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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

列王記下 10章

2025年04月29日 | 列王紀
列王紀下10・28~29 エヒウはイスラエルのうちからバアルを一掃した。しかしエヒウはイスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムの罪、すなわちベテルとダンにある金の子牛に仕えることをやめなかった。

アハブ王家の罪に対する神の激しい御怒りは、エヒウ(エフー)によって下されました。アハブ王家とイゼベルの影響を排除すべく、アハブ一族と関係者、そしてバアル礼拝者すべてを滅ぼしました。

何と激しい改革でしょうか。エヒウがいかに主なる神に忠実であったかを物語っています。

しかし、そんなエヒウですが、イスラエルに罪を犯させたネバテの子〝ヤラベアムの罪〟、すなわちベテルとダンにある金の子牛に仕えることをやめなかったのです。

ヤラベアムの罪……何度も出てきます。

ヤラベアムは北イスラエルの初代の王です。彼は、南ユダにあるエルサレム神殿に対抗して、ベテルとダンに神殿を建築し、人々の宗教心を北イスラエルに引き留めようとしました。

主なる神への礼拝という点では由とされることなのでしょうが、神殿に金の子牛を安置した点で禍根を残したのです。禍根……まさに禍(わざわい)の根です。雑草を抜いても根が残っていると、また出てくるように、「ヤラベアムの罪」はイスラエルを苦しめました。

この根っ子が残っている限り、イスラエルはいつも偶像礼拝の誘惑を残していました。エヒウほどの改革者でも、この禍根を抜かないでは真の礼拝者になり得なかったのです。

人は弱いもので、神は見えないお方であると分かっていても、シンボル的な存在があれば、それを拝みたくなるのです。ですから、金の子牛は神ではない、神を象徴するものだ……と説明しても、やがてそれが偶像になってしまい、他の偶像を導入する足掛かりになります。 ※カトリック教会のマリヤ像も、神として拝んでいるのではないと説明するが、やがてそれも偶像礼拝の対象になってしまう。

金の子牛。それは、純粋な信仰に混ぜ物をすることです。新約の時代の私たちにも、この〝金の子牛〟という名の混ぜ物を入れて、純粋な福音を濁らせていないだろうか。

ガラテヤ教会は福音に混ぜものをしました。イエスを信じることで救われるという純粋な福音に、律法を守って割礼を受けることとで、目に見える救いのしるしになるのだと教えました。

信じることによって救われるというだけでは何となく物足りなくて、割礼という目に見えるしるしが魅力的だったのです。でも、これは新約における〝金の子牛〟です。

私たちの内にそのような金の子牛が混ざっていないだろうか。祈りましょう。主よ、私の内にある金の子牛を打ち壊すことができるようにしてください。


列王記下 9章

2025年04月28日 | 列王紀
列王紀下9・22 ヨラムはエヒウを見ていった、エヒフよ、平安ですか」。エヒフは答えた、「あなたの母イゼベルの姦淫と魔術が、こんなに多いのに、どうして平安であり得ましょうか

ここに登場するヨラム王は、北イスラエルのヨラムです。北王国ではアハブの死後、息子のアハジヤとヨラムが王となるのですが、イゼベルは王母の立場を利用してイスラエルを実質的に支配していました。

そのため、偶像礼拝は激しさを増すばかりで、霊的堕落と悪政が続いていました。そこでついに神は、新しい王を任命し、積もり積もった悪を一掃しようとなさいました。

新しい王として任命されたのがエヒウで、彼はイスラエルの将軍でした。 ※エヒウは新改訳では「エフー」、新共同訳では「イエフ」。

当時の王の任命は「油を注ぐ」という方法で成されましたが、この時は、預言者エリシャの弟子が、エヒウの所に出かけて行き、油を注ぎ、こう預言しました。

わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。あなたは主君アハブの家を撃ち滅ぼさなければならない。それによってわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血と、主のすべてのしもべたちの血をイゼベルに報いる。(9・6~7)

こうして、ついに神は、エヒウを用いて、アハブ王家とイゼベルに鉄槌(てっつい)を下されたのです。

神は、罪と悪を放置なさっているかのように思える時があります。決してそのようなことはありません。神は、人々が悔い改めにいたるようにと忍耐しておられるのです。しかし、永遠に待っておられるのではありません。時が来れば必ず報われます。

神は必ずお報いになるお方です。悪に対しては刑罰をもって報い、善に対しては祝福をもって報われます。このことを忘れてはなりません。

悪に対して〝神が〟報われるのに、それを待ち切れなくて、〝自分が〟報いようとして失敗します。他者をさばいたり、復讐して神の領域を侵してしまいます。

善に対しても〝神が〟報いて、そのほうびをくださるのに、それを待ち切れなくて、〝人から〟ほめてもらおうとして自己誇示をして失敗します。こうして、地上で報いを受けてしまうため、天で受けるはずの本物の報いを失います。

神の報いを待ち望む人は幸いです。

イスラエルの王として任命されたエヒウは、かねてから王ヨラムとイゼベルの悪政に対して心を痛めていた人物だったのでしょう。しかし、自分の思いで報復することを由とせず、神の御心を求めていたのだと思います。

だから、エヒウが蜂起(ほうき)してヨラムの前に立ったとき、彼は、あなたの母イゼベルの姦淫と魔術とが、こんなに多いのに、どうして平安でありえましょうかと訴えるようにして叫びました。

彼の訴えは、アハブ王家とイゼベルの成してきた悪に心を痛めていたすべての民の声です。

今の時代も、北イスラエルのように、罪と悪がはげしさを増す時代です。次々と報道される事件で、心を痛めない日はありません。だからこそ祈りましょう。この悪の世に、神の正義が行われますように……。主よ、神の国と神の義を、この地上にもたらしてください……と。

主イエスは、正しいさばきが成されるように祈り求めよと教えられました。そして、こう言われました。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか(ルカ18・7)


列王記下 8章

2025年04月26日 | 列王紀
列王紀下8・19 主は、しもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである。

南のユダ王国に話題を移すことにしましょう。南ではアサの子ヨシャパテが王として治めていました。神殿改革をしたアサ王に引き続き、ヨシャパテも主の目の前に正しい王でした。

かねてからヨシャパテは、北イスラエルと親しい関係にありました。険悪な南北関係を和らげるために協調路線をとりました。ですから、アハブとヨラムと二世代にわたって連合軍を派兵するなど、その親密ぶりが記されています。 ※南北に分断された朝鮮半島で、韓国は敵対的な「北風政策」と隔和的な「太陽政策」の2つの政策の間でゆれているのに似ている。

私見ですが、ヨシャパテは南北統一を目論(もくろ)んでいたのではないかと思います。

実は、ヨシャパテは自分の息子にヨラムと名付けましたが、北イスラエルの王ヨラムと同じ名です。同じ名を付けるには、それなりの親しみがあってのことです。単なる偶然とは思えません。

また、ヨシャパテは、息子ヨラムの妻に北王国のヨラムの妹を迎えました。彼女の名は「アタリヤ」ですが、彼女はあのアハブとバアル礼拝をイスラエルに持ち込んだイゼベルとの間に生まれた娘です。

そのアタリヤとの間に生まれた王子はアハジヤと命名され、その名はアハブ王の第一王子の名と同名です(この時点でアハジヤは逝去している)。なぜ、ここまでアハブ王家の名を継ぐ必要があるでしょうか。

この一連の融和政策は安全保障上の最善策と判断したのでしょう。しかし、政治的な一致だけではなく、霊的な一致によらなければなりません。形だけの一致ではなく、信仰の一致によらなけばなりません。

実はアハブの娘アタリヤを王妃に迎えたことは、南ユダ王国にとって大きな罠となりました。やがて、このアタリヤが南ユダ王国を大変な窮地 ――王家の抹殺計画―― へと追いやるのですが、第11章にその事件は記されています。

さて、アタリヤを妻とした南のヨラム王は、主の目の前に悪を行いました。名はアタリヤですが、妻としては〝ハズレ〟でした。

聖書はこう記しています。「彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである」(8・18)

でも、話はここで終わりません。神の恵みはこんなことでは終わらないのです。

恵みとは「それにも関わらずの世界」です。主はしもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである(8・19)

人間は、まことにお恥ずかしいことに、不誠実の限りをつくしてしまいますが、神は真実なお方です。神は誠実をつくされるお方です。神は、契約の故にユダを滅ぼすことを好まれません。

今やイエス・キリストによる新しい契約を受けている私たちにも、神のこの真実は施されています。

たとい、私たちは不真実であっても、イエス・キリストは常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである。(Ⅱテモテ2・13)

このようなイエス・キリストの真実をいいことに、私たちが不真実をむさぼるわけには行きません。祈りましょう。主イエスよ。私もあなたへ真実をもって応えることができるように導いてください。


列王記下 7章

2025年04月25日 | 列王紀
列王紀下7・9 我々のしている事はよくない。今日は良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、我々は罰をこうむるであろう。さあ、我々は行って王の家族に告げよう。

スリヤ(アラム)軍の攻撃は激しさを増してきました。ついに、スリヤの王ベネハダデは全軍を率いて首都サマリヤを完全包囲。持久戦に持ち込み、兵糧攻めにする作戦です。

この攻撃によってサマリヤ市民は食糧難におちいり物価は高騰しました。ロバの頭 ――食べられる部位がほとんどない―― が銀80シケル。鳩の糞 ――燃料に使う―― が銀5シケル。とうとう人肉まで喰らう困窮ぶりが記されています(6章)

この時のイスラエルの王はアハブの子のヨラムです。

困難な状況は悔い改めるチャンスです。神に立ち返るチャンスです。苦しい中にも神が用意した「のがれの道」です。しかし、心の頑(かたく)なな人は悔い改めるどころか、逆に神にますます敵対します。

神が憎ければその預言者も憎しで、ヨラム王はエリシャを捕縛しようとやって来たのですが、エリシャは次のように預言します。明日の今ごろサマリヤの門で、麦粉1セアを1シケルで売り、大麦2セアを1シケルで売るようになるであろう(7・1)と。

物価高騰のとき、そんな安価で食糧が売られるなど、全く不可能な話です。

しかし、神はご自分の言を実現すべく、まずスリヤ軍を追い払われました。主は彼らに軍馬や戦車などの大軍が攻めくだる大音響を聞かせられました。大軍の奇襲攻撃と勘違いしたスリヤ軍は命からがら逃げ去ったのです。

そのため、スリヤ軍が陣営に残した食糧や家畜、武器などがイスラエルの手に入り、物価は落ち着き、主の御言の通りになりました。

神は何と忍耐深いお方なのでしょう。不信仰なイスラエルに対して、このような恵みをもって応えられるとは。主の忍耐といつくしみ深さを前に脱帽です。

偶像礼拝に溺れるイスラエルの王たちの歴史。悔い改めよと、何度も差し伸べられる神の御手を振るい払う反抗的な王たち。神様いっそのこと滅ぼしてしまわれたら良いのにと思うでしょう。でも、神は、なおも恵みをほどこし、悔い改めよと救いの手を差し伸べておられます。

この神の忍耐を思う時、黙示録に預言されている、最後に下される滅びについて、「神は愛なのにひどいではないですか」と批判するのが愚かに思われます。「神が愛であればどうして」と抗議する私の義など、神の圧倒的な義の前には貧相で小さなものです。神が、恵みをお与えになっている今日という日に、悔い改めて救いを得るべきです。

さて、そのようにしてスリア軍が逃げ去った後を最初に物色したのは、4人のツァラアト患者たちでした。サマリヤ市民でさえも飢えていたのですから、彼らはそれ以上です。ですから、戦利品を前に彼らは無我夢中で食べました。

でも、ふと我に返って語った言葉が冒頭の聖句です。動物のようにむさぼる中で、人はふと我に返ります。自分は何をしているのだろうか。自分はイスラエル人ではないか。神の民ではないか。

あの放蕩息子が豚の餌で空腹を満たしたいと願うほどに落ちぶれた時、ふとわれに返って「自分は何をしているのだ」「自分はあのお父さんの息子ではないか」と自分の姿を取り戻したのと同じです。

もし、4人のツァラアト患者たちが、自分が何者であるかを忘れたままであれば、これ幸いにと、ぶんどり物を独占したことでしょう。あるいは、これを機会に、高値で販売して、大儲けを画策することだってできました。

しかし、彼らは自分が神の民であるという原点に立ち返ったのです。だから、彼らはこの良き知らせをサマリヤの人々に知らせ、その戦利品によって、預言通り「麦粉1セアを1シケルで売り、大麦2セアを1シケルで売る」ことになりました。

新約のクリスチャンはいかがでしょうか。自分だけが救いに入って、罪によって滅び行く人々を放っておいて良いでしょうか。今は恵みの時、今は救いの日ではありませんか。

だから、祈って行動に移しよう。「主よ、あなたのこの良きおとずれを、お伝えする勇気を与えてください」。祈りつつ、主の導きがありますように……。

列王記下 6章

2025年04月24日 | 列王紀
列王紀下6・17 エリシャが祈って主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてくださいと言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。

スリヤ(アラム)軍はたびたびイスラエルと戦いを交えていましたが、スリヤ軍の作戦情報はイスラエルに筒抜けでした。それは、神の啓示によって預言者エリシャの知るところであったからです。 ※先のナアマン将軍より後の時代のことであろう。

どんな悪も隠れていることができません。暗闇でささやかれたことは明るみに出されます。人には隠されていることでも、神の目には裸です(ルカ8・17)

だから、自分の心に隠している醜い思いも、邪悪な企ても、神はご存知だと知るなら、私たちは神の御前に正直に歩むことができます。ところが、隠すことができると思うので、罪が拡大します。

隠せないと分かったら、罪は小さな芽の内に摘むことができます。これは、神の視線を感じて歩くことです。暗やみを照らす光のようにして、神の視線を感じるので、私たちは光の中を歩みます。

さて、スリヤ軍は、それならば情報源である預言者エリシャを撃とうとして、エリシャの住むドタンの町を完全包囲しました。愚かですよね。自分たちの行動は神に見抜かれているというのに、なおも対抗しようとするのですから……。

これが罪人の姿です。神に見抜かれていると知って、恥じいって悔い改めればよいのに、ますます心を頑(かたく)なにして神に敵対するのです。

どうか、神が私たちの罪を明らかになさった時、心を頑固にしないで、素直に悔い改める柔らかな心でいることができますように……。

スリヤ軍に完全包囲されたエリシャは、人の目には絶体絶命です。エリシャの従者の目にもそうでした。だから彼はこう叫びました。「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」(6・15)

人の目には絶体絶命としか見えない状況があります。そう見えるのは、私の肉眼がほんの少ししか見ていないからです。人の肉眼は、光の範囲の内のほんのわずかな領域を見ているだけです。

人の肉眼は赤色と紫色の間の光だけを捕らえています。その光を「可視光線」といいます。紫よりも外側の光が「紫外線」、赤よりも外側の光が「赤外線」です。この外側の範囲は、可視光線の領域よりもズーッと広い領域です。

その外側の光には、たとえば「X線」がありますが、それは肉眼では見えない領域の光です。でも、X線カメラのレンズでその光をキャッチすると、肉眼では見えない領域を映し出します。

今ではもっと広い範囲の光をキャッチできる装置が開発されて、肉眼で見ることのできなかった領域が広がっています。それでも、私たちの見ている範囲はほんのわずかです。ましてや、普段、肉眼で見ている範囲はいかに狭い領域でしょうか。

困難な現実を目の前にして、私たちは狼狽(うろた)えます。でも、主に祈って目を開いていただきましょう。

主よ、見えるようにしてください

エリシャは従者の目が開くように祈りました。すると、彼の目には開かれて、スリヤ軍を囲むようにして満ちている天の軍勢が見えました。天使たちの軍勢です。これが実際です。

私たちの肉眼が見ているのが実際ではありません。それはほんの一部分です。絶体絶命の困難を、神の大きな御手が取り囲んでいる世界が、実際の世界です。残念なことですが、私たちに肉眼は、この実際を見ることができません。

だから、「信仰」というメガネをかけます。肉眼を補正するためにガラス製のメガネをかけるように、私たちの心の目には「信仰」というメガネをかけなければなりません。

私たちの心の目は曇っています。悪魔の偽りの情報によって歪んでいます。だから、正しく見ることができていません。補正しなければなりません。何が偽りで、何が真実なのかを見ぬくために、信仰のメガネが必要です。

肉眼用のメガネの材質はガラスですが、信仰というメガネの材質は神の御言です。

私たちの肉眼が「死」を見る時、それは絶望に見えます。しかし、御言は何と言っていますか。「わたしは終わりの日に彼をよみがえらせる」です。その御言のメガネをかけて見れば、肉体の死は、一時的な眠りに見えます。彼は時が来れば起きあがるのです。

さあ、信仰のメガネをかけよう。私たちには、見えない世界を見通すメガネが必要です。信仰とは、まだ見ない現実を見抜くことです(ヘブル11・1)。信仰とは、目に見える世界が神の御言によって成り立っていることを見抜くことです(ヘブル11・3)

肉眼にどう見えるかは決定的な問題ではありません。世の人々の評価もあまり問題ではありません。神の御言が何と言っているかが、真実の世界です。神の御言を通して、本当の世界を見抜くべきです。

祈りましょう。「主よ、見えるようにしてください」。
 
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列王記下 5章

2025年04月23日 | 列王紀
列王紀下5・13 わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか。

エリシャが活躍した時代に、スリヤ(アラム)の国にナアマンという将軍がいました。スリヤという国名は新改訳では「アラム」で、同じ国です。このナアマンはツァラト(らい病)を患っていました。 ※聖書で「らい病」と翻訳された病は、現代の「らい病」とは異なる病気である。新しい翻訳では「重い皮膚病」とか、原語のまま「ツァラアト」と表記。ここでは「ツァラト」と記す。

病に悩むナアマンのもとには、戦争の結果イスラエルから拉致(らち)されてきたひとりの少女が奴隷として仕えていました。彼女は、「故郷のサマリヤにいる預言者であれば、主人ナアマンをいやすことができるのに」と提案しました。

彼女にしてみれば、自分を拉致した憎むべき主人です。家族から引き離され、遠くダマスコにまでつれてこられ、異邦人に仕えなければならなくなったのですから、病気のナアマンを見て、「神さまの罰(ばち)があったのだ」と言いたくもなります。

しかし、彼女の反応は違いました。可哀想にと思ったのです。憎むべき相手に対してゆるしと愛で応えたところから、この恵みに満ちた物語は始まったのです。癒(いや)しのわざは、ゆるし、愛することから始まるのです。

さて、彼女の提案を受け、ナアマンはイスラエルに出かけて行き、預言者エリシャに面会を申し出たのですが……。
①直接に会うことなく使いの者をよこした。
②使者による伝言は「ヨルダン川に行って7回身を洗いなさい」。
応えはそれだけでした。

ナアマンは一国の将軍です。しかも、王の親書と贈り物を携えてきたのです。それなのに、直接会いもせず、使いの者をよこすとは何という無礼。そう思いますよね。ナアマンもそう思ったのです。彼は怒ってこう語っています。

何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラトを直してくれると思っていたのに。(5・11・新改訳)

私たちは往々にして、神の恵みを受けるには、たいそうなことをしなければならないと勘違いしています。癒しの奇跡が現れるためには、何か神秘的で謎めいた儀式があると思い込んでいます。

ナアマン将軍もそう思っていたようです。だから、預言者エリシャのやり方に肩すかしをくらったわけです。仰々(ぎょうぎょう)しく按手して祈るわけでもなく、ただ、ヨルダン川に行って7回身を洗いなさいと、神の御言を伝えただけでした。

あのローマの百卒長(百人隊長)が部下の癒しをイエスに願った時もそうでした。イエス様は直接会ったのではなく、「良くなりなさい」という御言を下さっただけでした。仰々しい儀式めいたことがあったわけではありません。

御言を信じて実行する信仰が必要なだけです。

しかし、ナアマンはそれを悟ることができず、怒ってダマスコに帰ろうとしました。何で、わざわざイスラエルまで来て、ヨルダン川のような貧相な川で身を洗うんだ。ばかにするのもいい加減しろよ、というわけです。

しかし、この時のナアマン将軍の部下がナイスフォロー。彼は主君に進言したのです。預言者が命じたことは簡単なことではありませんか。ヨルダン川で7回身を洗うだけじゃないですか……と。簡単なことですから、まずはやってみましょうよ。

そこで、ナアマンは思い直しました。思い直すって大事なことです。ムッとしないでハッとする」。れは恵みの扉を開く鍵です。

私たちはつい感情的になって、思い直すことができません。心を頑なにしてしまって、思い直すことができません。ある人は、自分のプライドにこだわっていて思い直すことができません。

思い直しましょう。主がそう言われるんだから、やってみようじゃないか……と。もう一度申し上げます。ムッとしないでハッとしよう」。

まさに、悔い改めるとは、このように思い直すことです。こんな幼稚なことをやってられるかというプライドを捨てて、思い直すことが悔い改めです。意固地になっている頑固な心を砕いて思い直すことが悔い改めです

ナアマンは悔い改めてヨルダン川に身を浸し、7回それをやりました。端から見れば滑稽な姿です。大の大人がヨルダン川で水浴びをしているのですから。でも、幼な子のように素直な心で御言に従うことを、神は喜ばれます。

私たちが毎週礼拝に集うなんて、端から見れば滑稽な姿です。見えない神に祈っている姿など、信じない人には愚かな姿です。でも、かまいません。神が祈れと言われるので、私たちは祈るのです。

ナアマン将軍は、将軍としてのプライドを捨てました。癒してもらうためにこんなにお土産を持ってきたのに……という思いも捨てました。必要なことはプライドでもなければ、お土産でもありません。

御言に従う謙遜が必要なだけです。

信仰がなくては神に喜ばれることはできません。必要なことは神の御言を信じる信仰です。御言を聞いて素直に行う幼な子のような応答です。

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列王記下 4章

2025年04月22日 | 列王紀
列王紀下4・6 油が満ちたとき、彼女は子供にもっと器を持ってきなさいと言ったが、子供が器はもうありませんと言ったので、油はとまった。

預言者エリシャの活躍が続きます。当時、預言者はエリシャだけではなく、幾人も存在したようです。すでに見たように、王宮御用達(ごようたし)の預言者もいれば、権力になびかず単独で活動する預言者もいました。また、数人のグループで共に祈り合い、学び合っていた預言者集団もいました。エリシャはそのようなグループを導く預言者であったと思われます

さて、その仲間の預言者のひとりが負債を抱えたまま亡くなったため、残された妻子は借金の取り立てに苦しんでいました。そこで、彼女はエリシャに相談にやって来たのです。

エリシャは彼女に言った。何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい』。彼女は答えた。はしための家には何もありません。ただ、油のつぼひとつしかありません』。(4・2新改訳)

主は「あなたにあるものは何か」と問うておられます。他の人のものではなく、私の手元にあるもので良いのです。他の人の持ち物をうらやむ必要はありません。あなたの持っているものを、主は用い、増やそうとなさいます。

イエスの弟子たちも、「5つのパンと2匹の魚しかありませんが……」と差し出しました。それでよいのです。主にとっては、それで充分なのです。

預言者の妻は、「油のつぼひとつ〝しか〟ありません」と答えましたが、彼女にはひとつ〝しか〟であっても、主にあっては何の差しつかえもありません。主は、私たちの〝しか〟を用いられるのです。

さて、エリシャは、彼女の家に残っている油を器に注ぐようにと命じました。その際、できる限りたくさんの器を用意しなさいというのです。隣の人から借りてきてでも器を用意しなさいと……。

そして、器に油を注ぎ始めると、器いっぱいに油が満ちました。溢れそうになるので次の器に注ぎます。また次の器へと……。油はいくらでも注ぐことができました。器があればある分だけ注がれました。

彼女は子供に、もっと器を持ってきなさいと言うのですが、最後の器になると油は止まりました。しかし、用意した器の全部に油は満ちました。そして、その油を売って負債を返済し、残ったお金でその妻子は暮らすことができました。

なんだ、こういう事ならもっと器を用意しておけば良かったのに……。百円ショップにでも行って百個でも千個でも用意したのにと、欲張りな私は思ってしまいますが、そんなことを教えるための教訓ではありません。

彼女は器を精一杯用意したと思います。何個の器を用意したかは分かりませんが、それが彼女にとって最善の数の器であったはずです。それでいいのです。欲張って自分に釣り合わないほどの器を用意せよという意味ではありません。

私たちは〝器〟です。神は、その器に恵みを溢れんばかりに注ごうと用意なさっています。それは聖霊の油そそぎという恵みも含んでいます。

私の器が小さければ、神が注ぐことのできる恵みはその分だけです。つまり、私が用意した器の分だけを満たしてくださるのです。この困難は神でさえ解決できないと考えるなら……、つまりその程度の器を用意したなら、その程度の結果しか得られません。

小さな問題なら神にはできると信じて祈るのですが、大きな問題は、さすがの神にも無理だろうと考える人がいます。それは、その人の信仰の器がその程度の大きさなのです。小さな器には、小さな恵みしか入れることができません。

しかし、主は彼女に何と言われましたか。できる限りたくさんの器を用意しなさい、隣の人から借りてでも用意しなさいと言われたではありませんか。器を大きくしなさい。信仰の友の応援を受けてでも、信仰の器を大きくしなさい。

大きな器には、大きな恵みが注がれるのです。

風邪をいやしてくださった主は、癌もいやしてくださる……と信じる程の器を用意しようではありませんか。神にはできないことはない……と信じる器を用意しようではありませんか。

天から降る雨は誰にも同じ量だけ降っています。信仰のない人にも、信仰のある人にも同じ量の雨が注がれます。ある人は、茶碗を用意します。茶碗の分量の水を受け取ります。

しかし、ある人はバケツを用意します。ある人は風呂釜を用意します。さらに、ある人はプールを用意します。私たちが用意した器の分だけ水はたまります。神の恵みもそれと同じです。

イエス様は、あなたの信仰の通りになると言われました。小さく信じている人は小さい恵みを受けます。大きく信じている人は大きな恵みを受けます。あなたの信仰の器の大きさに合わせて恵みの雨を受け取ることができます。

大きな器を用意している人の話は、一見、大法螺(おおぼら)吹きに思われます。まだ後継ぎの子もいなかったアブラハムもそう見えたことでしょう。自分の子孫は天の星のようになるのだと宣言し、自分の名前をアブラハム(万国民の父)と改名したのですから。でも、そんな大きな器を用意したので、神はアブラハムから多くの子孫と国民を生み出されました。

ですから、私たちは栄光から栄光へとキリストに似た者へと変えられるのだと、〝大法螺〟を吹こうではありませんか。終わりの時に再臨される主は、私を復活の身体へと変えてくださるのだと、〝大法螺〟を吹こうではありませんか。
さあ、このように、大きな器を用意しよう。

と言っても、恵みを受けた後で、もっと大きい器を用意しておけば良かったと欲張らないことも大切です。預言者の妻は自分のできる限りの器を用意しました。その数がその時の彼女には最適な数でした。そして、返済の残りで充分に暮らせたのですから。

神はいつも〝丁度よくしてくださる〟のです。他の人の器の大きさをうらやんではいけません。また、器の小さい人のことを軽んじたり、さばいてはいけません。それぞれは、信仰に応じて、達し得たところに従って進むべきです。

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【一日一章】 朝マナ 列王記下 4章 【聖書通読】
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列王記下 3章

2025年04月21日 | 列王紀
列王紀下3・11 ヨシャパテは言った、「われわれが主に問うことのできる主の預言者はここにいませんか」。

北イスラエルの属国であったモアブが反旗を翻(ひるがえ)したため、イスラエルの王ヨラムはモアブ討伐のために兵を挙げました。

その際、南ユダの王ヨシャパテとエドムの王にも呼びかけ、連合軍を編成したのですが、思うように進軍できず、水のない荒野で立ち往生です。この時、イスラエルの王ヨラムは嘆(なげ)きました。

ああ、主は、この三人の王をモアブの手に渡そうとして召し集められたのだ。(3・10)

事がうまく行かなくなると、「あぁ最悪!」「これは神の呪いだ」と嘆いていませんか。悪いことがあるといつも否定的、悲観的に受け止めてしまう癖はありませんか。

それは心の癖(くせ)です。本来、神が私たちにお与えくださった心ではなく、悪魔によって歪(ゆが)められた心の癖なのです。

北イスラエルの王ヨラムは偶像礼拝に影響を受けている人です。偶像礼拝の影響を受けている人は、ヨラム王のように、何か悪いことがあると否定的・悲観的に受け止める癖があります。

なぜなら、偶像の神とは、自分に都合の良いことをしてくれる神だからです。偶像礼拝者は、いつも都合の良いことをしてもらうために神を拝んでいる人たちです。だから、悪いことが起きると、神に見離されたとか呪いだ等とネガティブに考えます。そこで、神のご機嫌をとろうと生贄(いけにえ)をささげるとか、神の怒りを和らげようと善行を積むなど、熱心になります。これが偶像礼拝者の特徴です。

クリスチャンでありながら、これとよく似た発想や反応があるなら、その人は真の神を信じながら、イエス様を偶像のように拝んでいる人です。偶像礼拝の感覚が染みついた人です。

私たちクリスチャンは、都合の良いことが起きるように願って、イエス様を礼拝しているわけではありません。良いことも悪いことも、すべては神の御手の中にあることを信頼する者です。

だから、良いことがあっても有頂天にならず、悪いことがあっても落ち込みません。イエス様との信頼関係を深めるために祈ります。そのような祈りは、辛い出来事の中にも、イエス様の深い恵みを見出すことになるのです。

このようなわけで、偶像礼拝に影響されたヨラムは悲惨な状況を嘆くしかありませんでした。

しかし、南ユダの王ヨシャパテはヨラムとは違いました。彼は主の目にかなう王であり(列王上22・43)悲惨な状況下でも、われわれが主に問うことのできる主の預言者はここにいませんかと主の御言を求めたのです。こうして与えられたのは「これは主の目には小さい事である」との御言でした(3・18)

視野の狭い人間には、状況は悪く見えます。目の前しか見えない人間には絶体絶命です。

神の御心を問うとは、その狭い視野を大きく広げることです。大きく広げて、神の愛の広さ、深さ、高さ、長さを知ることです。

また、神の御心を問うとは、近くしか見えなかった目を永遠の視点で見ることです。神の大きなご計画の中で、今の現実を受け止めるようになることです。こうして、私たちはやがて告白するのです。

「苦しみにあったことは私には良いことでした。それによって私は主のおきてを学ぶことができたからです」と。悲惨な現実が良いことだったと言えるほどに変えられます。

さあ、聖書はあなたに呼びかけています。ここに主の御心を問うことのできる者はいないのですかと。あなたこそ、問うことのできるクリスチャンではありませんか。

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【一日一章】 朝マナ 列王記下 3章 【聖書通読】
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列王記下 2章

2025年04月12日 | 列王紀
列王紀下2・13 エリヤの身から落ちた外套を取り上げ、帰ってきてヨルダンの岸に立った。

預言者の働きはエリヤからその弟子エリシャへと引き継がれて行きます。

エリヤは神の不思議な方法で天に引き上げられようとしていました。そのことをエリヤは予見していたのでしょう。弟子のエリシャにも伝えていたと思います。だから、エリシャはエリヤの行くところには、どこにも着いて行きました。

エリシャはエリヤに、あなたの霊の二つの分を私に継がせてくださいと求めましたが、それは、神の働きは聖霊によらなければ何も成し得ないことを悟っていたらからです。だから、エリシャは、聖霊を受けるまではエリヤから離れなかったのです。

イエス様も弟子たちに、聖霊を受けるまでは都にとどまっていなさいと言われたのを思い出します。

そして、ついにその時が来ました。エリシャの見ている目の前で、エリヤは天に引き上げられました。彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼったのです(2・11)

なぜ、神はこのようなことをなさったのでしょうか。それは、やがて来られるキリストが、地上での働きを終えて後、天に引き上げられることの予型として、神は見せてくださったのです。

イエス様も、十字架の死と復活のわざを成し終えた後、弟子たちの見ている前で雲に乗るようにして天に引き上げられました。イエス様の場合は「雲」で、エリヤの場合は「つむじ風」ですが、いずれも天使たちの働きです。

天の御使は、ある時には火のように、ある時には風のように、ある時には雲のように、そしてある時には人の姿で現れて、私たちを助け、神の働きを成します。神は、御使たちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされるとある通りです(ヘブル1・7)

天に引き上げられるイエス様は、後に天からくだる聖霊を受けよと弟子たちに命じられました。その聖霊を受けたら、イエスと同じ働きができるのだと約束されました。こうして、弟子たちは聖霊を受けてイエスの証人として働きました。

エリヤも、弟子のエリシャの目の前で天に引き上げられました。その引き上げられる際にエリヤの外套が天から落ちてきました。エリシャはその外套を着ることによって、エリヤと同じ働きをするようになりました。だから、外套を着たエリシャを見た人々は、エリヤの霊がエリシャの上にとどまっていると証言しました。このように、エリヤとエリシャの出来事は、天に引き上げられるイエスとその弟子たちのことを預言しています

弟子のエリシャは特別な人ではありませんでした。エリシャが召された時の様子が聖書に記されていますが、彼は牛を引かせて田を耕している最中でした。エリシャは農夫でした(列王上19・19~21)

でも、エリヤの着ていた外套を受けるや、エリヤと同じ働きが現れ始めました。

新約の時代、イエス様は私たちを同じように召しておられます。天からの聖霊を受けて、わたしと同じ働きをせよと、普通の人間である私たちを召してくださったのです。

弟子のエリシャがそうであったように、私たちも特別な人ではありません。でも、聖霊を受けて、イエス様のように歩ませていただきましょう。聖霊なる神が、それをなさいます。


列王記下 1章

2025年04月11日 | 列王紀
列王紀下1・3 あなたがたがエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして行くのは、イスラエルに神がないためか。

北イスラエルの王アハブが戦死し、その息子アハジヤが王となりました。ところが、転落事故で重傷を負ったアハジヤは、「バアル・ゼブブ」という偶像神に癒しを求めたのです。
 
 ※ バアル・ゼブブは「バアル・ゼブル」を揶揄(やゆ)した呼称。バアル・ゼブルとはバアル神の尊称で「気高き主」の意味。豊穣の神として祀られたが、豊穣の象徴として性的儀式もなされ、性的な悪習慣をイスラエルに持ち込んだ。

  そのような邪教を嫌った聖書の民は、バアル・ゼブルを揶揄してバアル・ゼブブと呼んだ。これは「ハエの主」の意味。ハエは糞にたかるので「糞の神」という蔑称でもある。転じて「悪霊のかしら」という意味も持つようになった。


さて、アハジヤはイスラエルに真の神である主がおられるのに、邪教の神バアル・ゼブブを頼みとしました。そのことを預言者エリヤは、王に進言し、悔い改めを迫ったのです。

どうして他の神々に ――といっても本当の神ではない―― 人々は魅了されるのか。それは、人が肉の感覚で神を知ろうとするからです。

人は霊的な存在ですが、アダムの原罪(根っ子の罪)が人類に入り込んでいるため、人類の霊は死の霊を受け継いでいます。つまり、根っ子の部分から死んでいます。

肉体は生きていますが、霊は罪のために死んでいます。この〝霊の死〟は霊が消滅することではありません。肉体の死は肉体が朽ちて消滅しますが、霊の死は霊が機能していない状態のことです。

ですから人は神を求めるのですが、霊が機能していないので神との交わりを持つことができません。そこで、人は、肉体的な感覚で神を知ろうとします。目で見える神、手で触れる神を求めます。そのため、神を見える姿に描いて偶像を作ります。

そのようにして作り上げた神のイメージは歪んでいます。人間の肉的な願望を投影して神に仕立て上げてしまうからです。ですから律法は……、

「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない」と命じています(出エジプト20・4)

人間が、自分の都合の良いイメージ(かたち)に神を作り上げたのが偶像です。しかし、神の本当のかたちは、御子なる神キリストだけが現されました。

アダム以来、人類の霊は死んでしまい、肉の感覚で生きてきました。だから、肉体の必要を満たすことが、すなわち「生きる」ことだと考えてきました。そこで、神についても、肉体を満たしてくれる神を求めてきました。

商売繁盛の神、子宝の神、豊穣の神、戦争勝利の神等々。近年では受験の神、交通安全の神にまで至ります。みんな肉体を満足させてくれる神々です。そして、人々はそのような神々に魅了されるのです。

それは、イスラエルの民も同じでした。だから、神は、イスラエルの民が霊的に目覚めるために訓練なさいました。

イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野(あらの)を旅したとき、神は、天から降る「マナ」という不思議なパンで彼らを養われました。なぜ、神はそのような御業をなさったのでしょうか。

それは、人はパンだけで生きる存在ではなく、神の口からで出る神の御言で生きる〝霊的な存在〟であることに目覚めさせるためでした。

しかし、人はなかなか目覚めません。イスラエルの民は、わが霊魂を生かすことよりも、肉体を生かす方を選びました。その結果が偶像礼拝となって現れたわけです。

信仰を明確にするためには、自分が「霊的存在」であることに目覚めることです。

肉体はどうでもよいと言っているのではありません。仕事をする上で作業服は必要です。私・霊魂が、地上で神の働きをするために、肉体という服を着て働くのですから、肉体は大切です。でも、その肉体という服を着て、私・霊魂がどんな仕事をするのかはもっと重要なことです。

わが霊が生きることを忘れてしまうならば、私たちは、肉体を生存させることのみに、人生のすべてをついやしてしまいます。否、肉体を罪のために使う人生で終わってしまいます。

「あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」(ローマ6・13)とは、そのことを指摘しています。

肉体が健康であることは幸いなことです。でも、その健康な肉体を使って何をするのでしょう。せっかく神が健康な肉体を下さったのに、罪を犯すことに肉体を使ってしまうなら、何と空(むな)しい健康でしょうか。

ゆたかな富を得ることは幸いです。でも、その富を肉体の満足のために用いるだけで、我が霊魂の救いのために、そして多くの人々の救いのために用いなかったら、何と空しい富でしょうか。

全世界を手にしても、私・霊魂が永遠のいのちを受け損ねたら何の益になるでしょうか。

哀れみ深い神は、私たちの肉体の必要をよくご存知です。でも、まず神の国と神の義を第一にすべきです。それは、自分自身の霊魂が生きるためです。そうすれば、神は、肉体の必要を満たしてくださいます。

神が肉体の必要を満たしてくださるといっても、過剰には満たしてくださいません。過剰に与えて、かえって富におぼれてしまうことのないように、神は配慮なさいます。

さあ、本当の必要……霊的な必要、そして肉体的な必要を正しく満たしてくださる神は、私たちと共におられます。バアル・ゼブブのもとに行く必要はありません。

列王記上 22章

2025年04月10日 | 列王紀
列王紀上22・8 彼(預言者ミカヤ)は私(アハブ)について良い事を預言せず、ただ悪い事だけを預言するので、私は彼を憎んでいます。

先の21章から3年後のことです。北イスラエルの王アハブは、スリヤ(アラム)の支配下にあるラモテ・ギレアデを奪還すべく戦争の準備をしていました。そして、この戦争に南ユダ王国のヨシャパテの援軍を要請しました。

ヨシャパテはこの戦争が神の御心にかなっていることなのか、主に問うように求めました。主の御心を求める姿勢は大切なことです。しかし、問題はこのあとです。

アハブ王は、自分の都合の良いことを語る預言者ばかりを集めていました。そんな、預言者たちですから、アハブ王に解雇されないために、王の喜ぶようなことを預言していました。彼らは、神の御心を語るのではなく、アハブの心の代弁者たちです。
 
※ 政府が客観的かつ専門的な意見を求めるために、政府が招集する「諮問委員会」とか「有識者会議」なるものがあるが、この預言者集団もそれに似ている。時に客観性を欠き、政府の意向に添った提言してくれる者たちで委員会が構成される場合があるように、この預言者集団もアハブ王に忖度する者たちだった。

「預言」とは、神の御言を預(あず)かって語ることなのですから、王の喜びそうなことを意図的に語るなら、それは偽りの預言です。

王のおかかえ預言者たちは、今回の戦争は神の御心にかなった戦いであり、勝利すると預言したので、アハブは大いに勇気づけられました。しかし、ヨシャパテは不審に思い、彼らの他に預言者はいないのかと尋ねました。

すると居ました。それはミカヤです。

ミカヤは王アハブからは嫌われていました。なぜなら、彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです(22・8新改訳)。そのようなわけで、王の〝忖度預言者集団〟にミカヤは招集されていませんでした。

牧師も、新約の時代における預言者のような立場です。神の御言を預かって説教するのですから。

でも、誘惑があります。人々が聞きたいことを語り喜ばせようとする誘惑です。人々から嫌われたくない。良い牧師だと思われたいために、人々が嫌がるようなことを語らないで、都合の良いことを語ろうとする誘惑です。もちろん、新約は恵みの時代ですから、厳しいメッセージにも救いがあり、恵みがあります。ですから、霊的な感覚からすれば、喜ばれるメッセージ(預言)であるはずです。

また、立場を逆にして、信徒が自分に都合の良い話を聞きたくて、牧師に要求することもあります。すると、メッセージが歪んできます。神の御心を正しく語ることができなくなります。

アハブ王は都合のいいことを聞きたいし、預言者たちもアハブ王に気に入られたい……。こんな事を続けていると、何が神の御心なのか分からなくなって、惑わされるようになります。

人が悪を好むようになると、神はそれを引き留めるのではなく、それを加速させられることを、先の21章で見ました。偽りの預言の場合にも、それと似ています。

なぜ、王のおかかえ預言者たちが、「今回の戦争は御心だ。勝利できる」と預言するに至ったのか。天における舞台裏について預言者ミカヤは語りました。少し長いですが引用します。

すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。そのとき、主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか』すると、あれこれと答えがありました。

それからひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか』と尋ねられました。彼は答えました。

『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります』。

すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、その通りにせよ』と仰せられました。今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」(22・19~23・新改訳)

預言者に仕える天使が神の御言を伝えて、それを預言者が語るわけですが、この場合、その預言者に仕える天使が偽りを言う霊となって仕えるようになったというのです。

これは、新約の時代にも自戒しなければならない事です。なぜなら、聖書はこう預言しているからです。

「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです」(Ⅱテモテ4・2~4)

自分の都合の良い話を聞こうとする時代……それは、キリスト信仰がヒューマニズムに影響されて、〝良いお話し〟を聞くための宗教に成り下がってしまった時代です。

時が良くても悪くても、つまり自分にとって都合が良くても悪くても、神の御言を真摯に受けようとする信仰が求められています。

列王記上 21章

2025年04月09日 | 列王紀
列王紀上21・25 アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。

※新改訳聖書では「アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった」。口語訳・新共同訳は「悪を行うことに身をゆだねた」。

北イスラエルのアハブ王の記録が続きます。彼のなす悪はイスラエル史上かつてなかったと記録されています。それにはふたつの要因が挙げられます。

悪を行うことに身をゆだねた

もはや自分自身には罪に対する抵抗力がなくなっている状態です。

私たちの体には、外部から侵入する菌やウィルスに対して免疫機能が働いて、それと戦う力が備わっています。だから抵抗力があります。これが衰えると病気にもかかりやすくなります。

それと同じように、人の霊魂にも、罪に対する抵抗力を神は備えてくださっています。人によってこの力は様々です。

花粉症は、花粉を外部からの侵入者だと体が反応し過ぎてしまう病気ですが、罪に対しても反応し過ぎて、あれも罪かな、これも罪かな……とびくびくすするような生き方をする人がいます。

過剰な罪責感は問題です。これが行き過ぎると、イエス様の十字架の血では不充分だと言っていることになるからです。イエスの血によって過剰な罪責感はきよめられなければなりません

逆に、罪に対してまったく抵抗力をなくして、アハブのように「悪を行うことに身をゆだねる」人もいます。このような人も、イエスの十字架の血によってきよめられなければなりません。

「悪を行うことに身をゆだねる」のは、罪に対する抵抗力がないだけではありません。自ら悪を好んでいる場合、拍車がかかるようにして、罪の世界に引きずり込まれます。聖書はこう記しています。

「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。」ローマ1・26)

「そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いに渡し、なすべからざる事をなすに任せられた。」(ローマ1・28)

悪を働こうとする者に対して、ある限界点を越えてしまうと ――この限界点がどのレベルかは分からない―― 神は、そのような人々を悪に引き渡してしまうのだと語っています。

ここまで来ると、おそらく引き返せなくなるでしょう。神は、愛なるお方ですが、同時に義なるお方です。神の慈愛と峻厳を忘れてはなりません(ローマ11・22)

ですから、コリント教会のある男性は姦淫の罪から離れることができなくて、もはや引き返せなくなっていました。そこで……、

「あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(Ⅰコリ5・4~5)

これ以上、肉体によって悪をなすよりは、肉体が朽ちることによって悪を積み重ねないようにさせ、その霊は救いを受けるようにしたというのです。

本来なら、神の栄光のために肉体を用いるべきですが、罪のために肉体を用いてしまうことは残念なことです。でも、その人の霊は主イエスにあって救われます。ただし、救われているものの〝恥ずかしい救い〟です。

このように、悪に身をまかせてはなりません。

妻イゼベルの存在

イゼベルはシドンの王エテバアルの娘で、熱心なバアル信者でした。ですから、アハブはバアル宗教の女宣教師と結婚したようなものです。アハブは、妻の影響を受けて、彼もバアルの神を拝み、主なる神に敵対するようになったのです。

妻の影響力は大きいです。夫が妻に及ぼす影響力の比になりません。だからこそ、妻のために祈らなければなりません。私たちが霊的生活に成功するためには、妻の助けが必要です。妻は神が用意なさった「助け手」だからです。

そのような助け手は妻だけではありません。信仰の友もまた大切な助け手です。このような助け手のために祈らなければなりません。

神が、アダムに「助け手」としてイブを与えたように、私たちには、霊的生活のための助け手が必要です。また、私が助け手となる必要があります。どのような助け手と出会うのか、あるいは助け手となるのかが、人生を決定づけます。

アナニヤとサッピラのような罪をおかすための助け手ではなく、霊的成長のための助け手となれますように……。


列王記上 20章

2025年04月08日 | 列王紀
列王紀上20・13 あなたはこの大軍を見たか。わたしはきょう、これをあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを、知るようになるであろう。

北のイスラエル王国の物語が続きます。アハブ王の時代に、スリヤの王ベネハダデ(ベン・ハダデ)が連合軍を率いて攻め上ってきました。

スリヤという国名は現在の「シリヤ」の語源となっている。口語訳では「スリヤ」、新改訳ではアラムとなっているが同じ国である。ヘブル語聖書では「アラム」だが、70人訳聖書(ギリシャ語)では「スリヤ」と訳されたため、このような違いが生じた。 首都はダマスコ。

ベネハダデ率いる連合軍は32人の王による軍隊ですから、大変な数です。もはや絶体絶命。北イスラエル王国もここまでかと思われました。

これまで散々主の目の前に悪を行ってきたアハブ王ですから、神がお見捨てになっても当然と思える事態に、ひとりの預言者を遣わして ――この預言者はエリヤではない―― こう言われたのです。

あなたはこの大軍を見たか。わたしはきょう、これをあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを、知るようになるであろう。(20・13)

何と哀れみ深い神のご配慮。この戦いを勝利に導かれるというのです。それは、この勝利を通して、主こそまことの神であることを知るようになるためだと言われます。そして、イスラエルは絶体絶命のピンチに勝利したのです。

この戦いでスリヤ(アラム)の王は撤退するのですが、リベンジに燃えて翌春に再来。かつて日本を襲った蒙古再来のようです。

しかし、この時も主は、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを知るようになるであろうとアハブ王に語られました(20・28)

主なる神は、アハブ王が悔い改めに至るのを忍耐深く待っておられます。アハブ王にさえこれほど待たれた神は、日本の民が悔い改めて立ち返ることにも忍耐深く待っておられます。 ※ここに人口の1%に満たない日本のキリスト教会の希望がある。

しかし、問題があります。アハブ王は主の助けによって勝利したにもかかわらず、悔い改めませんでした。なぜでしょうか。

「喉もと過ぎれば、熱さを忘れる」といいますが、罪を犯しながらも事態がうまく行くと、人の心は鈍くなります。「何だ、意外とうまく行くじゃないか。 罪を放っておいても大丈夫なんだ」という侮りが生じるのです。

神は、主こそ神であることを悟らせるために勝利させてくださったのに、そんな神の哀れみをよそに、侮りの心が生じたのです。

事態が好転したからといって、謙遜を忘れてはなりません。これは神の哀れみによる結果だと悟って、悔いし砕けし魂を取り戻します。

逆に、事態が悪くなった場合も、それもまた恵みです。悔い改めて立ち返れと主は言っておられるのです。主に目を向けるチャンスです。

事態が好転しても恵み。悪くなっても恵み。すべてが主の御手の中にあるので恵みです。アハブのように、神からの助けを利用し、世でうまく立ちふるまう者にはなるまい。


列王記上 19章

2025年04月07日 | 列王紀
列王紀上19・9 エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。

エリヤはカルメル山でバアルの預言者450人およびアシラ(アシェラ)の預言者400人と対決し、主なる神こそ真の神であることを証明しました。

その結果、偶像礼拝の預言者たちを処刑し、イスラエルの民衆の心を主に立ち返らせることができました。ここまでが先の第18章の出来事です。

その知らせを聞いたアハブ王の妻イゼベルは、報復せんとエリヤ討伐へと動き始めました。それを恐れてエリヤは逃亡するのですが、途中、ユダの荒野で力つきて、彼はこう告白しています。主よ、もはや、じゅうぶんです。いま私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません(19・4)

どんな勇者も弱さを持っています。勇気を失い、落ち込むことがあります。エリヤはこの時、まったく自信を失っていました。

そのようなエリヤに対する神の対応は、名カウンセラーのようです。

彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、『起きて食べなさい』と言ったので、起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。19・5~6)

人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る御言で生きる者ですが、この時の神の対応は、肉体を生かす食物と充分な睡眠を与えることでした。

疲れた時、落ち込んだ時、信仰がどこかにフッ飛んでしまいそうな時、皆さんはどうしますか。不信仰な自分を責めて、もっと熱心に祈らなければと自分を鼓舞しますか。もちろん、そうする時もあります。

しかし、この時のエリヤに対して、主は、食物と睡眠を与えられました。こんな対応も大切です。

その後、エリヤはホレブ山に行きました。この山は、かつてモーセが主から召された山でした。モーセは40才の時、イスラエルの民をエジプトから救出しようと試みましたが、若気のいたりもあって挫折してしまいました。

大きな挫折を味わったモーセでしたが、80才になって、彼はホレブ山の燃える柴の中で主からの呼びかけを受けました。神は、血気盛んな40才のモーセではなく、年老いた80才のモーセを用いて、あの出エジプトの偉業を成し遂げさせました。

そんなホレブの山に、疲れ果て失意の中にあるエリヤが導かれたのは偶然ではありません。

この山で、神はエリヤに語りかけ、再び派遣しようとなさいました。この時、主は何と言われたでしょうか。励ますことも、叱ることもなさいませんでした。ただひとことでした。

エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。

エリヤは、今までの事の経過を主に申し上げ、自分がいかに落ち込んでいるかを語りました。神の前に惨(みじ)めな自分の姿をぐだぐだと愚痴をこぼすように話しました。自分のありのままの姿を神に申し上げるしかなかったのです。素直な祈りです。

それから、再び主は語られました。エリヤよ、あなたはここで何をしているのか(19・13)

エリヤは、先ほどと同じように、自分の無力さをそのまま神に申し上げるしかありませんでした。

不思議なものです。神に自分のありのままの姿を申し上げている内に、私たちは元気を取り戻します。主に聞いていただいたという満足が、私たちに再び勇気を与えます。主の前には、格好をつける必要はありません。あのヤラベアムの妻のように〝他人を装う〟必要もありません。

「ここで何をしているのか」と神は問われますが、もちろんご存知です。エデンの園で隠れていたアダムに、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけた神は、アダムがどこにいるのかよくご存知です。神は、ご存知のうえで、あえてそう尋ねられるのです。

自分で自分の姿を見てごらんなさい。今は落ち込んでいるが、今まであなたに注がれてきた恵みを数えてごらん。主の力強い御手があったことを振り返ってごらん。あなたはひとりじゃないのだ。わたしが共にいるのだ。

神の前に愚痴をこぼしている内に、自分の姿が見えてきます。神に愛されている自分の姿を再発見します。こうしてエリヤは、ホレブの山で再び力を得て山をくだりました。今度は次なる使命を受けて……。

それは、エヒウ(エフー)に油を注いでイスラエルの次の王を任命することと、エリシャに油を注いで彼を次の預言者として任命することでした。

神の働きは自分ひとりで終わるのではありません。次の油注がれた人物が用意されています。私のやるべきことはわずかであっても、次なる人に聖霊の油を注ぎ、弟子を生み出すことも大切な任務です。

主が残しておくと言われたバアルにひざをかがめなかった7千人に期待しようではありませんか。残された者たちとの出会いと、信仰の継承がなされるようにと祈ります。

列王記上 18章

2025年04月05日 | 列王紀
列王紀上18・21 あなた方はいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい。

主なる神は、預言者エリヤを再びアハブ王のもとに遣わしました。バアルの神に従うのか、それとも真の神である主に従うのか。決着をつけようというわけです。その時の言葉が冒頭の御言です。

今日、私たちの心に迷いはありませんか。

もちろん、この朝マナメールを受けてくださっているクリスチャンの中には、観音山の高崎白衣観音とイエス様とどちらを選ぼうかと迷う人はいないでしょう。 ※高崎市の観音山にそびえる白衣観音像は、高さ24メールにもなる仏像で高崎市のシンボルになっている。

でも、世の富とイエス様との間で迷うことはあるでしょう。出世や名誉とイエス様を天秤(てんびん)にかけるようなことがあるでしょう。冷静に考えれば、もちろんイエス様です。しかし、情けないことに、世の富や栄光を選んでしまう弱さを私たちは持っています。

そんな時、今日の御言を思い出します。あなた方はいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。

さて、エリヤとバアルの預言者たちによる対決はこうでした。

「『われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。私(エリヤ)も一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。

こうしてあなた方はあなた方の神の名(バアル)を呼びなさい。私は主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう』。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。」(18・23~24)

こうして、バアルの預言者たちがバアルの神を呼び求めました。朝から呼び始め昼を過ぎても、何の応答もありませんでした。

「こうして昼が過ぎても彼らは(バアルの預言者たち)なお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかし、なんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。」18・29)

このことは何を表しているのでしょうか。

偶像の神とは偽りの神です。人間が作った神です。お金も人間が作ったものです。地上の地位も名誉も人間が作り出したものです。なのに、その作ったものに向かって、「私を救ってくれ」と叫び求めることは愚かなことです。

バアルの預言者たちは、喉をからして叫び、自分の身を傷つけて血を流すまでして求めましたが、応答はありませんでした。

それは丁度、人間が作り出したお金に向かって、声をからして叫び、身体を傷つけてまで求めるようにして働く現代人の姿に似ています。でも、「世の富」という名の偽りの神は何も応えてくれません。

なんの声もなく、答える者もなく、顧みる者もなかったというのが偶像の正体です。

預言者ハバククも告げています。「彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。」(ハバクク2・18)

さて、預言者エリヤの場面に戻りましょう。

今度はエリヤの番です。彼が主の御名によって呼ばわると、主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくしたのです(列王上18・38)

偶像は人間が作り出した神ですが、主なる神は人間を創造なさった神です。だから、生きておられる神です。私たちが求めれば応えてくださる神です。

さあ、ふたつの間で迷っていることがあれば、生きておられる神、主イエスに求めてください。イエス様は必ず応えてくださる神です。

この応えてくださるとは、「何でも願うようにしてくださるという意味ではありません。

私たちの神は「父なる神」です。神の子どもである私たちを正しく愛してくださるお方です。だから、私たちが間違った求めをした場合は、その通りになさるとは限りません。

小学生の息子が10万円を求めてきても、それを与える親はいません。それは彼の年齢にふさわしくない要求だからです。彼を愛する親なら、どうしてそんな大金が必要なのかを質問します。

悪い人から「金を持ってこい」と脅されているのではないか。それなら、その脅されている問題を解決してあげます。あるいは、何か欲しいものがあるのか。それなら、それが本当に必要なのか、もう少し考えてみなさいと時間を与えます。

人間の親でさえも、子を愛して最善な方法で応えようとするのですから、ましてや天の父がそうなさらないはずがないでしょう。

自分の願い通りに神を〝操作〟しようとする祈りは、偶像礼拝者の祈り方です。たくさん祈ったら願いがかなうというのも、偶像礼拝者の祈りです。断食したら神は腹をすかせている私を哀れに思って、かなえてくださると考えるなら、それは神へのハンガーストライキです。バアルの預言者たちは、そんな求め方をしました。

偶像礼拝者の祈りは一方的です。双方向のやり取りがありません。人格的な交わりがないのです。もしそのような祈りをイエス様にしていたら、それはイエス様を偶像礼拝していることになります。

しかし、私たちのイエス様は必ず応えてくださる神です。願った通りでなくても、必ず応答があります。願うだけの一方通行ではなく双方向の交わりがあります。その交わりの中で私たちは養われます。

さあ、必ず応えてくださるイエス様に祈ろう。祈りの中で、イエス様との人格的な交わりを持ち、その交わりの中で、自分の求めていることも申し上げ、最善の方法を与えてくださるように祈ろう。

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