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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

ヨハネの黙示録 4章

2023年04月19日 | ヨハネ黙示録
ヨハネの黙示録 4章
24人の長老は、御座にいます方の御前にひれ伏し、世々かぎりなく生きておられる方を拝み、彼らの冠を御座の前に投げ出して……
(4・10)


先の第2~3章はキリスト教会に対する主イエスからのメッセージでしたが、第4章からは場面が変わります。その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあったとあります(4・1)。その後とは〝教会時代の後〟という意味です。

教会時代とは、イエスを信じる人々によってキリストの花嫁が形成される時代のことです。この時代は、ユダヤ人の他に異邦人も加わり、隔ての中垣をこえた〝ひとりの人〟として形づくられる時代のことです(エペソ2・15)。その〝ひとりの人〟とはキリストの花嫁という〝ひとり〟です。

後に、キリストの花嫁なる教会の構成員はユダヤ人よりも異邦人の数が圧倒的に多くなりました。そこで、教会時代のことを〝異邦人の期間〟とも言います。異邦人の期間には終わりがあります(ルカ21・24)。それは「異邦人が完成する時」です(ロマ11・25)。この期間が終わると、スイッチが切り替わるようにして次の段階へと展開します。

そこで黙示録につながるわけです。教会時代が終わって、その後のことです。異邦人の期間が終わって、その後のことが黙示録4章からの記録です。

教会の時代は、〝教会が天に引き上げられる〟ことで終わります。教会時代の様々な試練を経て養われたキリストの花嫁なる教会は、天でキリストとの婚礼を迎えるために引き上げられるわけです。その出来事を神学用語で携挙と呼びます。

ですから黙示録4章では、教会が携挙されて場面は天上に移ります。

黙示録は象徴的な表現が多いため解釈も様々に分かれるところです。ですから、心を広くして、心のポケットをたくさん用意して読んでください。

いずれにしても、黙示録の文言だけによる性急な解釈は避けるべきです。多くのキーワードは旧約聖書にあります。そして、新約聖書もふくめた聖書全体からの理解が必要となります。

話しをもどして結論から申し上げます。第4~5章は、天に引き上げられた教会の様子が預言されており、第6~20章は、教会時代の後の地上における患難期の預言です。

この患難期を前に、キリストの花嫁である教会は天に引き上げられるのです。つまり携挙が起きます。携挙について聖書はこう記しています。

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(Ⅰテサロニケ4・16~17)

すでに死んだクリスチャンが復活し、それと同時に、その時点で地上で生きているクリスチャンは一瞬にして復活の体に変えられて、天に引き上げられます。とても不思議な出来事です。

「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは残される」とイエスが言われたことも、この時の出来事、つまり携挙をあらわしていると考えられます(マタイ24・40)

携挙が実現した日を境に世界情勢は激変するでしょう。多くのクリスチャンが忽然と姿を消してしまうのですから、残された人々はいったい何が起こったのか、にわかには理解できないはずです。

しかし、地上に残された人々は聖書(特に黙示録)を手がかりにこの出来事が携挙であり、その後の患難期が何を意味しているのか、そして、この期間をどう生きるべきなのかをやがて理解することでしょう。そして、この「朝マナ」も、その人々に重要な視座を提供することになるでしょう。 ※携挙は〝患難期の直前〟にあると私は考えている。他にも、患難期の中期に携挙されるという説、患難期の最後だとする説もある。

教会(イエスを信じる人々)が〝患難期の前に〟携挙されると解釈する根拠が幾つかあります。ひとつは、患難期を預言している第6章以降に「教会」が登場しません。教会については第2~3章で記され、第4章からは「その後のこと」が記録されています(4・1)。つまり患難期は教会時代の後のことです。

いまは「教会の時代」です。教会はユダヤ人から始まりましたが、結果的には異邦人を中心に形成されました。旧約ではユダヤ人が中心でしたが、新約ではユダヤ人は隅に追いやられた格好です。

ユダヤ人(イスラエル)はイエスをキリストとして受け入れなかったので、もはやユダヤ人は歴史の表舞台から消えたかのように思われています。では、旧約で預言されていたユダヤ人の救いの計画は頓挫してしまったのでしょうか。

そんなことはないと聖書は主張しています。ユダヤ人(イスラエル)がイエスを信じないで心をかたくなにしているのは一定の期間であって、異邦人の救いが完成する時までです(ロマ11・25~26)

異邦人の期間が終わると、再びユダヤ人が歴史の表舞台に登場するはずです。患難期は民族的な救いを熱望するユダヤ人と、その実現を阻止しようとする反キリストを中心に展開するのです。

さて、先ほどの「異邦人の救いが完成する時」とは、教会時代の終わりを意味しています。異邦人を中心にして形成された教会が、キリストの花嫁として完成する時です。

その時が満ちたら、花婿なるキリストは花嫁を迎えるために天からくだって来られ、教会を天に引き上げられます。これが携挙です。

ですから教会は―クリスチャンは―花婿を待つ花嫁として、きよさを保って準備する者たちです。たびたび聖書は「目を覚ましていなさい」と警鐘をならしているのはそのためです。

かくして、花婿なるキリストは、愛する大切な花嫁を患難期の地上に放置しておくはずがないのです。その前に携挙されるでしょう。

以上が終わりの時代のアウトラインであり、黙示録を理解するための骨組みです。

さあ、天に引き上げられた教会の様子を見てみましょう。まず、天にひとつの御座とそこに着座しておられるお方があります(4・2)。父なる神であろうと思われます。5章1節からは、この御座に着くお方が巻物を手にしておられ、それをキリストである小羊が受け取る様子が描かれています(5・7)

次に、四つの生き物が描かれています(4・7)。これは、エゼキエル書1章に記されている幻と同じです。神なるキリストの属性を象徴的に表現する天使です。王である獅子、しもべである雄牛、人、そして神である鷲です。 ※これと連動するように、マタイ福音書は王なるキリスト、マルコ福音書はしもべなるキリスト、ルカ福音書は人であるキリスト、ヨハネ福音書は神であるキリストを描いている。

天では、主なる神への礼拝がささげられています。御座のまわりには24の座があって、24人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていたと記されています(4・4)

24人の長老とは、祭司として神に礼拝をささげる教会の姿をあらわしています。24は祭司の組分けの数であり、24人の祭司を筆頭に他の祭司が属する神殿礼拝のならわしに従っています(歴代上24章)

この24人の長老たちは、天に引き上げられたクリスチャンたちの代表であり象徴と考えられます。

天に携挙されたクリスチャンたちは、白い衣と金の冠をかぶっています。白い衣は聖徒たちの正しい行い、は地上での信仰の戦いと苦労に対する報いです。何と光栄ある主からの待遇でしょうか。

ところが、最高の栄誉である冠も、神の御前にはそれを投げ出して礼拝をします。24人の長老は、御座にいます方の御前にひれ伏し、世々限りなく生きておられる方を拝み、彼らの冠を御座の前に投げ出して…とあるとおりです(4・10)

これこそ、神が求めておられる〝まことの礼拝者〟の姿です。神の御前では、どんな冠も誇りも自慢も何もかも投げ出して、神をほめたたえます。

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者と……。このような天での礼拝を、地上でもささげようではありませんか。


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