goo blog サービス終了のお知らせ 

朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

イザヤ書 51章

2022年09月14日 | イザヤ書
イザヤ書 51章
義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。
(51・7 新改訳)


私たちは神の義を信頼します。かたや、自分の義を信頼する者 ――自己正義を主張する者―― は愚かです。そのような義は根拠が希薄で、あちこちから突かれると、もろくも崩れてしまいます。

だから、私たちは神の義を求めます。

神が、私を正しいとしてくださるなら、その義は揺るぎません。なぜお前みたいな者が義なのだ!?、と責める者がいても、神は正当な罪の支払いをして、私を罪なき者……つまり義としてくださったのですから、その義は揺るぎません。

主ご自身もその義について、わたしの義はくじけないからだと言われるのです(51・6)。そうです。神はその義を力強く成し遂げられるのですから、この義を求めるべきです。そのような神の義を求める者に、今日の預言は語られています。

義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け」「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け(51・1、 7)と主は言われます。

神が義とされたなら、その義は、どんな横槍が入ろうとも崩されることがありません。神が私を救うと言われたのであれば、その救いは確実です。何故なら、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからです(51・6)

バビロンの奴隷となったイスラエルの民は、周囲の人々から嘲(あざけ)りの的(まと)でした。

「お前たちの神は無力な神だから、バビロンの神々に屈したのだ」と。また、「お前たちの神に信頼しないで、バビロンの神々を拝め。そうしたら、お前たちはバビロンで生きのびられるのだ」とも。

そんなそしりは今でもあります。「お前のような者がクリスチャン?。本当に救われているのか。救われているならなぜ……」と、私たちの義を覆(くつがえ)そうと、誹(そし)りや罵(ののし)りが浴びせられます。

しかし、御言は告げています。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな(51・7)

神の義がどんな妨害にもくじけないように、私たちの義とされたことも、どんなそしりやののしりにもくじけないのです。わが義神の義はとこしえにながらえ、わが救はよろず代に及ぶからです(51・8)

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 49章

2022年09月12日 | イザヤ書
イザヤ書 49章
女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
(49・15)


〝神のしもべ〟についての預言です。

私に言われた、『あなたはわがしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである』と。(49・3)

神の栄光を現すために召された〝しもべ〟とは誰のことでしょうか。文脈からして第一に、イザヤ自身が神のしもべです。しかし、それはイザヤだけにとどまらず、バビロンから戻された残りの者を指しているとも解釈できます。

「あなたがわがしもべとなって、ヤコブの諸々の部族をおこし、イスラエルの内の残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、諸々の国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう。」(49・6)

さらに、この〝しもべ〟はキリストご自身のことであり、キリストを信じた者たちのことでもあります。このしもべは、神の救いの福音を地の果てにまで宣教するために召されています。

しかし当のユダヤ人(イスラエル)は、神から見捨てられたかのような状態です。彼らは次のように嘆いたのです。「しかしシオンは言った、『主は私を捨て、主は私を忘れられた』と」(49・14)

この聖句の一義的な意味は、イスラエルがバビロンから帰還したものの、シオンの町エルサレムは荒廃したままの姿であって、民にしてみれば、主から見離されたかのように感じられたことです。 ※帰還民が非常な困難の中で、神殿をはじめ町を再建したことは、エズラ記とネヘミヤ記に記されている。

そして、二義的には、イエス・キリストが来られたにもかかわらず、福音はイスラエルではなく、異邦人が受け入れるようになってしまい、当時の一般的な見解は、「神はイスラエルを見捨てられた」というものでした。

そうではありません。絶対にそんなことはありません。母親が乳飲み子のことを忘れないのと同じように、神はイスラエルを忘れないと言われています。それほど確実なことです。たとえ、母親が忘れるようなことがあっても、神はそれでもお忘れにならないのだと、念を入れて約束なさいます。

そして、見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだと言われます(49・16)

忘れてはいけないことを、手のひらに書いておくことがあります。そのようにして、いえそれ以上に、神は私たちを覚えておいでになるのです。

神はご自分の手のひらに、如何にして刻まれるのでしょうか。天に私たちの名を記すことによってです。イエスはあなた方の名が天に記されていることを喜びなさいと言われました(ルカ10・20)

地上で人が生まれると、各自治体の戸籍に名が記されるように、イエスを信じて神によって生まれた者たちは、神の子どもとして、その名が天の戸籍に記されるのです。このようにして、神は決してお忘れにならないのです。

復活の日、神は私の名を呼ばれます。「藤原幸生よ、帰ってきなさい」と。こうして、私もあなたも、天の御国に帰還するのです。

イスラエルの民もそのように呼び出されて、バビロンから帰ってきました。終わりの日、神はもう一度、イスラエルを約束の地に呼び戻されるでしょう。これが、神の手のひらに刻まれた民の恵みです。この恵みを覚えて、苦難の時を乗り越えよう。

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 50章

2022年09月12日 | イザヤ書
イザヤ書 50章
わたしが来たとき、なぜひとりもいなかったか。わたしが呼んだとき、なぜひとりも答える者がなかったか。
(50・2)


バビロンに捕らえ行かれた人々は、そのことをどのように受け止めたのでしょうか。多くの人々は、自分たちは神から完全に見捨てられたと感じたことでしょう。そこで神はこう言われるのです。

わたしがあなた方の母を去らせたその離縁状は、どこにあるか。わたしはどの債主にあなた方を売りわたしたか。見よ、あなた方は、その不義のために売られ、あなた方の母は、あなた方の咎(とが)のために出されたのだ。(50・1)

つまり、神の方から民に対して絶縁状を渡した覚えはないと言われるのです。だから、どこに正式な離縁状があるか、と問うておられます。また、どこに奴隷として売り飛ばした債権があるか……と。 ※「あなた方の母」とはユダヤ民族の父祖、「あなた方」とはバビロンで奴隷となっている民のこと。債務返済できなくて、親が子を奴隷として売ることがあった。

問題は神の側ではなく、民よ、あなた方自身の罪のために、自分自身が奴隷としてバビロンに連れ行かれたのではないか。だれのせいでもない。あなた方の罪の故だと指摘なさっています。

それを再三にわたり指摘しているのに、あなた方は応答しなかった。具体的には、イザヤを遣わしたのに歓迎せず迫害した。そのような民の誠意のない対応を叱責なさっています(50・2)

だから、神が無力ゆえに民を救えないのではない。神の手が短くて、民を救い出せないのではない。神の御声を聞いても、それに応えないからだ。すべての原因は自分の罪の故であることに気づき、悔い改めないからなのです。

そこで主はこう言われます。

わたしが来たとき、なぜひとりもいなかったか。わたしが呼んだとき、なぜひとりも答える者がなかったか。わたしの手が短くて、あがなうことができないのか。わたしは救う力を持たないのか。

神の救いの手は短くて、民に届かないのですか。そんなことはありません。さすがの神も。民の罪の大きさには対応できないのですか。神はそんな力のないお方ではありません。

ただ、民の中に己(おの)が罪を認め、悔い改める柔らかい心さえあれば、神の救いの御手は充分すぎるほどに届いているのです。

問題は私です。主が来られた時に居ないからです。主が呼ばれた時に答えないからです。

あなたは、今どこにいますか。神の御顔を避けて隠れるアダムに、「あなたはどこにいるのか」と神は呼びかけられました。その声は今も続いています。恥ずかしながらでも、私はここに居りますと応えるなら、救いはすぐ側にあることを知るのです。

本章の4節以降は、神がイザヤを任命して民に遣わしたことを表しています。イザヤは、神から「教えをうけた者の舌を」を授かり、御言を伝えました。しかし、民はイザヤを打ちたたき、侮辱をもってこれに応えたのです(50・6)

そのような中でイザヤを支えたのは、主である神が味方となって励まされたからでした。次のように告白しました。「私を義とする者が近くおられる。だれが私と争うだろうか、われわれは共に立とう。私のあだはだれか、私の所へ近くこさせよ。見よ、主なる神は私を助けられる。だれが私を罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。」(50・8~9)

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 48章

2022年09月10日 | イザヤ書
イザヤ書 48章
わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。どうしてわが名を汚させることができよう。わたしはわが栄光を他の者に与えることをしない。
(48・11)


イスラエル(ユダヤ人)のバビロン捕囚とそこからの解放。この一連の出来事は神の御業でした。その証左として、事が起こる前から、神は、イザヤを通してあらかじめ語られました。

あらかじめ語ったのは、主権を握っているのが主なる神であることを示すためであり、それを認めてイスラエルが悔い改めるためでした。

あらかじめ言っておかないと、人々は「バビロンに滅ぼされたのは運が悪かったのだ」と言い訳をしたり、「バビロンから解放されたのは、偶像を拝んだお陰だ」と的はずれなことを言うからです。

いにしえから、かの事をあなたに告げ、その成らない先にこれをあなたに聞かせた。そうでなければ、あなたは言うだろう、わが偶像がこれをしたのだ、わが刻んだ像と、鋳た像がこれを命じたのだと。(48・5)

また、あらかじめ言っておかないと、高慢な人々は「そうなると自分でも分かっていたよ」と思い上がった物言いをするからです(48・7)

それほどイスラエルの民は高慢で、頑固で、うなじの固い民でした。神は民がかたくなで、その首は鉄の筋、その額は青銅であることを知るゆえに、一連のことをあらかじめ預言なさいました。 ※「うなじ」とは首筋のこと。うなじが固いとは、素直に神の前に頭を垂れないことを意味する。「額が青銅」とは、日本でいう「石頭」のこと。考え方が固定化していることの意味。

預言が成就することで、主こそ神であり、礼拝すべきまことの神であることを民が知って悔い改めるためです。決して滅ぼすためではありません。彼らの心を錬って純粋な霊魂を得るためです。

見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みたと言われるとおりです(48・10)。バビロン捕囚という〝苦しみの炉〟を経て心は精錬され、不純物が取り除かれ、純金のような霊魂に仕上げるためです。

新約の子たちも〝苦しみの炉〟を通過します。その炉の中で、私たちの心は精錬され、錬られた品性を生み出すようにと、神は取り扱われるのです。

なぜ、そこまで神はなさるのでしょうか。

今日の御言は、神ご自身のため」「ご自身の栄光のためだと語られています。えっ、ご自分のためなんですか。「神様って自己中!!」などと誤解なさらないでいただきたい。

私たち造られた者が創造主を無視して自己中になるのはもってのほかですが、神が中心であるのは、人間のそれとはまったく次元が違います。人間の自己中心は混乱を生み出すだけです。中心となっている人間そのものが罪人だからです。

でも、神が中心であられるなら、平和と秩序の世界です。栄光があります。神が中心なら安心です。神こそが〝中心〟に相応(ふさわ)しいお方です。ですから、〝神のため〟でいいのです。人は、神中心の世界に謙遜と従順する他に道がありません。

しかし、考えても見てください。鉄筋のようにうなじの固い不信の民を、「わが名のために怒りを遅くし、わが誉れのために忍耐なさる」のです(48・9)。そして、試練の中で錬って、純金のような栄光に富んだ民に仕上げようとなさるのです。あなたは、このような神の取り扱いが不満ですか。それとも、感謝して従順しようと考えますか。神を信頼し、神の御手に委ねようではありませんか。

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 47章

2022年09月09日 | イザヤ書
イザヤ書 47章
あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はない』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ』
(47・10)


第47章はバビロン滅亡の預言です。「バビロンの娘」「カルデヤ人の娘」と表現されているのは、バビロン人のことです。 ※聖書では「人間」を女性名詞で表現する。たとえば「教会」のことを「花嫁」と呼ぶように……。

バビロンは神の民であるイスラエル(ユダ)を滅ぼし、残りの民を奴隷として引き連れて行きました。

しかしこのバビロンの仕業(しわざ)も神のご支配の下にあります。強大なバビロンでさえ、神のしもべとして、イスラエルを懲(こ)らしめるために用いられた鞭に過ぎません。それなのにバビロンは高ぶっていました。

47章にはバビロンの高慢が随所に記されています。

あなたは『いつまでも私は女王でいよう』と考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった。(47・7)

バビロンは自国の滅亡を考えもしませんでした。バビロンは永遠で不滅だと考え高ぶりました。そして、冒頭の聖句のように、自分たちだけは特別だと自惚(うぬぼ)れたのです。

高慢で横暴なふるまいも、私を見る者はないと高をくくっていました。つまり、悪は隠れていて、だれもとがめ立てしないのです。しかし、善であれ悪であれ、それを隠れたところでご覧になっている神の目を意識しない人は愚か者です。

その高慢が、やがて自分だけは特別だという特権意識を生み出します。神を恐れることは知恵の初めであることを、もう一度かみしめることにしよう。

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 46章

2022年09月08日 | イザヤ書
イザヤ書 46章
わたしはあなた方の年老いるまで変らず、白髪(はくはつ)となるまで、あなた方を持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。(46・4)


やがてバビロンはペルシャ軍の進撃によって滅ぼされます。その時の様子が予告されています。

「ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができず、かえって、自分は捕われて行く。」(46・1~2)

「ベル」「ネボ」とはバビロンで崇拝されていた偶像神の名です。バビロンの人々は、ペルシャ軍の攻撃から逃れようと、そのベルとかネボという偶像を牛車や家畜に乗せて逃げ惑ったのです。

自分たちの神をお守りしなければと持ち運んだわけですが、難を逃れる道中には足手まといとなってしまうのです。彼らの崇拝する神々は、彼らを救うどころか、かえって重荷となってしまいます。

人々が神だと崇拝する偶像が、いかに愚かで空しい存在であるかを、イザヤは皮肉を込めて痛烈に指摘したのです。

人間に運んでもらわなければならない神々です。人間を守ることがきないばかりか、人間に守ってもらわなければならない神々です。人間の悩みを解決できないばかりか、かえって人間の負担となる神々です。これが偶像の正体です。

しかし、イザヤが証しする神は、わたしは神である。わたしの他に神はないと言われる神です。

このお方は、わたしはあなた方の年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなた方を持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救うと言われる神です。

人間に運んでもらわなければ何処にも行けない偶像ではなく、神が人間を持ち運ばれるのです。しかも、私たちが白髪になるまでそうされるのです。なぜなら、主こそが創造神であり、始めから終わりに至るまで責任を持たれる神だからです。

造った側に責任があります。偶像は〝人間が〟造ったので、人間が持ち運び、人間が守らなければなりません。偶像を造った人間に、偶像の管理責任があるとは皮肉なことです。

しかし、私たちの神は、私たちを創造したゆえに、私たちが白髪になるまで責任を持って持ち運び、守り、救ってくださいます。

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 44章

2022年09月06日 | イザヤ書
イザヤ書 44章
ある人は「私は主のものである」と言い、ある人はヤコブの名をもって自分を呼び、またある人は「主のものである」と手にしるして、イスラエルの名をもって自分を呼ぶ。
(44・5)


先の43章で、神は尊い代価すなわち神の血を支払って、私たちを神のものにしてくださったことを見ました。だから、私たちは「高価で尊い」と呼ばれる存在です。

そのようにして、あがなわれた者たちは、私は主のものと言うようになると預言されています。この告白はイエスをキリストと信じた人々にも共通する告白です。皆さんの心には、「私は主のもの」という告白があるはずです。

それとも、私は私のものだ「自分の人生は自分のものだ。自分の好きなようにして何が悪いのか」と言い放つでしょうか。

私が神のものとなるために、神がいかに大きな代価を支払われたかを知るなら、もはやそのように言うことができません。「私は主のもの」です。主のものであって、主の栄光のために生かされています。主のものであるからこそ、高価で尊いのです。

この告白と確信は、神が私たちに注がれる聖霊に基づきます。なぜなら、イザヤは、あがなわれた者たちに聖霊が注がれると預言しているからです。

わたしは、渇いた地に水を注ぎ、干からびた地に流れを注ぎ、わが霊をあなたの子らに注ぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。」(44・3)

この聖霊は〝証印〟のようです。神の御子の血であがなった者たちを、神は「わたしのものだ」と言われ、そこにご自分の印鑑を押すように、神は聖霊の証印をおされるのです。

その聖霊の証印を受けたパウロは告白しています。

「あなた方もまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなた方の救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、私たちが神の国を継ぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エペソ1・13~14)

聖霊の証印を受けた者の心には、確信があります。主の所有とされたことへの誇りと賛美があります。さあ、あなたはだれのものですか。告白します。「私は主のものです」。

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>
TWRのラジオ放送でメッセージを語り始めました。Podcastでも配信しています。URLをご紹介します。
https://open.spotify.com/episode/6ZDOY8m90iw4gV9vtZ4RBa
~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 45章

2022年09月06日 | イザヤ書
イザヤ書 45章
地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。
(45・22)


わたしは神であって、他に神はないという主の宣言は、何度もくり返されています。聖書に啓示された主こそまことの神です。イスラエルの民に顕(あら)わされた主こそ、天地の創造主、万物の支配者、唯一まことの神です。

さて、その神である主は受膏者(じゅこうしゃ)クロスを起こして、バビロンで捕囚となっているイスラエル(ユダヤ人)を解放するのだと語られました(45・1、13)。 ※「受膏者」とは「油注がれた者」という意味。メシヤのこと。神の特別なご用に任命される者(王、大祭司、預言者)は油を注いで聖別した。〝クロス〟という人物が神によって聖別されて、ユダヤ人解放の任務に用いられることを預言している。

この預言が語られてから約170年後、ペルシャ帝国はバビロンを滅ぼし、バビロンの下で奴隷であったユダヤ人を解放し、彼らが、祖国の地カナンに戻って神殿を再建することを命令しました。この時の王の名が「クロス」でした。

これを成し遂げたのは主なる神です。このような神は他にあるだろうか。主はわたしこそ神であって、他に神はないと言われるのです。

何と、神は、ご自分の民を救うのに、ペルシャの王クロスをお用いになったのです。神は、異教徒の王さえも、しもべとして用いられました。

かたや、用いられる側のクロスは、自分が神の任務に与(あずか)っている自覚があったのでしょうか。なくても神はそのように導くのです。 ※全能の神は、人間の自由意志をご自身のご計画にそって用いることができる。

わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。
(45・4~5)


すべての主権は神にあります。神がペルシャの王クロスを「わがしもべ」と呼ばれ、用いられるのは、陶器師が土塊(つちくれ)を自分の希望通りの陶器に仕上げるようなものです。だれもこのことに文句をつけようがありません(45・9~13)

このような偉大な神が他にあるでしょうか。この神こそ真の神、全世界の神、全人類の神です。国や民族や時代を超越した万民の神です。だから、すべての者はこのお方を仰ぎのぞむことで救いを受けるのです。イスラエルだけを救う神ではありません。

地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(45・22)

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 43章

2022年09月05日 | イザヤ書
イザヤ書 43章
すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた。
(43・7)


先の42章の後半ではイスラエル(ユダヤ人)の不信仰が語られていました。それにもかかわらず、神は民に向かって恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)った。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだと呼びかけられるのです(43・1)

何と力強い宣言でしょう。そして、こう言われるのです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(43・4 新改訳) ※口語訳は「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える」。

何と不信の民であるイスラエルを、神は愛していると言われるのです。神の目には高価で尊いと言われるのです。

皆さんが愛するものは何でしょうか。きっとそれは高価なものだと思います。しかもその「高価」とは単に金銭を積めば買うことのできる「高価」ではありません。地上のいかなる富をもっても買うことのできない高価なものであるはずです。

言いかえれば、お金で買えるようなものは高価ではありません。失っても、またお金を支払って手に入れることができるからです。しかし、お金で買えないものがあります。それこそ高価なものです。

さて、神は私たちを「高価で尊い」と言われるのです。それは「あがなわれた者たち」だからです。1節で見たようにわたしは、あなたを〝あがなった〟民だからです。

代価を支払って買い取ることが「あがない」です。

神は代価を支払って私たちを神のものとしてくださいました。では、いかなる代価が支払われたのでしょうか。

それは神の血です。人となられた神が ――肉体をとって世に来られた神が―― 血を流して、私たちを罪の支配の中から買い取ってくださったのです。

この神の血ほど高価なものはありません。「銀や金のような朽ちる物ではなく、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血」によって、私たちはあがなわれました(Ⅰペテロ1・18~19)

この「神の血」であがなわれたので、「あなたは高価で尊い」のです。

しかし、神はなにゆえに、これまでして民をご自分のものになさるのでしょうか。この民のために血を流すほどに値打ちがあるとでも言うのでしょうか。神は、イスラエルの民のことをこう評されています。

「ところがヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった。イスラエルよ、あなたはわたしをうとんじた」のです(43・22)。また、こうも言われます。「かえって、あなたの罪の重荷をわたしに負わせ、あなたの不義をもって、わたしを煩(わずら)わせた」とも(43・24)

神を大切にせず疎(うと)んじる。自分で代価を支払うこともできないのに罪を犯しつづける。そのためその支払いという借金は膨れあがるばかりの民です。それでも神は愛されます。神の愛は、人間の愛をはるかに越えています。

人間の愛は、価値があるから愛します。価値がないものに愛を注ごうと思いません。それが人間の愛の限界です。しかし神の愛は違います。神が愛されるので価値があるのです。有名人の所有でれば、つまらないものでも値打ちが出ます。ましてや、神が愛した民に如何ほどの値打ちがつくことでしょう。だから、あなたは高価で尊いのです。

では、これほどまでして、神がイスラエルを贖ったたのは、何が目的だったのでしょうか。そして、新約の時代に、神の御子が血を流してまでして、人類をあがなわれたのは何が目的なのでしょうか。その目的を冒頭の御言が高らかに告げています。すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てたからです。

神によってあがなわれ、罪がゆるされた私自身の喜びもすばらしいものですが、それ以上に、それは、私たちが神の御名を讃美し、神に栄光を帰するためであることを忘れてはなりません。

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 42章

2022年09月03日 | イザヤ書
イザヤ書 42章
傷ついた葦
(あし)を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道を示す。(42・3)


神が世に遣わす〝しもべ〟についての預言です。

わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼は諸々の国びとに道を示す(42・1)と言われている〝しもべ〟とはメシヤ(キリスト)のことです。 ※一義的にはバビロンから戻ってくる「残りの者」を表しているが、二義的にはキリストを表している。また、そのキリストを受け入れた新約のクリスチャンの生き方でもある。

新約聖書でもこのイザヤ書の箇所を引用して、ナザレのイエスこそ、この預言通りのお方であると語っています(マタイ12・18~21)。このお方がバプテスマをお受けになると、聖霊が鳩のようにくだって、神の働きを始められました。

キリストは優しく語りかけられました。傷ついた葦(あし)を折ることなくとあるように、罪の重荷で傷つき折れそうな罪人たちに、ゆるしを宣言し、罪の中から立ち上がる勇気をお与えになりました。

また、ほの暗い灯心を消すことなくとあるように、死を前にして希望を見失い、人生のいのちの火が消えかかっている人々に、死者の復活を語り、闇の中に輝く光をお与えになりました。

そして、真実をもって道をお示しになりました。※新改訳では「まことをもって公義をもたらす」。新共同訳では「裁きを導き出して確かなものとする」と翻訳。

これが正しい道だと、キリストは示してくださったのです。わたしが道だとご自分の生き様こそ、人が人として生きる姿であることを示されました。それは「神への謙遜と従順」という生き様です。

イエス・キリストは神の御子でありながら、しもべとして歩まれました。ご自分は神と等しくあるべきお方であるにもかかわらず、しもべの姿で、十字架の死に至るまで従順であられました。

「お前が神の御子ならば……」と何度も誘惑を受けられました。「お前が神の子なら、石をパンに変えてみろ。ここから飛び降りて無事であるという奇蹟を示してみよ」。「お前が神の子なら十字架からおりてみよ。そうすれば信じよう」と。

しかし、キリストはそんな誘惑の中でもぶれることなく、人としての道 ――それは「しもべ」としての道―― を確かなものとなさいました。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立するのです(42・4)

キリストはこのようなお方だからこそ信頼に値します。このお方の御足跡に続こう。

しかし、この方を待ち望んだはずのユダヤの民は、見ても見ず、聞いても聞かない民となってしまうと預言されていることは悲しい事実です。42章18~25節はそのことを預言しています。

<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 41章

2022年09月02日 | イザヤ書
イザヤ書 41章
だれがこの事を行ったか、なしたか。だれが初めから世々の人々を呼び出したか。主なるわたしは初めであって、また終りと共にあり、わたしがそれだ。
(41・4)


ユダヤ人はバビロンによって滅ぼされ、その捕囚となると主は語られました(39章)。しかし、それは罪に対する刑罰であって、時が来ればその牢獄から救い出すとも語られました(40章)

そして、第41章では、ユダヤ人を救い出す人物が東から起こるのだと預言されています。

だれが、東から人を起したか。彼はその行くところで勝利をもって迎えられ、諸々の国を征服し、諸々の王を足の下に踏みつけ、その剣をもって彼らを塵(ちり)のようにし、その弓をもって吹き去られる藁(わら)のようにする。(41・2)

この「東からの人とは、バビロンを滅ぼし、捕囚の民を解放する人物のことです。

バビロンの東に位置するのはペルシャです。後に、ペルシャの王クロスはバビロンを征服し、奴隷であったユダヤ人を解放したのです。当時、奴隷とは安価な労働力です。それを解放し祖国への帰還を命じるなど、前代未聞の出来事です。

人々は言うでしょう。これは偶然だ。たまたま、うまくいったのだ……と。いいえ、偶然ではありません。預言通りです。万物を支配なさる神の御業です。だからわたしがそれだと主は言われます。

このお方は「初めであって、終わりと共にある」というお方です。新約聖書のヨハネの黙示録に啓示された主もまた「わたしは初めであり終わりである」と宣言なさるお方です。すべてを統(す)べ治める存在といういう意味です。気分屋さんのように、たまたま為(な)さるのではありません。初めから計画し、終わりまで責任を持って統括なさる神です。

このお方こそ全ての支配者。このお方に信頼すべきです。このお方のなさることに無駄はありません。意味があるのです。目的があるのです。初めと終わりを統括なさる神がご存知です。ただ、今の私には理解できないだけです。

やがて私たちが天に帰還して、主にお目にかかるとき、あれはわたしだと言っていただき、すべての謎が解けるときがあるに違いありません。そんな主を信頼しよう。

 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 40章

2022年09月01日 | イザヤ書
イザヤ書 40章
主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
(40・31)


先の39章では、南ユダはバビロンによって滅ぼされ、奴隷となって捕らえられて行くのだと預言されました。つまりバビロン捕囚の預言です。

「見よ、すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない、と主が言われます。また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られて、バビロンの王の宮殿において宦官となるでしょう。」(39・6~7)

そして第40章からは、バビロン捕囚後のことを預言しています。

捕囚の地での苦難は、南ユダの人々にとっては「服役」の期間であったと言えるでしょう。しかし、その期間もやがて終わるのだと言われています。

あなた方の神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ。その〝服役〟の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、その諸々の罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた』。(40・1~2) ※「服役」と訳された語は、新改訳では「労苦」、新共同訳では「苦役」と翻訳。

罪の牢獄から解放される時が来るという預言です。

この預言の一義的な意味は、ユダヤ民族のバビロンからの解放です。しかしそれだけでは終わっていません。二義的には ――実はこれが重要なのですが―― メシヤキリストによって、人類が罪の奴隷から解放されることを表しています。

さて、奴隷の地からの解放に先立ち、ひとりの預言者が語り始めます。それは荒野に呼ばわる者の声です。この「声」とは預言者の声です。彼は何を語るのでしょうか。

荒野に主の道を備え、砂漠に、我々の神のために大路をまっすぐにせよ。諸々の谷は高くせられ、諸々の山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光が現れ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである。(40・3~5)……という声が荒野で聞こえるのだと預言しています。

要約すれば、「メシヤが来られるための道を準備せよ」と荒野で叫ぶ声です。この声はいつ聞こえましたか。そうです。ナザレのイエスが登場なさる前に、ユダの荒野で聞こえてきました。バプテスマのヨハネの声です(マタイ3・1~3)

メシヤが来られるための道を準備せよと言われるのですが、どのような道でしょうか。預言の声はこう告げています。「諸々の谷は高くせられ、諸々の山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる」と。

デコボコ道が平らになるのです。メシヤ(キリスト)がやって来られるのを妨げるような谷も山も、埋められ削られて平らにするのです。それは「心の道」です。キリストを心に迎えるための平らな道です。

このデコボコ道は「悔い改め」によって平らになります。悔い改めがなければ、キリストは私たちの心においでになることができません。

一義的には、ユダヤ民族はバビロンの地で、かつての不信仰を悔い改めました。そして、服役の期間を終えて民は解放され、約束の地に戻ってきました。二義的には、それと同じように、私たちも悔い改めてイエス・キリストをお迎えするとき、私たちは罪の奴隷から解放されます。

そして、このお方を待ち望む人には力が与えらるのだと、冒頭の聖句は語っています。

捕囚の地で人々はいかに預言の実現を待ち望んだことでしょう。希望もなく疲れ切った人々に、キリストが来られるなら、この奴隷状態から解放されるのだという約束が、いかに勇気を与えたことでしょう。

新約の時代に生きる私たちは、このイエス・キリストをお迎えし、罪の奴隷から解放されました。そして、キリストが二度目に来られるとき、この肉体という弱さからも解放されます。

朽ちる体から抜け出して、朽ちない体……復活の体を受けるからです。これを実現なさるために再び来られるキリストを私たちは待ち望んでいます。このお方を待ち望む者は、たとえ疲れたとしても、もう一度立ち上がる力を得るのです。

 
<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 39章

2022年08月31日 | イザヤ書
イザヤ書 39章
彼は「少なくとも自分が世にある間
(あいだ)は太平と安全があるだろう」と思ったからである。(39・8)


瀕死の病を癒されたヒゼキヤ王の晩年のことです。バビロンからの使者がエルサレムにやって来ました。

この時のバビロンはアッシリヤの後塵を拝する小国です。そのバビロンの使者が何のためにエルサレムを訪れたのか。その目的は、使者を出迎えたヒゼキヤ王の対応から読み解くことができます。

ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物はひとつもなかったのです(39・2)。つまり、南ユダの機密情報を提供したのです。普通ではあり得ないことです。裏をかえせば、バビロンとユダは普通ではない関係になったことを意味しています。

つまり、バビロンからの使者がやって来たのは、南ユダと同盟を結ぶためでした。

どちらが先に提案したのか分かりませんが、南ユダにとって、バビロンと同盟することは、直近の敵であるアッシリヤに対抗するには得策と判断したのでしょう。こうして同盟は成立し、国内の機密をバビロンに見せたというわけです。

そのことを知ったイザヤは、ヒゼキヤに神の御言を伝えました。

見よ、すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日までに積み蓄えた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない、と主が言われます。また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られて、バビロンの王の宮殿において宦官となるでしょう。」(39・6~7)
 
これは、百余年後に起こるバビロン捕囚の預言です。同盟を結んだ国がやがて支配者となるのです。

しかし、この時のヒゼキヤは、自分の生きている間が平和で安全であれば良いと考えたのです。このバビロンとの同盟が、後に起こる悲惨なバビロン捕囚の遠因になることについて無関心でした。

南ユダの宗教改革の先頭に立ち、アッシリヤの攻撃に対しても、ひたすら神を信頼し祈って難局を乗り越えてきたヒゼキヤ王でしたが、どうしたことでしょうか。悲しい結末です。

私たちは人生の晩年を迎えようとするとき、このことを考えなければなりません。若いときは信仰熱心で活躍した経歴があっても、はたして晩年にどのような遺産を子孫に残すのでしょうか。

ヒゼキヤは今さえ良ければよいと考えました。彼の主への熱心は衰えてしまいました。これが旧約の限界なのかもしれません。「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」という力……。それは主を待ち望む者に与えられるのですが、主である聖霊が来られるまで難しいことなのかもしれません。

新約の時代に生きる私たちは何を残しますか。後生に禍根(か こん)を残すのでしょうか。いいえ、私たちが残すべき最大の遺産は主イエスを信じる信仰です。神を愛し仕える忠実です。

そして、祈りもまた大きな遺産です。後生の救いのために祈り、執り成して祈ることは、どんなにか大きな遺産でしょうか。自分が生きている間だけの平安のために祈るのではありません。

目先の平安にとどまらず、神がやがてくだす世の終わりのさばきと御怒りを覚えて、人々が悔い改めるようにと祈らなければなりません。私だけが知って、私だけが救いを受ける福音ではありません。

私が生きている間に、その祈りは実現しないかもしれません。祈りは遺産です。水の上にパンを投げるような取り組みですが、後の時代になって刈り取るようになるのです。

いまだけ良ければよい、自分だけ良ければよいという小さな世界から飛び出して、周りの人々のために、後の時代の人々のために、そして、神の御心が完成するために祈り続けよう。

 
<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 37章

2022年08月29日 | イザヤ書
イザヤ書 37章
主よ、耳を傾けて聞
いてください。主よ、目を開いて見てください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉を聞いてください。(37・17)


アッシリヤの王セナケリブの言葉は、書簡として、南ユダの王ヒゼキヤのもとに届けられました。先のラブシャケの宣伝によって、エルサレムの人々は動揺していました。

ヒゼキヤ王とて同じです。彼は「衣を裂き、荒布を身にまとって主の宮に入り」ました(37・1)。「衣を裂き、荒布をまとう」のは悔い改めを意味しています。王服を脱ぎ捨て神の御前に謙虚に祈るために、彼は神殿に入ったのです。

そして祈りました。冒頭の聖句はそのヒゼキヤの祈りの言葉です。

この祈りの中に、悪魔との戦いに勝利する秘訣があります。「主よ、ご覧になってください」。そうです。悪魔の巧妙な罠に直接対峙するのではなく、主の前につまびらかに申し上げることです。

誘惑にあったとき、自分だけで戦おうとしてはいけません。悪魔の挑発にのって、自分だけで戦いに出てはなりません。問題を隠さないで、主よ、ご覧になってください」「主よ、お聞きになってくださいと、事の次第を神の前に明らかにすることです。

これはとても重要な秘訣です。闇は光のもとにさらし出すことで滅びるのです。私たちが何でも神に申し上げるのは、神の栄光の御光で照らしてもらうことになるからです。

ヒゼキヤは王という身分に高ぶることなく、神の御前にひざまずき、全てを神の御前につまびらかにしました。そして、主はその問題に介入なさいました。

先にも紹介したように、天の軍勢によって、アッシリヤ軍は一夜にして滅びたのです(37・36)。逃げ帰ったセナケリブ王は息子によって暗殺され、その生涯を終えました(37・37~38)

 
<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~

イザヤ書 38章

2022年08月29日 | イザヤ書
イザヤ書 38章
ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。
(38・17)


神の奇跡的な介入によってアッシリア軍が撤退し、当面の危機を乗り越えたのですが、ユダの王ヒゼキヤは重い病に伏し、死に直面してました。ヒゼキヤは大声で泣きながら祈りました。神のあわれみを求めて祈りました。

「『ああ主よ、願わくは、私が真実と真心とをもって、御前に歩み、あなたの目にかなう事を行ったのを覚えてください』。そしてヒゼキヤはひどく泣いた。(3)

神は、ヒゼキヤを顧(かえり)みてくださり、彼の寿命は15年延ばされるのだと、イザヤを通して預言の言葉がありました。そのことを受けて、ヒゼキヤは感謝の祈りをささげました。

ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。(17)

主にあっては、苦しみは苦しみのままで終わることがないのです。苦しみの中にあるときは、苦しみしか見えません。しかし「主を愛する者にとっては万事が益となる」のです。

苦しみはやがて平安な義の実を結ばせるのです。ヒゼキヤのように「病気の癒し」というかたちで平安を結ぶこともあれば、死という苦しみを通過して、天において永遠の平安を結ぶこともあります。

どちらにせよ行き着くところは神の与える平安です。この平安は、単に病気の癒しによってもたらされるとは限りません。即物的な要因によって平安を感じる場合もあります。例えば、。事業が上手く行くとか、経済的に満たされたとか、人間関係が改善されたとか。

それも平安ですが、ヒゼキヤはあなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられましたと告白したように、罪の重荷が取り除かれること、これ以上の平安はありません。神しか与えることのできない平安です。

あなたは罪の重荷で苦しんでいますか。それは平安に至るための苦しみです。罪の重荷でつぶれそうになっている人は幸いです。その人は十字架のもとに荷を下ろして真の平安を受けるからです。

 
<朗読配信_Spotify>
<You Tube>

~~~~~~~~~~~~