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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

列王記上 2章

2025年03月18日 | 列王紀
列王紀上2・4 心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば……、

王位についたソロモンは、父ダビデの時代に悪を重ねてきた者たちに対する処罰がなされました。この処罰を通して、神の御国に相応(ふさわ)くないことは何かを考えてみましょう。

(1)アドニヤの場合

彼は油注ぎを無視して、自分が王になろうとしましたが、ソロモンが王に即位するや、幕屋に逃げ込んでいのち乞いをしてゆるされました。しかし、彼の悔い改めは上辺だけのものでした。彼の言動にも、本来なら自分が王であるのにと、ソロモンが王であることへの不満があらわれています(2・15)

アドニヤは、父ダビデの妻アビシャグ ――彼女はダビデの晩年に嫁いだので若かった―― を自分の妻にしたいと願い出ました。この申し出には、再び王位を狙うための下心が隠されていました。

下心のある者は神の国に相応しくありません。自分が中心になろうとする下心……それは、神を認めず、自分が神の座につこうとするサタン的な罪につながります。

(2)ヨアブの場合

彼はダビデ王に仕えた将軍ですが、これまでたびたび、王の意志にそむいてダビデを窮地に追い込んできました。ここぞという時に、自分の肉なる考えで動いたのです。

ダビデ王が和平交渉を進めていた矢先に、ヨアブは敵軍の将アブネルを暗殺しました。先の戦争で自分の弟を殺したアブネルに復讐をはたしたわけです。

また、アブサロムによるクーデター後の収拾のために、ダビデ王はあえてアブサロム側のマアサを将軍職に就けたのですが、ヨアブはそれを不服としてアマサを暗殺しました。

王国を平和的に確立しようとしたダビデの方針に逆らい、ヨアブは憎しみと恨みに動かされて、不要な血を流してきました。ヨアブは、軍人としては長けていましたが、自分の心にわき上がる肉の思いを支配することができませんでした。

この肉の思いを治めなければ、「神の御国」を建てあげることは難しくなります。ヨアブ的な考えを十字架につけて葬る必要があります。

(3)シメイの場合

アブサロムの反乱によって都を追われたダビデ王に罵詈雑言ばりぞうごん)をもって呪ったのがシメイでした。やがて、ダビデ王が闘いに勝って凱旋(がいせん)するや、シメイは先の非礼を詫びて許しを得たのでした。

彼の悔い改めは真実ではありませんでした。ダビデ王が統治する期間は神妙(しんみょう)にしていましたが、息子のソロモン王の時代になると、再び侮りの心が芽生え始めました。表向きは反省しているが、内実は不誠実。従順に見えて、内面は不真実な男です。

このような不誠実は神の国に相応しくありません。

冒頭の聖句にあるように、神の御前で私たちは、「心をつくし、精神をつくして真実をもって」歩むのです。それが神の御国に相応しい生き方です。
 

列王記上 1

2025年03月17日 | 列王紀
列王紀上1・39 祭司ツァドクは天幕の中から油の角を取って来て、油をソロモンにそそいだ。

イスラエルに統一王国をもたらしたダビデ王でしたが、その後の王位継承を明確にしないまま晩年を迎えてしまいました。そのことから、少なからず国内に混乱が生じたのです。

王の子たちには、それぞれ王位を継承する可能性がありましたが、第四子のアドニヤは、自分が王になろうと立ち上がりました。アドニヤによるクーデターです。

ダビデ王の承認も得ずに、なぜこのような愚行に及んでしまったのでしょうか。しかも、ダビデ王の側近である将軍のヨアブと祭司アビヤタルもこれに追随したのです(1・7)

アドニヤに進言できる知恵者はいなかったのでしょうか。

「ハギテの子アドニヤは、『私が王になろう』と言って、野心をいだき」と記されているように(1・5)アドニヤの高ぶりから生じた愚行でした。

しかもアドニヤは、彼の父(ダビデ)は彼が生れてこのかた一度も『なぜ、そのような事をするのか』と言って彼をたしなめたことがなかったとあるように、叱られずに育った人です(1・6)

王子ゆえに周りからはチヤホヤされて、高慢な人間に育ったのだろうと思われます。

ダビデは、国を治める王としては立派でしたが、家庭を治める父親としては失敗の多い人物でした。まさに、「むちと戒めとは知恵を与える、わがままにさせた子はその母に恥をもたらす」のです(箴言29・15)

さて、かねてから次期の王と目されていたのはソロモンでした。そこで、ダビデは王位をソロモンに継承させるために、ソロモン王の即位式を早急に執り行わせました。

イスラエルの王に即位するときには必ず油を注ぎました。ソロモンはこの慣例に則って油注ぎを受けて王となりました。しかし、アドニヤは、この油注ぎを受けていません。ここに大きな違いがあります。

油を注がれた者」。これをヘブル語で「メシヤ」、ギリシャ語で「キリスト」と呼びます。神は、油注がれた者を通して、ご自身の働きをなさいます。以後、列王紀には何人もの王が登場しますが、油を注がれた者でなければなりませんでした。

何のために油を注ぐのでしょうか。それは聖別するためです。幕屋の器具にも聖なる油を注いで聖別しました。聖別とは神のために用いる器として〝区別する〟ことを意味します。幕屋で仕える祭司も、聖なる油を注いで神の働きのために、一般の人々とは区別しました。このように、神のご用のために区別することを聖別と呼びます。

イスラエルの王という立場は、決して自分の支配欲を満たすものではありません。自分のやりたいことをやるために王になるのではありません。神の働きをするためです。真の礼拝者からなる神の御国を建て上げるという神の御業のために神は王に油を注いで聖別なさるのです。

ところが、アドニヤは自分の虚栄心を満たすために王となろうとしました。自己実現の野望の果てのクーデターです。彼は、油注ぎを受けた者ではありません。神の働きのためには、神の油注ぎが必要である所以(ゆえん)はここにあるのです。

旧約の時代は、特別に調合されたオリーブ油が注がれましたが、新約の時代には、聖霊が注がれる時代です。聖霊を受けた者は、自分のための人生ではなく、神の御国のために聖別された人です。

新約の時代のクリスチャンは、聖霊を受けて世から区別された者です。聖霊を受けた者は、「もはやこの世の者ではない」と言われたイエスの宣言を思い起こしてください(ヨハネ17・16~18)

私たちは神の御国の者です。天に属する者です。その自覚と誇り、そして神が立ててくださったという謙遜をもって働くことができますように祈ります。