イザヤ書 51章
義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。(51・7 新改訳)
私たちは神の義を信頼します。かたや、自分の義を信頼する者 ――自己正義を主張する者―― は愚かです。そのような義は根拠が希薄で、あちこちから突かれると、もろくも崩れてしまいます。
だから、私たちは神の義を求めます。
神が、私を正しいとしてくださるなら、その義は揺るぎません。なぜお前みたいな者が義なのだ!?、と責める者がいても、神は正当な罪の支払いをして、私を罪なき者……つまり義としてくださったのですから、その義は揺るぎません。
主ご自身もその義について、「わたしの義はくじけないからだ」と言われるのです(51・6)。そうです。神はその義を力強く成し遂げられるのですから、この義を求めるべきです。そのような神の義を求める者に、今日の預言は語られています。
「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け」「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け」(51・1、 7)と主は言われます。
神が義とされたなら、その義は、どんな横槍が入ろうとも崩されることがありません。神が私を救うと言われたのであれば、その救いは確実です。何故なら、「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないから」です(51・6)。
義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。(51・7 新改訳)
私たちは神の義を信頼します。かたや、自分の義を信頼する者 ――自己正義を主張する者―― は愚かです。そのような義は根拠が希薄で、あちこちから突かれると、もろくも崩れてしまいます。
だから、私たちは神の義を求めます。
神が、私を正しいとしてくださるなら、その義は揺るぎません。なぜお前みたいな者が義なのだ!?、と責める者がいても、神は正当な罪の支払いをして、私を罪なき者……つまり義としてくださったのですから、その義は揺るぎません。
主ご自身もその義について、「わたしの義はくじけないからだ」と言われるのです(51・6)。そうです。神はその義を力強く成し遂げられるのですから、この義を求めるべきです。そのような神の義を求める者に、今日の預言は語られています。
「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け」「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け」(51・1、 7)と主は言われます。
神が義とされたなら、その義は、どんな横槍が入ろうとも崩されることがありません。神が私を救うと言われたのであれば、その救いは確実です。何故なら、「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないから」です(51・6)。
バビロンの奴隷となったイスラエルの民は、周囲の人々から嘲(あざけ)りの的(まと)でした。
「お前たちの神は無力な神だから、バビロンの神々に屈したのだ」と。また、「お前たちの神に信頼しないで、バビロンの神々を拝め。そうしたら、お前たちはバビロンで生きのびられるのだ」とも。
そんなそしりは今でもあります。「お前のような者がクリスチャン?。本当に救われているのか。救われているならなぜ……」と、私たちの義を覆(くつがえ)そうと、誹(そし)りや罵(ののし)りが浴びせられます。
しかし、御言は告げています。「人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな」(51・7)。
神の義がどんな妨害にもくじけないように、私たちの義とされたことも、どんなそしりやののしりにもくじけないのです。「わが義(神の義)はとこしえにながらえ、わが救はよろず代に及ぶ」からです(51・8)。
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