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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

列王記上 17章

2025年04月04日 | 列王紀
列王紀上17・14 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです。

先に私たちは、北イスラエル王国に最悪の王アハブの登場を見ました。アハブは、主の預言者たちを粛正(しゅくせい)し、バアル神とアシラ神の預言者たちを重用して、偶像礼拝を推し進めました。

最悪の王による最悪の時代です。しかし、神はイスラエルの民をお見捨てになっていません。粛正の嵐を生き抜いた預言者エリヤを派遣して、悔い改めを迫ったのです。

エリヤは王アハブに向かって、私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。私の言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょうと預言を語りました(17・1)

干ばつと飢饉がやって来るが、それは、偶像礼拝を悔い改めて主なる神に立ち返れという神からのメッセージを意味していました。しかし、心を頑なにするアハブは、エリヤに敵対し、彼を捕らえて殺そうとしました。

そこで、神はエリヤに、ケリテ川のほとりに身を隠せと命じられました。神は烏(からす)を用いて彼を養うというのです。

何と、烏が朝夕ごとにパンと肉をエリヤの所に運んでくれて、それによって彼は養われました。これから続くであろう、アハブとの霊的戦いにそなえて、神はエリヤを訓練されたのです。

その訓練の第一のステップが、烏によって養われるという経験であり、第二のステップは、やもめの女の所へ行けと命じ、その女性のもとで養われるというものでした。

ゴミ箱をあさったり、畑から農作物を盗む烏の姿は、私たちの知るところです。ところが、そんな烏が食物を運んでくれるのです。烏によって養われるなど想像できません。理解しがたい事です。

次に、やもめの婦人です。夫に先立たれたやもめは、当時の社会では最も弱い存在でした。そのような婦人に養われることも、先の烏が養ってくれるのと同様に考えられないことです。

この二つを経験することで、小さくて弱い存在でも、神が用いられるなら大きな働きをすることを学びました。そして、本当に養ってくださるのは、神であるとの確信を得たのです。そのための訓練でした。

あの5つのパンと2匹の魚を用いて、主は5千人の空腹を満たされたように、烏を用いたり、やもめの婦人を用いてでさえも、主は養うことのできるお方だという信仰の訓練でした。

神への信頼を妨害する最大の敵は、私たちの理性です。理性は常に私たちに語りかけます。「神はそう言われるが実際は違う」「現実はそう甘くない」「信頼して本当に大丈夫か」「根拠はあるのか」と。

あの5千人の給食の時も、弟子たちの理性は「5百デナリのパンがあっても足りない」と語りかけました。このように、理性は御言を変更しようとします。理性は御言を自分の支配下におこうとします。

そのように迷いながらも、私たちは神の御言に従うのです。不安を感じながらも、私たちは神の御言に信頼するのです。

さて、エリヤは烏のもとで養われ、次に、やもめの婦人のもとで3年間養われました。その間、かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えませんでした。まさに、神が養ってくださったのです。

もしこの時、神が「裕福な社長さんのところへ行って養われなさい」と命じられたらどうだったでしょう。そうしたら、自分を養ってくれたのは社長であったと勘違いします。

そうです。私たちは勘違いしているのです。

自分が勤めている会社が養ってくれていると思っているのです。しかし、その背後にあって支えてくださる神こそが、私を養ってくださっていることに気づかないでいるのです。

また、会社で働いて給料を稼いでいる自分が家族を養っていると勘違いしています。本当は、健康と働く能力を与えてくださる神が養ってくださっているのです。それなのに、神の恵みに気がつかずに、私たちは勘違いしています。

勘違いしているので、会社を神のように礼拝します。有名大学を礼拝し、健康を礼拝し、夫を礼拝し、富を礼拝します。これらはみんな偶像礼拝です。神ならぬものを神として礼拝しています。

それを分からせるために、神は、エリヤを人里離れたケリテ川のほとりに遣わし、烏に養わせました。さらに、やもめの所へ行けと命じられたのです。

本当に養うのは神であることを体験させるために、神は献金しなさいと命じられます。富が主人ではなく、神が主人であることを分からせるためです。本当に救うのは神であることを体験させるために、神は「自分で自分のいのちを救うな。主のためにいのちを捨てよ」と命じられるのです。

本当に養ってくださる神を信頼しよう。その神の語られる御言を信頼しよう。信頼するとき、その関係は深まります。友を信頼するとき、友情が深まり、きずなが強くなるように、神の御言を信頼するとき、神との交わりは深まり強くなるのです。

いかがですか。今までの人生を振り返ってみて、神はいつも必要を満たしてくださったではありませんか。献金をささげても、その財布は底をつかなかったではありませんか。あのやもめのように、粉も油も底をつかなかったという経験があったはずです。

自分の体力を考えると、明日のことを心配して出し惜しみをしてしまいます。でも、振り返って見ると、粉も油も底をつかなかったのです。明日は明日自身が思いわずらうのですから、今日の一日を出し惜しみしないで生きることにしよう。

この地上という荒野の旅を終えて振り返って見たとき、あのイスラエルの民が体験したように、「この40年の間、着物はすり切れず、足ははれなかった」と告白する者でありたいのです。

列王記上 16章

2025年04月03日 | 列王紀
列王紀上16・30~31 オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし……

第16章は再び北イスラエル王国の物語です。北王国の最初の王ヤラベアム(ヤロブアム)のなした罪と悪がどれほどひどいものであったかは、すでに見てきたとおりです。

南王国では、ダビデの功績ゆえに哀れみを受け、時にはアサ王のように闇の中に輝く光のような恵みを得ました。しかし、北王国のヤラベアム王のその後はどうなったのでしょうか。

ヤラベアムの子ナダブが王になりましたが、主の目の前に悪を行い、その父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪を行ったです(15・26)。その後、バアシャ(バシャ)によるクーデターによってヤラベアムの全家は絶やされてしまいまいた。

そのバアシャが王となって24年間イスラエルを治めるのですが、彼も主の目の前に悪を行い、ヤラベアムの道を歩み、ヤラベアムがイスラエルに犯させた罪を行ったのです(15・34)

その後もクーデターの連続です。詳細は省きます。後にオリムが王座を奪うのですが、彼に対する評価はさらに悪くなります。彼より先にいたすべての者にまさって悪いことをしたのです(16・25)

そして、オリムの子アハブが王となるや、彼に対する評価は最悪です。彼の父よりももっと悪くなったのです。彼にとってヤラベアムの罪など軽い事だったのです(16・30~31)

ヤラベアムから始まってアハブ王に至る一連の罪とは何だったのでしょうか。それは「偶像礼拝」の罪です。真の神への礼拝を軽んじ、神ならぬものを神とする罪です。

そもそも「罪」とはギリシャ語でハマルティアと言いますが、それは(まと)を外(はず)という意味です。語源からすれば、それほど悪いことのようには思えません。むしろ、盗み・殺人・姦淫などの方が重いことのように思われます。しかし、聖書が罪だと指摘していることは的を外すことなのです。

神に似せて創造された人間は、創造主なる神を礼拝することが本来の姿です。しかし、真の神へ向かわないで的を外すので、それが罪です。

的外れとは、創造主なる神から外れることです。偶像礼拝とは、まさに的外れの典型です。真の神へ向かうべき的を外して、偶像に的を定めるのですから、決定的なボタンの掛け違いです。第一ボタンを掛け違ったら残りのボタンは皆ずれます。途中で戻そうとしても直りません。最初に戻って、第一ボタンから正しく掛け直さなければなりません。

偶像礼拝の罪もこれと同じです。最初が間違っているのですから、その後はひたすら外れます。罪の加速度は増すばかりです。的が外れると、その先はさらに大きく外れるように、北イスラエルの王たちの悪も、ヤラベアムの悪から始まって時代を追うごとに増大して行ったのです。

悔い改めて、第一ボタンである「真の神への礼拝」に立ち返る他に道がありません。

キリスト教会の礼拝が一週のはじめの日曜日に持たれるのは意義深いことです。一週間のはじめの日を、礼拝をもってスタートするのです。第一ボタンをしっかりと掛けてから始めるわけです。礼拝を通して、的から外れてしまった軌道を修正するのです。的から外れてしまった心の目を、もう一度、イエス・キリストにフォーカスを合わせるのです。


列王記上 15章

2025年04月02日 | 列王紀
列王紀上15・4 それにもかかわらず、その神、主はダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた。

第15章からは、南ユダ王国の物語になります。南北に分裂後、両王国は混乱期を迎えるわけですが、それには、王たちの信仰態度が国のあり方に大きく影響しています。

北のヤラベアム(ヤロブアム)が神の御心に反する神殿や礼拝様式を導入したり、偶像礼拝を取り入れたため、北王国は霊的堕落を招きました。

片や南王国は、レハベアム王が主の目の前に悪を行ったと記されているように、彼は「高き所」「石の柱」「アシラ像」を建立しました。これはみな偶像礼拝の施設です(14・22~23)。そればかりか神殿男娼がいたと記されています(14・24)。神聖な場所で同性愛行為が行われていたというのですから、その堕落ぶりはひどいものです。

何ということでしょうか。神が「わが名を置く」と定められた町とその神殿で、こんな不品行と偶像礼拝がなされるとは。主なる神の悲しみと怒りはどれ程のものだったでしょう。

ここに興味深い記録があります。

レハベアムの母の名はナアマといってアンモン人であったと、わざわざ二度も記録されています(14・21~31)。彼の母は、偶像を礼拝する異邦人の女性だったのです。彼の父ソロモンは、多くの異邦人女性を妻にしたわけですが、その結果がこれです。

幼児期の養育に大きな影響を与えるのは母親です。多妻のソロモンでしたから、父親として影響力は少なかったと思われます。むしろ、偶像礼拝者の母の影響の下でレハベアムは幼児期を過ごしました。大きな罪は突然には生まれません。幼い時から、悪魔的な思考は刷り込まれていったのです。

さて、そのレハベアムの息子アビヤムが王になりました。彼も、その父親同様に神の前に悪を行ったと記されています。彼の場合にも、母親について記録されています。彼の母の名はマアカで、アブサロムの娘でした(15・2)

アブサロムとはダビデ王の三男で、ダビデに敵対してクーデターを起こした人物で、彼はその戦争で無惨な死を遂げました。その娘のマアカがアビヤムの母です。何か因縁めいた系図です。恨みや悲しみや怒りが込められたような家系です。

しかし、今日の御言は何と言っていますか。それにもかかわらずです。 ※新改訳は「しかし」だが、口語訳を参照。

それにも関わらず……とは、罪と過ちに満ちた家系にも関わらずです。神はアビヤムにひとつの灯火(ともしび)をお与えになったのです。その「ひとつの灯火」とは、アビヤムの息子「アサ」のことです。彼は南王国の希望の光となりました。

アビヤムの子アサは、王となるや、神殿男娼を追い出し、アシラ像などの偶像を撤去したのです。アサ王はさまざまな面で宗教改革を行った良王として聖書に記録されることになりました。

アサ王に対する神の評価は、アサはその父ダビデがしたように主の目にかなう事をした(15・11)と聖書は記しています。

そんなアサ王ですが、彼の母親について驚くべき事が記録されています。何と、アサの母親もアブサロムの娘マアカです(15・10)。聖書は淡々と事実を記録していますが、内容は実に忌まわしいことです。 ※アサ王と先代の王アビヤムは兄弟とも考えられるが、歴代志では、アサはアビヤム(アビヤ)の子であると明確に記録している(歴代上3・10、歴代下14・1)

アサの父アビヤムとアビヤムの母マアカとの間に生まれたのがアサです。アサは近親相姦の子です。忌まわしい罪によって生また子がアサでした。

出生の秘密を知ったアサは苦しんだことでしょう。しかし、今日の御言のように、それにも関わらずなのです。

なぜ、神はこのような忌まわしい家系にも関わらず、アサ王のような、主の目にかなう王を備えられたのでしょうか。その理由は、彼らの父祖ダビデのゆえだと聖書は教えています。

神がそこまで良くしてくださるのはダビデのためです。新改訳ではダビデに免じてです。ダビデが主に真実に仕えたおかげで、南王国の家系は哀れみを受け、恵みを受けることができたのです。

ダビデ以後の家系は堕落の一途をたどっていました。彼らが、神の恵みを受ける資格は何もありませんでした。滅ぼされても仕方のない者たちでした。

しかし、神は、ダビデに免じて、彼らに恵みを施されました。まさに、恵みとはこのことです。驚くべき恵みです。

良くしてもらう資格は何も無いにも関わらず、神はイエスの十字架の死に免じて、私たちの罪をゆるして救ってくださるのです。私たちには何の功績もありません。

ただ、イエスの恵みのゆえです。

神は、今でも、イエスに免じて、私たちをゆるしてくださいます。私たちがどんなにひどい罪人でも、このイエスを頼るなら、十字架につけられたイエスに免じて罪をゆるし、きよめてくださるのです。このイエスから離れてはならない。

列王記上 14章

2025年04月01日 | 列王紀
列王紀上14・6 なぜ、他人を装うのですか。

引き続き北王国の王ヤラベアムについて物語が記されています。彼の息子が病気になったのですが、その子のいやしのために祈ってもらうために、自分の妻を預言者アヒヤのもとに遣わしました。

その時、ヤラベアムは妻に、「立って姿を変え、ヤラベアムの妻であることの知られないようにしてシロへ行きなさい。…中略… 彼はこの子がどうなるかをあなたに告げるでしょう」と命じました(14・2~3)

なぜ他人を装う必要があったのでしょうか。ヤラベアムには少なからず神に対してうしろめたさがあったからでしょう。自分の欲しいままに振る舞ってきたヤラベアムですが、その成してきたことに対する罪責感がそうさせたのではないかと思います。

ありのままで神の御前に出られず逡巡(しゅんじゅん)する思いが、妻に他人を装わせたわけです。

しかし、神の目にはすべてが明らかです。預言者アヒヤは年老いて目がかすんでいたものの、神の事前の啓示によって、訪ねてくる女がヤラベアムの妻であることを見抜いていました。

そこで、預言者アヒヤは、なぜ、他人を装(よそ)うのですかと語りかけたのです。 ※新改訳は「なぜ、他の女のようなふりをしているのですか」。新共同訳は「なぜそのように変装したのか」。

私たちは罪をおかすと隠そうとします。これはアダムの時以来、罪人の性質です。

アダムとイブが善悪の知識の木の実を食べて罪をおかすと、ふたりはイチジクの葉で身を隠しました。そして、神の来られる足音を聞くや、彼らは園の木の間に身を隠しました。

さらに、罪を問われると、アダムはイブのせいにし、イブはヘビのせいにして言い逃れようとしました。つまり、言い逃れという「自己弁護」や「自己正義」で自分をおおって、罪を隠そうとします。

このように、罪人は自分を隠して他人を装うのです。しかし、そのような罪人に対して、神は、「なぜ、他人を装うのか」と語りかけられます。

あなたはいかがでしょうか。他人を装っていないでしょうか。装わずに、ありのままの姿で神の御前に出ているでしょうか。

ある人々は、「神は存在するのか否か」とか「人間は性善説か性悪説か」などといった宗教論を戦わせます。しかし、熱心に宗教論争することで神と出会えるわけではありません。「自分は罪人である」という、問題の核心に向き合わない限り、人は神と出会うことができません。

また、「あの人は愛がない」とか、「親が悪い」「社会が悪い」などと自分以外の問題を指摘して批判する人もいます。しかし、どんなに外側の悪を批判しても問題の解決には至りません。

自分の中にある、たったひとりの隣人さえ愛せない罪人の姿を正直に見つめるところに、問題解決の鍵があるのです。おのれの罪という核心部分を隠して、宗教論議や社会批判をしても、所詮は「他人を装っている」に過ぎません。

自分を装うことなく、罪人である自分の姿を認め、悔い改めをもってイエスの十字架の前に出るとき、私たちは恵みを得るのです。

しかし、ヤラベアムもその妻も、最後まで自分を装ったため、神の恵みを受けることができず、ついにヤラベアムの息子は死にました。

他人を装わずに……つまり、ありのままの姿で、罪人としての自分を認めて神の御前に出よう。それが恵みを受ける道です。


列王記上 13章

2025年03月31日 | 列王紀
列王紀上13・34 この事はヤラベアムの家の罪となって、ついにこれを地のおもてから断ち滅ぼすようになった。

ソロモン王の息子レハベアムは権威主義的な政策をとったため、それに反発したイスラエル10部族は分離独立し、エフライム部族のヤラベアム(ヤロブアム)を王に擁立しました。この時からイスラエルは南ユダと北イスラエルに分裂し、いわゆる「南北朝時代」に突入するわけです。

以後、ダビデ~ソロモン~レハベアムと続く南王国は、ユダ族出身の王によって統治されます。構成部族はユダ部族とベニヤミン部族で、南ユダ王国と呼ばれました。首都はエルサレムで、神殿はこの街に建てられていました。

かたや、ヤラベアムを擁立した10部族からなる王国は、北イスラエル王国と呼ばれ、首都はサマリヤでした。

南ユダ王国の権威主義的な政策に反対した北イスラエル王国は、その反動によって自由主義的な政策をとりました。それが顕著に現れたのが宗教政策でした。

人々の信仰の拠り所である神殿は南王国のエルサレムにあったため、北王国のヤラベアムは、民の宗教心をつなぎ止めるために、独自の神殿を建築し、独自の宗教様式を形成して行きました。

神殿がエルサレムに建てられたのは、そこを「わが名を置く町」と神が定められたからでした。しかし、ヤラベアムはそれに反して、自分に都合の良い神殿を建築しました(12・25~30)。

また、祭司職も律法によればレビ族出身でなければなりませんでしたが、ヤラベアムは一般の民を祭司に任命してこれに当たらせました。祭の日も、神が定めた7大祭とは別の祭を考案し、民衆の心をつかもうとしました(12・31~33)

権威主義の反動として現れるのがこのような自由主義です。現代のキリスト教会もこの両方の狭間で混乱しています。

権威を取り違えて、肉の力で支配することで教会を保とうとします。誤った権威主義です。この場合、肉なる支配力が教会をおおうので、聖霊の自由な働きが妨げられてしまいます。

一方、肉なる権威主義に傷ついた人々は、その反動で何でも自由にやろうとします。ヤラベアムが自分勝手な神殿や祭司職や祭を作り上げたように、主日の礼拝を軽んじたり、牧師職を軽んじたりするのですが、それも行き過ぎです。仕えることを基礎とする権威と秩序の回復……これが必要です。そのために祈らなければなりません。

さて、ヤラベアムが行ったわざは、神の目には罪となりました。

地元のベテルとダンに神殿を建てたので、わざわざエルサレムまで行かなくて済むので便利になりました。人々には好評でしたが、神の目には罪でした。便利さが、返って、真の神礼拝を妨害することを忘れてはなりません。

一般の民が祭司になれるようにしたことで、祭司職は身近になりましたが、祭司職としての使命観は薄れていきました。そのことで神殿祭儀は世俗化し、堕落しました。このことは神の目には罪でした。気軽さや妥協が、返って、真の神礼拝をゆがめることを忘れてはなりません。

ヤラベアムによって北イスラエル王国にもたらされた自由主義は、霊的混乱をまねき、ついには、真の神を礼拝すべき神殿で、異教の神々を祀(まつ)るようになったからです。

これらのことはヤラベアムの家の罪となったと、聖書は記しています。そして、彼の家系はこの地から絶やされることになるのです。

私たちは、このヤラベアムが行ったような自由主義の轍(わだち)を踏んではなりません。また逆に、南ユダ王国のレハベアムのように、権威主義の轍も踏んではなりません。

祈りましょう。主よ、仕えることによる真の権威を回復してください。私たちが仕えることによって、神の国の権威と秩序を回復することができますように。


列王記上 12章

2025年03月29日 | 列王紀
列王紀上12・7 彼らはレハベアムに言った、「もし、あなたが、きょう、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えるとき、ねんごろに語られるならば、彼らは永久にあなたのしもべとなるでしょう」。

ソロモン王の死後、その子のレハベアム(レハブアム)が王位につきました。ソロモン王の時代は、民に対して苦役や重税がのしかかっていたようで、新しい王の即位に際して、人々はその軽減を願って陳情にやってきました。

さあ、どうするのか。ソロモン王の路線を引き継ぐのか、それとも新しい路線へと転換するのか。

レハベアムは長老たちの意見を聞きました。その時の提言が今日の聖句です。

もし、あなたが、きょう、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えるとき、ねんごろに語られるならば、彼らは永久にあなたのしもべとなるでしょう。

王に対して、「民のしもべとなって仕えるなら……」と進言しています。とても大胆ですばらしい提案でした。偉くなりたい者は仕える者になりなさいと言われたキリストの言葉を思い起こさせます。

しかし、レハベアム王はこの進言を受け入れず、同世代の友人たちの意見に従い、父ソロモン以上に厳しい支配体制を押し進めることにしたのです。

いったい権威とは何なのでしょうか。力ずくで民を支配することが権威ではありません。なのに、王をはじめ上に立つ多くの人々が勘違いしています。

仕えることが権威の源泉です。

イエス様は権威について次のように語られました。長くなりますが引用します。

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。

かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、しもべとならねばならない。

それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」(マタイ20・25~28)

私たちはイエス様が権威あるお方であることを認め、主こそが神の御国の王にふさわしいお方であることを認めるのは、イエス様が十字架の死に至るまでも私たちに仕えてくださったからです。

地上の世界では、悪魔によって権威がゆがめられています。力ずくで支配することが権威であるかのごとく誤解されています。どうか、正しい権威が回復されますように……。正しい権威のあるところに秩序も回復するのです。

神の国の権威は、仕えることによって成り立ちます。まずはじめに、王であるイエス・キリストが仕えてくださいました。そのイエスこそが神であると認め、権威を認め、私たちも仕えます。こうして、神の国の秩序は仕える者たちによって成り立って行きます。

列王記上 11章

2025年03月28日 | 列王紀
列王紀上11・4 ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。

第11章はソロモン王の晩年の様子です。あれだけ知恵に満ちた王であったはずですのに、彼の心は神から離れてしまいました。

失敗が悪いわけではありません。いいえ、失敗のない人などひとりもいません。大切なことは失敗したとき、悔い改めて神に立ち返ることができるかどうかです。

ソロモンの父ダビデは失敗の多い人でした。しかし、ダビデのすばらしいところは、彼の政治手腕でもなく、軍人としての戦術能力でもありませんでした。失敗しても、幼な子のように悔い改めて神に立ち返る人であったことです。

しかし、ソロモンは、父ダビデのように神に対して真実ではありませんでした。つまり、あやまちを悔い改めて神に立ち返る素直さに関しては、父ダビデのようではありませんでした。

新改訳ではこの箇所を、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全くひとつになっていなかったと訳しています(新共同訳も同じ)主とひとつになるとはどういうことでしょうか。それは、主なる神と同じ心になるという意味です。

神は、もともと人間を「神に似せて、神のかたちに創造なさった」のです。しかし、アダム以来、罪が人類に入り込んでしまい、その似姿はゆがめられ、こわされてきました。

知恵に満ちたすばらしいソロモンではありましたが、主と同じ心になることができませんでした。その原因は、アダムの場合と同様に罪の成せる業です。

今日の聖句にも記されているように、ソロモンがめとった妻たちによって、彼の心は他の神々に向いてしまったのです。

そもそも、ソロモンが多くの妻をめとったことに問題がありました。王の後継者を確実に得るために、一夫多妻制度は当時の王たちにはよく見られたことですが、神の国の方法は違います。

また、同盟関係を保つために他国から妻をめとることも当時の常套手段でしたが、神の国の方法ではありませんでした。他国からめとった妻によって、他国の偶像礼拝を持ち込むことになりました。妻たちによってソロモンの心が他の神々に向けられたのは、そのためでした。

他の神々――それは「神」とは呼ばれているが偽りの神――に心が向くとき、人は主なる神と心をひとつにはできません。夫婦以外の異性と関係があるなら、夫と妻が心をひとつにできないのと同じです。

私たちの心がイエス様とひとつになれないとすれば、その原因は何でしょうか。イエス様以外に、神のように慕っているものがあるからです。

神と富と両方を主人にすることはできません。一方を尊びもう一方を疎(うと)んじるからですと、主イエスが言われたとおりです。お金を神のように慕っていると、お金を基準とした心が養われて、その心はイエスとひとつにはなれません。地上における地位とか名誉を神のように慕い崇拝しているなら、その人の心はイエスとひとつになれません。

それらは大切ですが、主人とすべき存在ではありません。私たちが主人とするのは主イエス・キリストだけです。それらは大切ですが、決して礼拝の対象ではありません。私たちが礼拝すべきはイエス・キリストだけです。

何故、神は偶像礼拝を禁じておられるのでしょうか。それは、私たちが神と心をひとつになることを妨害するからです。

祈りましょう。私たちの心が、イエス様の心とひとつとなることができますように。具体的には、私たちの心が、神の御言に似た心になることです。主よ、御言の通り、私の身に実現しますように……。


列王記上 10章

2025年03月27日 | 列王紀
列王紀上10・23~24 このようにソロモン王は富も知恵も、地のすべての王にまさっていたので、全地の人々は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。

第10章には、シバの女王がソロモン王の名声を聞きつけ謁見(えっけん)したことが記されていますが、シバの女王をはじめとする各国の王たちは、ソロモンの富と知恵を求めて訪れました。

栄華をきわめたソロモンと称されるように、イスラエル史上最高の時代を迎えていました。

さて、ソロモン王の収入は1年間に金666タラントと記されていますが(10・14)、金(きん)22・7トンに相当します。計算すれば……どうですか。すごい金額です。※金1㎎5千円で計算して1トンで50億円。かける22・7トンですから、1千135億円の年収。

彼の時代には、種々の器具や細工はみな金製であったため、銀は顧みられなかったとも記されているほど、あふれんばかりの富でした(10・21)

これは、神の栄光で富む天国の予型です。真の栄光と富は天にあります。ソロモンとその王国は、神の御国の栄光を表すために、ほんのわずか用いられただけです。 ※「666タラント」との表記は不完全な富を表す。

ですから、やがてその栄華は衰退して行きます。ソロモンの死後、王国は分裂し、衰退の道をたどるのですが、すでに、ソロモン王の時代にその萌芽は出はじめていました。

ソロモンは富においても知恵においても最高の領域に到達した人です。しかしその結果、ソロモンが得た結論は何だったでしょうか。彼は「伝道の書」でこう記しています。

伝道者は言う、空(くう)の空(くう)、空の空、いっさいは空である。(伝道1・2)

私は酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。(同2・3)

私はわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。(同2・11)

栄華をきわめたソロモンは、知恵と富におぼれて空(むな)しさを覚えていたのです。

人は、多くを得ようと熱心になり、多くを持とうと貪(むさぼ)中で、神を主人とする生き方から、富を主人とする道へと踏みはずし、空しさによって身を震わすことになります。

空しいとは、文字のごとく「空(から)っぽ」です。地上の富で満たされているようだが、それは空っぽです。地位や名誉を得ても、実際は空(から)っぽであれば、それは空(むな)しいのです。

大切なことは、得ることではなく、用いることであり、持つことではなく、正しく管理することです。用いる知恵、管理する知恵を神に祈り求めよう。


列王記上 9章

2025年03月26日 | 列王紀
列王紀上9・6~7 あなた方、またはあなた方の子孫が背いてわたしに従わず、わたしがあなた方の前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。

すでに、宮(神殿)とは天の模型だと申し上げました。それは、天において私たちが神と共に住まう至福を教えるための模型です。

天では、真の神への礼拝が標準です。天で他の神々といわれる偽りの神が礼拝されるなどあり得ないことです。真の神との親しい交わりのあるところ。そこが神殿です。そこに、他の神々を迎え入れる余地は1ミリたりともありません。神への最大の罪は、神以外のものを神とすることです。これが偶像礼拝です。

ヨハネの黙示録に記された神の御怒りは、何に対する怒りですか。それは、神ならぬものを神とする偶像礼拝者と、その背後にあって、自らを神とするサタンに対する御怒りではありませんか。このように、神との真実な交わりを破壊するもの……それが偶像礼拝なのです。

偶像礼拝を神殿に持ち込んではならない。それを持ち込むなら、イスラエルの民をこの地上から滅ぼすと、今日の御言は述べています。たとえ高価で荘厳な装飾をほどこした神殿であっても、神は惜しげもなく、それを投げ捨てると言われました。

残念なことに、後の時代になると人々は神殿に偶像を持ち込み神殿を汚しました。そこで、神は、バビロン軍を用いて神殿とその民イスラエルを滅ぼしてしまわれました。

この列王紀は、そのバビロンの捕囚から帰還した民のために記された書物です。同じ轍(わだち)を踏むことのないようにと、過去の失敗を書き記した書物です。

そのことは、新約のクリスチャンに対する警告でもあります。神の血であがない、きよめられた自分自身を汚してはなりません。不品行や偶像礼拝によって、自らの身を汚してはなりません。なぜなら、私たちは神の神殿だからです。

もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。(Ⅰコリント3・17)

神の宮(神殿)とされた自分自身を破壊するようなことをしてはなりません。

男女関係においてきよさを保ってください。お酒やタバコで自分の身を汚さないでください。みだらな交わりや会話によって心を汚してはなりません。また、自己卑下によって自分自身をおとしめることも、神の宮を汚すことです。

悔い改めて、自身を神の神殿として保つことができますように。

列王記上 8章

2025年03月25日 | 列王紀
列王紀上8・27 神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。まして私の建てたこの宮はなおさらです。

7年の歳月を経てエルサレムに神殿が完成しました。第8章は、神殿を神に奉献する様子が記されています。冒頭の御言は、奉献にあたってソロモンがささげた祈りです。

ソロモンは、天来の知恵によって、この神殿に神が直接住まわれるのではないことを悟っていました。神は偉大な方です。だから、天もいと高き天も神をお入れすることはできないと祈りました。 ※「いと高き天」は新改訳では「天の天」と翻訳。

とは、空(sky)とか宇宙空間(space)のことです。宇宙がどれほど広大な空間でしょうか。宇宙の端から端まで光の速度で137億年以上を要すると言われています。しかし、そんな広大な宇宙にもお入れすることができないほど神は偉大なお方です。

次のいと高き天とは、霊界の天(Heaven)のことです。宇宙がいかに広大であっても有限の世界です。しかし、霊界の天はもっと広大です。といっても、物質界のSpaceと霊界のHeavenを物理的な基準で比較することはできません。次元が異なるからです。そのようなHeaven(天)にも入れることができないほど、神は偉大なお方です。

そこで疑問が生じます。神は天にお住みではないのですか。「天にましますわれらの父よ」と祈るではありませんか。

正確には、神は、ご自分の住む場所として天を創造なさったのではありません。住む場所がなければ、存在できないような神ではありません。

逆に、住む場所が必要なのであれば、それはもはや神ではありません。神は〝自存者〟なるお方です。自ら存在なさる神です。

かつてモーセに対して、神は「わたしは〝あってある者〟」とご自分を証しされました。英語では「I am who I am」というお方です。わたしは〝ある〟という者だと宣言なさっています

ですから、神はご自分の住む場所を用意するために天(Heaven)を創造なさったわけではありません。神は、ご自身の栄光を表現なさるために、天とその中の万物を創造なさったのです。

芸術家が作品を通して自分を表現するように、神は、ご自分の栄光とか聖なることとか、また愛とか義であることなどを表すために万物を創造なさいました。そして、その主役にご自分の御子なるイエス・キリストをお立てになったわけです。

だからこう記されています。

万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。コロサイ1・16)

その御子であるイエス・キリストが天を治められるにあたり、私たち人間も、この御子と共にその栄光ある務めにあずかるようにと、神は人間をお定めになりました。

この天がいかに栄光に富んだ所であるか……今の私たちの想像をはるかに超えるものに違いありません。そんな、天の情景を表すために、神は地上に天の模型である神殿を建てるようになさいました。神殿は天の模型です(ヘブル8・5)

天がいかに栄光に富んだ場所であるかを、神殿は表しています。天で、神が人類と共に住まわれることの祝福がいかにすばらしいものであるかを、神殿は表現しています。

このようなわけで、ソロモンが奉献した神殿は、天における御心が完成するまでの暫定的なものです。ましてや、その天の模型である神殿に、神をおいれすることなどできません。

そこで、神殿には神の御名が置かれました。神の御名が置かれた所……それは、神がおられるのと同じ意味をなします。

私たちがイエスの御名によって集まるとき、そこにイエスが共におられると約束されたように、神の御名があるところに、神が共におられるのです。

ですから、神の御名が置かれた神殿に神は共におられて、昼も夜も目をそそぎ、耳を傾けておられます。だから、こう記されています。

わたしはあなたが建てたこの宮(神殿)を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く。わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう。(列王上9・3)

ある日、私は病院の待合室で読書しながら、自分の名が呼ばれるのを待っていました。他の人の名が呼ばれても気にもせず読んでいましたが、自分の名が呼ばれるとすぐに反応しました。このように、自分の名に、耳も目もそそがれています。

同じように、神はご自分の名のあるところに全神経を集中なさっているのです。自分の名が置かれている神殿に、日夜、目をそそぎ、四六時中、耳を傾けておられます。

ですから、私たちが神の御名によって祈るとき、神はその祈りを全神経を注いで聞いてくださるのです。私たちがイエスの御名によって行動をおこすとき、神は共におられて最大限の関心をもって見守り、ご自身の栄光を表してくださるのです。

新約の時代に、神の名は神の御子を通して表されました。その御名は「イエス」です。

あなたはイエスの御名を受けておられますか。イエスを信じるとは、イエスの御名を受けることです。イエスという神の御名を受けた人は、その人自身が神殿です。イエスの御名によって集まる教会、そこが神殿です。イエスの御名が置かれているところに神がおられるのです。

イエスの御名を讃美します。神が共におられて、私たちと親しく住まわれる栄誉を感謝します。


列王記上 7章

2025年03月24日 | 列王紀
列王紀上7・1 またソロモンは自分の家を建てたが、十三年かかってその家を全部建て終った。

さて、第7章では、ソロモンが自分のための家(王の宮殿)を建設したことが記されています。神のための神殿に7年の歳月を費やしたわけですが、自分の家のためには13年を費やしました。

自分のためには、神のこと以上に時間も資金も費やすソロモンの姿から教訓を学ばなければなりません。ソロモンは、決して不信仰な人ではありませんでした。歴代の王たちの中で、彼ほど知恵に富み、平和をもたらした王は他にいません。

しかし、神を第一とする姿勢から離れつつありました。チョットしたほころびから、やぶれはひどくなるものです。

この王宮建築で、ソロモンは彼がめとったパロの娘たちのための家も建てています。このことが、やがて王国の禍根(かこん)なります。禍根とは、読んで字のごとく禍(わざわい)の根です。

彼は、エジプトの王パロ(ファラオ)の娘を娶(めと)りました。政略結婚です。隣国の大国エジプトと同盟を結ぶことで、小国イスラエルの安泰をはかったわけです。当時の世界ではよくなされたことですが、神の国の方法ではありません。

一般的には当たり前の政策であり、後のイスラエルにおける安全保障政策の屋台骨になって行きます。しかし、このことで、神を信頼するより、目に見える大国のご機嫌を伺う民へと変質してしまいます。

最初から大きな罪を犯す人はいません。こんな小さなほころびが、やがてイスラエルの国を引き裂き、滅亡へと導くのです。小さな罪の恐ろしさは、その罪がいつまでも小さいままではないことです。

雑草は小さい内なら根からゴッソリと抜くことができますが、大きくなって根が張ってしまうと、抜いたつもりでも根が残っています。すると、その根から、また出てきます。

罪もこの雑草に似ています。根を残して〝禍根〟としないためにも、小さな内に根から抜いてしまう人は幸いです。


列王記上 6章

2025年03月22日 | 列王紀
列王紀上6・7 宮は建てる時に、石切場で切り整えた石をもって造ったので……。

今日の聖句は、神殿建設の材料になる石材は、あらかじめ切り整えられたので、建築中には槌(つち)などの工具の音がしなかった……と述べられている箇所ですが、前半の「石材が切り整えられた」ことに着目しようと思います。

先の5章では、旧約時代の神殿は石材で建設されたが、新約における神殿は、イエス・キリストを信じた者たちによって構成されるキリストの体であることを見ました。つまり、私たち自身が、神殿の〝材質〟です。神殿の各所の石材となって組み合わされて行くわけです(Ⅰペテロ2・5~6)

そのような石材の最も重要な箇所……つまり、隅(すみ)のかしら石がイエス・キリストです。人々からは無用な石として捨てられるようにして十字架で死なれたイエス様が、実は神殿の重要なかしら石となってくださったわけです。

私たちも、このかしら石であるイエスを中心に、神殿の〝生ける石〟となって組み上げられて行きます。その際、神は、石材である私たちを〝切り整えられる〟のです。

イエスを信じる以前の私は、岩山の中で埋もれていました。そんな私を見出してくださり、救ってくださいました。

救われた頃の私は、山から切り出されたままの無骨な岩でした。それを神殿にふさわしい材質へと、神は切り整えられます。私の生来の肉の性質を砕くことによって、神は私を切り整えられます。

私たちは、神の取り扱いを通して〝切り整えられる〟という経験をだれもがします。ある人は苦手な人間関係の中で取り扱われます。また、ある人は、仕事上の失敗を通して、また、ある人は病気や怪我を通して取り扱われます。

つらく厳しい現実を通して切り整えられた者は、神の神殿を建て上げるための栄誉を受けるのです。すべては神殿の完成を目指して進んでいます。霊と真とをもって礼拝する者たちによる世界の完成に向かっています。

あのフィラデルフィアの教会に対する預言を思い出してください。勝利を得る者を、私の神殿の柱としよう黙3・12)と約束なさったではありませんか。何という光栄でしょうか。神による今の取り扱いを感謝しよう。苦難の中にも恵みを発見しよう。
 

列王記上 5章

2025年03月21日 | 列王紀
列王紀上5・5 わが神、主の名のために宮神殿を建てようと思います。

いよいよソロモン王は神殿建設に着手しました。父ダビデ王が建設しようとしたのですが、その使命は子のソロモンに託されました。神も、「あなたの身から出る子が神殿を建てる」と預言なさったとおりです。

神が、人と共に永遠に住まう場所を用意する……このテーマは、聖書全体をつらぬくご計画です。

ダビデの子であるソロモンが神殿を建てましたが、それは、父なる神の御子であるイエスが、真の神殿を建てることの「預言」でもあります。

イエス様は、物質で造られた神殿に対して、「これをこわしたら、わたしはそれを三日目に建てる」と言われましたが、それはイエス・キリストご自身の体のことでした(ヨハネ2・19~21)

神は、このイエス・キリストの体の中で、神と共に永遠に住まう場所を用意なさったのです。そのご計画をふまえながら、ソロモンによる神殿建設を見て行くとき、示唆に富んだ教えを学ぶことができます。

さて、ソロモンは王国の中心が神殿であることを確信していました。政治的手腕によってでもなく、軍事力によってでもなく、神殿を中心に神の国は建て上げられて行きます。

私たちは、主の祈りの中で「御国が来ますように」と祈ります。その御国の中心は神殿です。つまり、神への礼拝が中心です。中心である礼拝が疎(おろそ)かになるとき、神の国は立ち行かなくなります。

「列王紀」と「歴代志」には、神殿における神礼拝の重要性が説かれています。両書物は、イスラエル王国およびユダ王国が滅んで、バビロン捕囚から帰還した民が国を再建するにあたって記された書物です。

そして、何故かつての王国は滅んだのか。その原因は神殿を汚したからだ ――すなわち神への礼拝を軽んじたからだ―― と教えているのです。

「御国が来ますように」と祈る私たちは、霊と真によって礼拝する神殿を建て上げます。何故なら、御国はそのような礼拝者の国だからです。

最後にもうひとつ。ソロモンによる神殿建設にツロの王ヒラムの協力があったと記録されています。

こうしてソロモンの建築者と、ヒラムの建築者およびゲバルびとは石を切り、材木と石とを宮を建てるために備えたのです(5・18)

イスラエル人だけで建設されたのではありませんでした。異邦人の王とその人々が共に協力して建設されました。

それは、やがて新約の神殿である教会が、ユダヤ人と異邦人という「隔ての中垣」を取り壊して、主にある「新しい人」となって建て上げられる様子を預言するかのような出来事でした(エペソ2・13~15)

様々な違いを乗り越えて、イエスにある新しい人として、神の住まわれる、神の御名が置かれる神殿を建て上げるために、私たちは召されているのです。
 

列王記上 4章

2025年03月20日 | 列王紀
列王紀上4・29 神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。

先に、神はソロモンに天来の「知恵」をお与えになったことを見ました。今日の聖句では、海辺の砂原のような広い心を授けられたと記していますが、その広い心の中身を探ることにしましょう。

(1)違いを認めることのできる心

イスラエルの王国は12部族から成り立っていました。同じ神を信じてはいますが、考え方や性格は様々です。そんな違いを認めながらも、ひとつの国としてまとめて行くには、違いを認める心が必要でした。

新約における「キリストの体」としての教会も同じです。身体の各器官(肢体)はみな違います。異なる器官が組み合わさっているのが体です。神が、教会を身体にたとえられたのは意義深いことです。私たちの身体は実に不思議です。各器官のはたす機能がまったく違うにもかかわらず、ひとつの体として一致して機能しているのです。

それを、可能にするのは、ソロモンが与えられたような「海辺の砂原のような広い心」です。

とはいえ、何もかも妥協してしまうことではありません。

私たちの身体には免疫があって、外部からの侵入者から身を守るために抵抗します。そのように、教会の交わりにも免疫力がなければなりません。

イスラエルの王国が、創造主なる神の御名のもとにひとつとなったように、キリストの身体の教会も、主イエス・キリストを礼拝するために構成されます。

この成り立ちを破壊する外部からのウイルスに対して戦います。私たちの礼拝を破壊するような人物、思想、価値観などに対しては、免疫力が働かなければなりません。

(2)忍耐できる心

ソロモンは統一王国をもたらしたものの、各部族の違いや権力争いは燻(くすぶ)っていました。でも、そんなもめごとも、やがて神の御名のもとにひとつとされることを信じて忍耐する心です。

残念ながら、ソロモンによる王国は未完で終わってしまいました。やがてキリストによって建て上げられる王国の栄華のほんの一部を、ソロモン王によって垣間見たに過ぎませんでした。

新約の私たちも、御国の完成を目指しての途上です。各自の「違い」がそれを妨げる要因になっていたとしても、御霊によってひとつとされる時が来ることを忍耐する心が求められます。

教理によってひとつになろうというのではありません。それでは延々と神学論争が続くだけです。趣味や好みでひとつになるのでもありません。御霊によってひとつになります。

神から生まれたものは、同じ神からの御霊を受けているので、それができるはずです。御霊に従順する心でひとつとなることができますように。その時に至るまで忍耐する心で待ちます。


列王記上 3章

2025年03月19日 | 列王紀
列王紀上3・5 ギベオンで主は夜の夢にソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。

あなただったら何を求めますか。地上の富ですか。それとも世の成功に至る能力とか技術でしょうか。また、肉体の健康を求める人もいます。何を求めるかは、その人の価値観で決まります。

イエスを訪ねた金持ちの青年は、「永遠のいのちを得るには何をすればよいですか」と質問しました。彼は永遠のいのちを求めたわけです。

しかし、自分の財産を放棄せよというイエスの教えにつまずき、悲しみながら去って行きました。ということは、この青年の価値観は、結局は地上の富だったわけです。

たとえば、有名なキリスト教の牧師を招いて、「永遠のいのちを得るために」と題して教会でセミナーを開いたとしましょう。

ところが、同じ日時にお隣の公民館では ――私たちの教会の前には公民館がある―― 「お金持ちになるための七つの法則」といった題で、著名な経済アナリストを講師に招いて講演会が開かれたら、どちらに多く集まるでしょうか。

言わずとしれたことです。人々の考えは地上のことが最優先です。

だからこそ、物事の本質を見抜く目が必要です。それを判断する知恵が必要です。ソロモンは地上の富でもなく、長寿でもなく、権力や武力でもなく、自分が王として治めるための知恵を求めました。

そこで主は次のように語られました。長くなりますが引用します。

「そこで神は彼に言われた、『あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。

わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう
』」
(3・11~13)


どんなに豊かな富を得たとしても、それを活かす知恵がなければ、人は富によって滅びます。どんなにすばらしい環境を手にしたとしても、環境がその人を幸せにするのではなく、それを活かす知恵です。

私たちには、地上で養った知恵がありますが、それは偏(かたよ)った知恵です。神を認めない、人間中心の知恵です。だから、私たちの古い考えが一新されて、神からの知恵を求める必要があります。

聖書はこう勧めています。

「あなた方は、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」ローマ12・2)

古い考え方は葬られ、御言が私の考えや知恵となって、私たちの心は一新されて行きます。こうして心を新たにすることで、何が神の御旨であるかを知る知恵を得ます。何が善であり、神に喜ばれることかを知る知恵を得ます。

祈りましょう。主よ、あなたの御言が私の考えとなるようにしてください。あなたの御言が、私の知恵となるようにしてください。