しかし民は黙ってひと言も答えなかった。王が命じて、「彼に答えてはならない」と言っておいたからである。(36・21)
破竹の勢いのアッシリヤ軍は、ついにエルサレムに到達し町を包囲しました。時は紀元前701年のことです。アッシリヤの王セナケリブは、将軍ラブシャケを名代(みょうだい)として遣わし、「すみやかに降伏せよ」と宣言したわけです。
彼らが言わんとするところは、「エジプトなんか信頼できないぞ」「お前たちの王ヒゼキヤにだまされるな」「お前たちの神である主など頼りになるのか」と不安感をあおることでした。
「エジプトは頼りにならない」。これは信仰の立場からしても、その通りです。しかしあとの二つはいただけません。
「あなた方はヒゼキヤに欺(あざむ)かれてはならない。彼はあなた方を救い出すことはできない」と語りかけました(36・14)。今日的に言えば「牧師の言うことにだまされるな」といったところです。
そして、冒頭に上げたように、主である神に対しても疑いを持たせたわけです。「これらの国々のすべての神々のうちに、だれかその国を私の手から救い出した者があるか。主がどうしてエルサレムを私の手から救い出すことができよう」(36・20)。
こんな内容を、アッシリヤの将軍ラブシャケは毎日のように、しかも大声で、エルサレムの人々に語りかけたのです。こんな言葉を聞き続けたら、不安が駆り立てられ、神への信頼が揺らいできます。
悪魔の挑発もこれと同じです。このラブシャケのように何度もくり返し語りかけてきます。否定的な言葉のシャワーを浴びせてきます。皆さんの耳にも届いていることでしょう。
人の肉体は日々、口から入る食物からできています。添加物の多い食材を食べ続けるなら健康を壊します。同様に、人の心は日々、耳から入ってくる言葉によってできています。毒の入った言葉や不信仰の言葉を聞き〝続けて〟はなりません。
逆に、神の御言を聞き続けてください。御言を聞かなければ信仰は弱くなり、疑いが強くなります。なぜなら「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」からです(ローマ10・17)。
不安をあおり立て、神への疑いをいだかせるのは、悪魔の常套(じょうとう)手段です。それは、あのエデンの園の時から同じです。悪魔は最初から悪いことは言いません。神の御言に対する不信感を徐々に吹き込むのです。「本当に神はそう言われたのですか」と(創3・1)。
ラブシャケの目的は何ですか。エルサレムの人々に不安と疑いをいだかせて、ついにはアッシリヤに降伏させることです。降伏してアッシリヤの王セナケリブを拝めと言っているのです。
「アッスリヤの王はこう仰せられる、『あなた方は私と和睦して、私に降服せよ。そうすれば、あなた方はめいめい自分のぶどうの実を食べ、めいめい自分のいちじくの実を食べ、めいめい自分の井戸の水を飲むことができる』」(36・16)。
「私を拝みなさい。そうすればこの世の栄華をあなたにあげよう」と言って御子イエスを誘惑した悪魔と同じです。
もちろん積極的に悪魔を礼拝する人など居ないでしょう。しかし、主イエスへの礼拝をやめなさい、そうすれば……という誘惑ならあります。
この時、信仰あつき王ヒゼキヤは、「彼に応えてはならない」と命令しました。言い返してやろうとか、言い負かしてやろうとすると、敵のペースに引き込まれるからでしょう。
「応えるな」というのは、消極的な対応のようにも思われます。でも、まず私たちはそうすべきです。そして、神のみことばに充分に聞き、養われる必要があるからです。反撃はそれからです。
祈りましょう。どうか、悪魔の挑発に惑わされることがないように、主よ助けてください。