この詳細は列王紀下19章を参照。

天使たちによって編成された天の軍勢……それを見ることができませんが、見えない神の助けです。援軍です。今日も、イエス・キリストを信じる者に、天国人として生きることを助けるために、天の御使が仕えてくれています。

「御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。」(ヘブル1・14)

神の助け。それは具体的には天使たちの働きです。それらは見ることはできませんが、目に見えるエジプトより確かな助けです。

エジプトびとは人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまずき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びるのです(イザヤ31・3)
 
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イザヤ書 32章

2022年08月22日 | イザヤ書
イザヤ書 32章
見よ、ひとりの王が正義をもって統
(す)べ治め、君たちは公平をもってつかさどる。(32・1)


旧約預言の中心テーマは「メシアの到来」です。メシヤとはヘブル語で「油を注がれた者」の意味であり、ギリシャ語では「キリスト」です。

旧約では文字通りの油(特別に調合された聖なるオリーブ油)を王・大祭司・預言者に注いで任命しました。その油とは、神が注がれる聖霊を予表しています。しかし、その時代にはまだ聖霊はだれにもくだってはいませんでした。 ※正確には「内住」していなかった。

やがて、神からの聖霊を注がれた究極のメシヤが到来するのだ。そのお方が王としてご支配なさるとき、神の御国が建て上げられ、メシヤ王国として世界が完成するのだと預言されています。

本章の冒頭の聖句に記されるひとりの王とは、メシヤすなわちキリストのことです。そのお方は正義をもって統治なさいます。その正義とは「神の義」です。

地上の国々にはそれぞれの「義」があります。でも、その義は未熟で不完全な義です。一方にとっては正義であっても、もう片方にとっては不義であったりします。喧嘩もそうです。自分が正しいと思うので攻撃します。でも、それは自分の正しさという、いわば自己正義という義が基準です。しかし、相手からすれば納得できない義です。だから、ますます喧嘩はエスカレートします。

それらの義はみな人間を基準にした義です。相対的であり、基準は人によって異なります。また、地域によっても、時代によっても異なります。人間や地上の国家を基準にした義ではなく、神の国の義をもって支配なさるのが、来たるべきメシヤ(キリスト)です。だから「まず神の国と神の義を第一に求めなさい」と主は言われました。

さて、キリストが正義をもって統治なさると、それまでさげすまれていた者が確かな者とされ、逆に、自分こそが知者だと思い上がっていた者は恥を見るといった逆転が起こります(32・3~8)

神の国と義を求める者たちが、真に報われる時が必ず来るのです。

だから、高慢を悔い改めて身を低くせよと警告しています(32・9~14)。「女たち」とは男女をふくめた人間たちのことです。新改訳では「のんきな女」「うぬぼれている女」と訳しています。神がご覧になるに、高慢な人間の姿はそのように表現されるのです。

さて、キリストが支配なさるだけではなく、〝ついに〟聖霊が人々にも注がれます。しかし、ついには霊が上から、われわれの上にそそがれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになるのです(32・15)

神の御国はキリスト頼みの世界ではありません。私たちにも聖霊が注がれて、霊の目が開かれなければなりません。聖霊が注がれるので、私たちは神の国と神の義を第一にすることができるのです。

 
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イザヤ書 30章

2022年08月20日 | イザヤ書
イザヤ書 30章
それゆえ、主は待っていて、あなた方に恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなた方をあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者は幸いである。
(30・18)


第30~31章は、アッシリヤを恐れてエジプトと同盟を結ぼうとしている南ユダに対する神の預言が述べられています。

当時の国内は混乱していました。アッシリヤの側につくべきか、エジプトの側につくべきか。どちらが得策なのか。自分の身を保つために、様々なはかりごとが行き交いました。

当時の指導部の主流派は、エジプトとの同盟を模索していました。しかし、神は、どうしてわたしを信頼しないで、エジプトを頼るのかと語っておられます。主の指示を仰ごうともしない彼らの不信仰を指摘なさっています。

彼らはわが言葉を求めず、エジプトへ下っていって、パロの保護にたより、エジプトの陰に隠れようとする。(30・2)

エジプトにつこうか、アッシリヤにつこうかと揺らぐのは、自分が何者なのかを見失っているからです。

それは、獣たちと鳥たちとの戦いがあって、獣が優勢だと「私は獣の仲間です」と獣の側につき、鳥が優勢になると「私は鳥の仲間です」と鳥の側についたコウモリのように生きる人です。コウモリは羽があるので鳥のようでもあるし、毛が生えているので獣でもあるのです。結局は、自分が何者か分からないので破滅を招きます。

自分は神の民、天国に国籍のある天国人であるというアイデンティティーを見失ってはなりません。旗印をはっきりさせるべきです。イエスの御旗をしかりと掲げるとき、敵からの攻撃もあるでしょうが、同じように、天の援軍もはっきりとあるのです。

旗印を明確にせずに戦うユダの人々は、結局は敗戦し、人々は雲散霧消。からっぽの陣営に自軍の旗が悲しげに揺らぐ様子がえがかれています。「ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。」(30・17 新改訳)

なぜ、南ユダの人々は自分自身の立場を見失ったのでしょうか。彼らはイザヤに対して次のように反論したのです。

彼らは先見者にむかって『見るな』と言い、預言者にむかっては『正しい事をわれわれに預言するな、耳に聞きよいことを語れ、迷わしごとを預言せよ。大路を去り、小路をはなれ、イスラエルの聖者について語り聞かすな』と言う。(30・10~11)

つまり、南ユダの人々は神の御言を聞こうとせず、都合のよい言葉を聞こうとしたのです。だから、自分が何者なのかを見失ったのです。

聖書を読むと、時には心が痛い言葉も語られます。聞きよい言葉だけを求めて聖書を読んではなりません。神の語りかけを真摯(しんし)に聞くことこそ、自らのアイデンティティーを確かなものにします。

さあ、神の民であるというアイデンティティーを確かにしよう。天国々籍の民としての生き方を明確にしよう。そのような民を主は待っておられます。恵みを用意して待っていると、主は言われます。

それゆえ、主は、あなた方に恵もうと待っておられ、あなた方をあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。(30・18) ご都合主義で立場を変えてはなりません。恵みを用意して待っておられる主を信頼して、神の民である立場を貫こう。

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イザヤ書 29章

2022年08月19日 | イザヤ書
イザヤ書 29章
あなた方は転倒して考えている。ああ、あなた方は、物を逆さに考えている。
(29・16)


第29章の冒頭の「アリエル」とは「祭壇の炉」の意味で、祭壇がある神殿の町すなわち「エルサレム」のことです。エルサレムに臨まんとしている神のさばきゆえの嘆きの言葉です。

イエス様も、ご自分を拒絶するエルサレムの人々とその後に起こるエルサレム陥落を予見して、嘆きの祈りをなさったことに通じるものがあります。その時のイエスの言葉は次の通りでした(マタイ23・37)

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」

イエスが来られた時代も、イザヤが遣わされた時代も人々の反応が同じであることに驚きます。イザヤもキリストのように嘆きと哀れみをもって語りました。ああ、アリエルよ、アリエルよ、ダビデが営をかまえた町よ、年に年を加え、祭をめぐりこさせよと。

これは、毎年めぐり来る祭をすることで、つまり形式的な宗教行事を繰り返すことで、自分は神に仕えている、信仰深い自分たちは大丈夫だと高ぶっている人々への皮肉まじりの警告です。

形式的な宗教行事は人の霊魂を眠らせしまいます。形式に気を使うばかりで、本来の意味を見失い、神に心を向ける霊性を失うからです。

新約における礼拝でも同じです。礼拝の真の意味とか意図を知らずして参加していると、いつの間にやら眠ってしまいます。だから彼らは、口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れているのです(29・13)

自分の繁栄のために宗教行事をする。自分の安全のためにいけにえをささげる。そのような宗教行為はみな人間中心です。人間のために、神を仕えさせるものです。

私たちは、神を「私のためのもの」にしてはなりません。人間が神のためにあるのであって、神が人間のためにあるのではない。これを逆転させてはなりません。被造者としての基本姿勢です。

しかし、イザヤが語ったように、ああ、あなた方は、物を逆さに考えているのです(29・16)

この〝物を逆さに考える〟という現象は、陶器師と陶器の関係をもって見事に指摘されています。

陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、『彼は私を造らなかった』と言い、陶器が陶器師に、『彼はわからずやだ』と言えようか。(イザヤ29・16) ※パウロもローマ人への手紙で同様に語っている。いつの時代も人間は物を逆さに考えてしまう傾向がある(ローマ9・20)。

この逆転があると、私たちの目は眠ってしまうのです。これを当たり前にしてしまうと、主が深い眠りの霊をあなた方の上に注ぎ、あなた方の目である預言者を閉じこめ、あなた方の頭である先見者をおおわれる(29・10)ということになります。

聖書を読んでも分からない。説教を聞いても分からない。それは人間中心の価値観の下で聞こうとするので、目が塞がれ、耳も閉じられ、眠った者になってしまうのです。

ものを逆さに考えていることがあれば、正しい方向に変えてみよう。人間中心の考え方から、神中心の思考法にひっくり返してみよう。それまでにはない世界が見えてくるはずです。

 
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イザヤ書 28章

2022年08月18日 | イザヤ書

イザヤ書 28章
人はパン用の麦を打つとき砕くだろうか、否、それが砕けるまでいつまでも打つことをしない。馬をもってその上に車輪を引かせるとき、それを砕くことをしない。
(28・28)


第28章は南ユダ王国の指導者たちへの宣告ですが、はじめの1~6節は北イスラエル王国について述べられています。

エフライムの酔いどれの誇る冠と、酒におぼれた者の肥えた谷のかしらにあるしぼみゆく花の美しい飾りは、わざわいだ。(28・1)

エフライムとは北イスラエルのことで、北の指導者たちは酒に明け暮れた生活をし、民を神の御心へと導くことのできない指導者たちでした。そのような北イスラエルは滅ぼされてしまいました。

更に預言が続きます。「エフライムの酔いどれの誇る冠は足で踏みにじられる。肥えた谷のかしらにあるしぼみゆく花の美しい飾りは、夏前に熟した初なりのいちじくのようだ。人がこれを見ると、取るやいなや、食べてしまう。」(28・3~4)

これはアッシリヤの進撃によって滅んでしまった北イスラエルのことです。そんな危機的状況でも南ユダ王国は存続できました。「その日、万軍の主はその民の残った者のために、栄えの冠となり、麗しい冠となられる」(5)とは南ユダのことです。

そのことによって南ユダは襟(えり)を正して、主である神に誠実をつくしたのでしょうか。

しかし、これらもまた酒のゆえによろめき、濃き酒のゆえによろける。祭司と預言者とは濃き酒のゆえによろめき、酒のゆえに心みだれ、濃き酒のゆえによろける。彼らは幻を見るときに誤り、さばきを行うときにつまづく。(7)

指導者の堕落は飲酒による道徳的な堕落と共に、霊的な堕落でもありました。

イザヤの預言に対しては、イザヤはだれに知識を教えようとするのか。だれにおとずれを説きあかそうとするのか。乳をやめ、乳ぶさを離れた者にするのだろうか(28・9)とからかう始末です。

そのような南ユダもバビロンによって滅ぼされるのだと、イザヤの預言は後の章で語られるのですが、そのような中にも、希望の光が啓示されています。

ひとつは試みを経た石、堅くすえた尊い隅(すみ)の石です(28・16)。これを信じる者は〝あわてることはない〟のです。この「尊い隅の石」とはイエス・キリストのことです。「試みを経た石」とは十字架で人々から捨てられる経験を意味しています。

この方を土台石にして建て上げられた家は、洪水が押し寄せてきても倒れないのです。しかし、砂を土台にして建てた家は、人生の洪水が押し寄せた時に、あわて、うろたえることになります。

もうひとつの希望は、冒頭に掲げた御言です。穀物はいつまでも打穀して砕くことはない。打穀車の車輪と馬がその上を回っても砕き尽くすことはないと言われます。

収穫の様子が記されていますが、農夫は脱穀の時、穀物がつぶれるほど激しくは打ちません。それと同じように、神の取り扱いも、民を根絶やしにするような打ち方ではなく、配慮があるのだと述べています。

しかも、その打穀の際は穀物によって打ち方が異なることを述べています。いのんどは麦こき板でこかない、クミンはその上に車輪をころがさない。いのんどを打つには棒を用い、クミンを打つにはさおを用いる(28・27)。いのんどもクミンもハーブ系の実です。小さいので車輪で脱穀しません。棒とか竿(さお)でそれぞれの実をつぶさないようにします。

あの人は軽く打って、私には強い打ち方をするなんて、神はひどいお方だと文句のひとつでも言いたくなるでしょうか。でも、神は収穫する実によってその打ち方を変えておられるのです。

神は農夫のような方で、私たちの中から「実」を収穫しようとなさっています。そのように、神のさばきは、人類を滅ぼすためではなく、収穫が目的です。ですから、神は耐えられないほどの試練をお与えにならないことを信じよう(Ⅰコリ10・13)

これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしいのです(28・29 新改訳)。試練の中にも慮(おもんぱか)り……つまり神の配慮があるのです。

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イザヤ書 27章

2022年08月17日 | イザヤ書
イザヤ書 27章
後になれば、ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。
(27・6)


〝その日〟が何度も登場します。その日とは、さばきの日です。罪の世界をさばいて、きよめることでもたらされる救いの日のことを表しています。

イザヤが預言した当時の「その日」とは、アッシリヤとかバビロンによるイスラエルの破滅であったり、イスラエルの敵国を神が滅ぼされるといった事柄のことですが、更にその先に、メシヤ(キリスト)の来臨によってなされる〝全世界のさばき〟を見据えています。

27章の「その日」は、アッシリヤとかバビロンの滅亡のこととして描かれています。そして、滅ぼされる敵をレビヤタンと呼ぶことで、さらに深い意味を与えています。

レビヤタンとは現存しない海獣であるため、原語のまま表記されています。海に生息する巨大な龍とも解されていますが、その海獣はサタンとか悪魔の象徴として表現されています。 ※海の謎の生物としてレビヤタン。対して、陸上の巨大生物として「ベヘモスベヘモット)」が登場する。ヨブ記40章15節は「河馬(かば)」と翻訳。しかし、16~18節を見ると河馬ではない。恐竜のようである。新共同訳は原語のまま音訳している。

話しを戻します。預言の一義的解釈は、イスラエルに敵対した国々が滅ぼされるのだと語っています。と同時に、二義的には、敵国の滅びの中に、神の御国に敵対するサタンとその王国の滅びを、重ね描くようにして語られているわけです。

サタンとその王国が滅亡するとき、冒頭の御言のように、ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たすのです。

この回復の日がやってくると、イスラエルは豊かな収穫をもたらすのです。かつてイザヤは、イスラエルが酸っぱい野ブドウの実を結んだとして、神の怒りを告げました(イザヤ5章)

しかしこの時にいたって、神は、イスラエルを豊かに実らせなさいます。メシヤ(キリスト)をつかわし、このブドウの木につながるようにとご計画なさいました。メシヤなるイエスはブドウの木、私たちはその枝。そして、父なる神は農夫。神は、豊かな収穫を願う農夫のようなお方です。神の御国を芳醇な香りで満たす実りを期待なさっています。

その収穫のために神は忍耐深く民を養っておられます。主なるわたしはこれを守り、常に水をそそぎ、夜も昼も守って、そこなう者のないようにする(27・3)とは収穫を待ち望む農夫なる神です。

しかし一方で、目指す収穫を待つことなく、せっかく木の芽が出たというのに、それを食いつくして枯らしてしまう様子も描かれています。子牛はそこに草を食い、そこに伏して、その木の枝を裸にする。その枝が枯れると、折り取られ、女が来てそれを燃やす。これは無知の民だからである。(27・10~11)

神の忍耐を台無しにするのは無知の民だからであると指摘しています。新改訳は悟りのない民だからだ。新共同訳は分別のない民だと指摘しています。ですから、神のさばきとその後に用意されているきよめを悟るべきです。無知であってはなりません。神が目指すところの収穫は、27章の最後に記されているように、エルサレムの聖山で主を拝むことです。真実な礼拝者のことです。

このように、神は、まことの礼拝者をもとめて忍耐なさっています。

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イザヤ書 26章

2022年08月16日 | イザヤ書
イザヤ書 26章
さあ、わが民よ、あなたの部屋に入り、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。
(26・20)


イザヤ書で告げられる預言は、罪に対する神の激しいさばきと、その後の回復です。さばきは、きよめのためです。26章は、そのさばきを通過して救いを得た者たちについて述べています。

さばききよめがあって救いがあるという啓示は、イザヤ書のみならず、聖書全体に貫かれている法則です。

今日の御言も、かつてノアの時代に洪水によって全世界に神のさばきがくだされたことを思い起こさせます。神のさばきから救われるために、ノアとその家族たちが箱船に乗り込むと、箱船の〝うしろの戸が閉じられたと記されています。

また、出エジプトした時の「過越しの事件」の場合も同じです。死のさばきがエジプト全土に行き巡りました。そのとき、イスラエルの民は〝うしろの戸を閉じて〟神のさばきが過ぎ越すのを待ったのです。これが過越祭の起源です。

同様に、終わりの日には、罪に対する神の激しい御怒りは全世界を行き巡ります。そのときあなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよと命じられています(イザヤ26・20)

もちろん、神の目から罪を隠すことはできません。だれも隠れることができません。神の栄光の光は、すべての闇のわざを明るみに出します。これほど恐ろしい光景が他にあるでしょうか。

しかし、出エジプトの時にイスラエルの民がうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れた」ように、ただひとつ、救いの場所があります。

イスラエルの民は小羊の血を流し、その血を戸口に塗りました。神の御怒りは、その血を見て過ぎ越して行きました。この出来事は旧約のことですが、やがて全世界におよぶ神のさばきの予型です。新約の時代には、動物の小羊ではなく、神の御子が十字架で流された血が〝しるし〟となります。このイエスの血こそが、罪に対する激しい御怒りから私たちを隠します。

あなたは、イエスの十字架の血が、自分の罪の代価として流された血であると信じて受けましたか。その血を信じて、聖餐式の杯を受けるわけです。イエスの十字架の血は私たちの避け所であり隠れ場です。うしろの戸を閉じて、イエスの血の中で隠されるのです。

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イザヤ書 25章

2022年08月15日 | イザヤ書
イザヤ書 25章
主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
(25・8)


先の24章では全世界に対するさばきについて記されていましたが、25章では、そのさばきの後に歌われる神への賛美です。神はついに成し遂げられました。 ※人は未来を確実に予測できないため「~であろう」と未来形で表現する。しかし、時間を超越した神にとっては、未来は確実なことなので、神の預言は「過去形」で表現される。

あなたはさきに驚くべきみわざを行い、いにしえから定めた計画を真実をもって行われたからと賛美する時が来ます(25・1)。そして、神の御国では喜びの祝宴が開かれます。6~9節はその祝宴の様子です。

神の栄光を見えなくさせていたすべての「おおい」は取り除かれます(25・7)

今の私たちは、肉体という制限ある中から神を知ろうとします。私たちの肉眼には霊的世界が見えないような「おおい」がかかっているわけです。ですから見えない世界……霊的な世界が分かりません。

そこで、信仰によって信じるという方法で〝見る〟わけです。しかし、ついにそのおおいが取り除かれる時が来るのです。

おおいが取りのぞかれた世界では、死そのものが滅ぼされ、神の御国を待ち望んできた人々の悲しみの涙はぬぐわれます(8)。神みずから、人類の苦悩の涙に報いてくださるとは何という光栄でしょうか。

さらに、はずかしめも取り除かれます。(8)

神の民として生きることはすばらしいことですが、時としてはずかしめを受けることもあります。神はそのことをよくご存知です。なぜなら、私たちの主であるイエス・キリストも同様に苦難を受け、十字架のはずかしめをお受けになったからです。そのキリストに従う者も同様です。

でも、私たちは主の御足跡に従って、主のためにはずかしめを受けることを喜びとします。イエスの弟子たる者は「御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら」生きるのです(使徒5・41)

なぜなら、この苦難には主からの報いがあるからです。主みずから、我らの涙をぬぐい、はずかしめを取り除いてくださるからです。

ただ、この時を迎える前に、さばきの中を通過するのだとイザヤは預言しています。そのさばきによってこの世界はきよめられ、新しい世界が完成するのです。〝その日〟はキリスト来臨の時です。キリストは全てのさばきの権を持って来られるお方です。

いましばらくは「狭い門」をくぐりますが、その狭き門の向こうにはあなたは先に驚くべきみわざを行い、いにしえから定めた計画を真実をもって行われた(イザヤ25・1)という賛美の世界があります。

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イザヤ書 24章

2022年08月13日 | イザヤ書
イザヤ書 24章
こうして万軍の主がシオンの山およびエルサレムで統
(す)べ治め、かつその長老たちの前にその栄光をあらわされるので、月はあわて、日は恥じる。(24・23)


24章は「全世界のさばき」についての預言です。このさばきから、だれも逃れることはできません。

その民も祭司もひとしく、しもべも主人もひとしく、はしためも主婦もひとしく、買う者も売る者もひとしく、貸す者も借りる者もひとしく、債権者も債務者もひとしく、この事にあうとあるからです(24・2)。 ※新改訳では、様々な立場の人が存在するが、「身分が等しくなる」という意味に翻訳。その場合、前後の文脈からすれば「身分も立場も混乱する」という意味で理解すべきであろう。口語訳の解釈にそって読み解くことにする。

さばきについては身分も地位も財産も関係ありません。また、天も地も例外はありません。「地は悲しみ、衰え、世はしおれ、衰え、天も地と共にしおれはてる」のです(24・4)

天で堕落した御使たちもさばかれ、地の王たちもその罪の結果を支払わなければなりません。「その日、主は天において、天の軍勢を罰し、地の上で、地のもろもろの王を罰せられる」のです(24・21)。 ※「天の軍勢」とは天使たちのこと。堕落した天使たちがさばかれるのはもちろんのことだが、神に仕えていた天使たちも対象となっている。

人は神のさばきを軽んじています。だれだって罪を犯しているじゃないか。これぐらいなら大丈夫だろうと侮(あなど)っています。しかし「そのとがはその上に重く、ついに倒れて再び起きあがることはない」と言っています(24・20)

新改訳ではそむきの罪が地の上に重くのしかかりとあります。軽んじていた罪が、やがて時を経て、終わりの時になって「重くのしかかる」という事態になるというのです。

その日には、月はあわて、日は恥じることになります(24・23)。それは、本当の光が輝くようになるからです。本当の光……それは神の栄光の光です。

天体としての月や太陽は、信仰の対象にもなっており、それをめでる習慣は世界各地にあります。でも、それは被造物であって、本当に栄光を受けるべきお方は創造主です。

また、人間の中にも、人々からの称賛を受けて、自分に栄光を帰する者もいます。でもそれは所詮、月や太陽の栄光です。つまり、そんな貧相な栄光に酔いしれた人々は、やがて恥を見るようになるのだと預言されているわけです。栄光という本物の光の前に、どんな栄光も恥じ入ることになるのです。

ヨハネによる黙示録では、万軍の主がシオンの山およびエルサレムで統べ治め、かつその長老たちの前にその栄光をあらわされる時が来るのだと預言されています。新しい天と新しい地が完成する時、そこには太陽や月の光もなくなるのです(黙示録22・5)。神の栄光で照らされる時代が来たなら、太陽とか月の光は必要がなくなるという意味です。

ロウソクの光は夜を照らしていますが、太陽が昇ればロウソクの光は色あせてしまうように、まことの神の栄光が輝く世界では、太陽の光も月の光も消えゆく〝被造の光〟に過ぎません。

人々は身分や学歴や財産や業績によって栄光を受けようとします。しかし、そのような輝きは、本当の栄光の光が輝くところでは、月や太陽が恥じるように、その自慢は輝きを失います。

地上で成した業績を誇ったり、地上における身分で虚栄をはったところで、それは〝被造の光〟に過ぎません。神の栄光の前には恥じいるのです。

本当の輝き……それは神の栄光です。イエスを信じる者たちはその栄光で輝くようにされた者たちです。自慢や虚栄といった地上の栄光を投げ捨てて、神の栄光を拝する者とされた者たちです。誇る者は主を誇れと言われているとおりです。

新しい世界では夜は、もはやない。あかりも太陽の光もいらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配するのです(黙示録22・5)

このような栄光に輝いた世界が実現するために、神のさばきを通過します。それが聖書が預言する〝その日〟です。

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イザヤ書 22章

2022年08月11日 | イザヤ書
イザヤ書 22章
しかしあなた方はこの事をなされた者を仰ぎ望まず、この事を昔から計画された者を顧みなかった。
(22・11)


22章は「幻の谷」についての預言です。

幻の谷とはエルサレムのことです。エルサレムは三方を山に囲まれキデロンの谷に添うように建てられた町でした。またイザヤが度々この町のことを幻で見たので、このように呼ばれています。

さて、時はアッシリヤ軍に完全に包囲された時のことです。これは主なる神の警告です。主がアッシリヤを用いて、イスラエルに悔い改めをせまっておられるのです。

「万軍の神、主は幻の谷に騒ぎと、踏みにじりと、混乱の日をこさせられる。城壁はくずれ落ち、叫び声は山に聞える」(22・5)とあるように、これは主から来た(新改訳)ことです。

なのに、民の心は主に向けるどことか、日々の生活に明け暮れている始末です。そんな民をご覧になった神は、「これはいったいどうしたことか。おまえたちみな、屋根に上って。喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ」と言われました(22・1~2 新改訳)

「屋根の上」は当時の宴会場所のこと。そこでくり広げられる享楽的な民の姿に神は驚き怪しんでおられるのです。その様子は、「見よ、あなた方は喜び楽しみ、牛を屠り、羊を殺し、肉を食い、酒を飲んで言う、『我々は悔い、かつ飲もう、明日は死ぬのだから』」とやけっぱちの宴会です(22・13)

人々はこの事をなされた者を仰ぎ望まず、この事を昔から計画された者を顧みなかったのです(22・11)。新改訳も紹介しておきましょう。「しかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった」。

神を無視し続ける民の罪です。うまく行ったら自分の手柄だと自慢し、うまく行かなかったら「神などいるのか」と敵対する。

そうではなく、神にこそ目をそそぐべきです。すべてのことをなされる神、昔から事を計画なさる神に目を注ぐべきです。

信仰とは、目に見える現実を裏付けているところの目に見えない世界 ――それは神のご支配・神の御言による世界―― に目を注ぐことです(ヘブル11・3)

15節にあるセブナと20節のエリヤキムは、アッシリア軍の将ラブシャケと論じた人物です(列王下18・18)。彼らは神の御言を手にして、敵将ラブシャケに一歩たりとも譲歩しませんでした。その後、神が介入なさってアッシリヤ軍は敗走し、エルサレムは陥落を免れるのですが、時の功労者として右記のふたりは良い地位を得たようです。

しかし、冒頭の聖句のように、「この事をなされた者を仰ぎ望まず、この事を昔から計画された者を顧みなかった」ために、功労者であるセブナとエリヤキムも滅びると預言されているのだと思われます。

セブナはすでに自分用の立派な墓も用意していましたが、無残な最期を迎えるのです(18~19)。また、エリヤキムも要職に就くのですが(22)、やがてその地位から転落するのです(25)

高慢な生き方を悔い改め、主に立ち返れと語られています。

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イザヤ書 23章

2022年08月11日 | イザヤ書

イザヤ書 23章
万軍の主はすべての栄光の誇を汚し、地のすべての尊い者をはずかしめるために、これを定められたのだ。
(23・9)


23章はツロに対する預言です。パレスチナの地中海沿岸に位置するツロはフェニキア人の町で、地中海有数の港町でした。海辺の住民よと呼ばれているのはフェニキア人のことで、彼らは古くからの海洋民族で貿易によって莫大な富を稼ぎ出していました。

タルシシという名が度々記されていますが、スペインの地中海岸にある港町で、フェニキア人が移り住んで地中海貿易の拠点としていた町です。そのことからも、彼らがいかに地中海をわが庭のように往来し、貿易や文化の交流で富を手にしていたかをうかがい知ることができます。

しかし、それは神がご覧になるに、富を主人とし、貿易相手の国々の王との間に姦淫を行う遊女だと言われます。まことの神を主人とせず、富を主人とすることを、聖書は霊的姦淫として扱っています。

地上の富が人々の目を惑わし、まことの主人である神に背を向けさせています。ツロ(フェニキヤ)に対する神のさばきは、そのような富を主人とする人々へのさばきでもあります。

彼らは地上においては栄華をきわめましたが、そのような麗しい誇りも、神の御前には卑しめられる時が来ます。いつかは消え失せる富を主人としてきた者ははずかしめを受ける時が来ます。

黙示録では、莫大な富で繁栄したバビロンが滅びる光景が預言されていますが、富を主人とする者への最後の姿です。私はだれを主人として生きているだろうか、問いただすことにしよう。

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