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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
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ローマ人への手紙 13章

2022年05月07日 | ローマ書
ローマ人への手紙 13章
あなた方は時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなた方の眠りからさめるべき時がすでにきている。なぜなら今は、私たちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。
(13・11)


……「福音による生活」のつづきです……

(3)福音による生活は権威を尊重する(13・1~7)

神の権威を認めるが、世俗の権威は認めないのは間違いです。神は天の霊的秩序を表現するために、地上においては人を指導者として立てて、権威と秩序をお与えになりました。

「神の権威だけを認める」といえば信仰深く聞こえますが、職場の上司にいちいち反抗していたら秩序は破壊されます。

主の祈りで、「天で御心が行われたように、地にもなさせたまえ」と祈りますが、イエスが天に昇り、神の右に座されたことで、サタンによって汚された霊的秩序を回復なさいました。これが、天で実現した神の御心です。

その天と同じように、地上でもなされますように、と祈っているわけです。ですから地上における権威に従い、秩序を保つことは大切です。

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神へ」と主イエスは言われましたが、直接的には税金のことでした。ここでは、カイザル(ローマ皇帝)の権威を認めて税金を払いなさいと言われています。

しかし、カイザルにゆだねられた権威と神の権威を区別します。

もしカイザルが「私を礼拝せよ」と命令するなら、それはカイザルに賦与された権威を越えています。それは天の権威を超越し、神の権威への敵対ですから、クリスチャンは命がけで反対します。

初代教会の人々が殉教してまで皇帝礼拝を拒否したのは、ローマ帝国を破壊しようとしたわけではありません。カイザルの権威と神の権威を区別し、神の権威に従順したのです。

さて、権威についてもうひとつ注目してくべきことがあります。それは、権威をおびている人々は〝神のしもべ〟であるという点です(13・4、6)。「権威ある者はしもべである」と述べています。

最高の権威をお持ちである御子イエス・キリストでさえ、しもべとなって仕えてくださいました。権威ある者の姿を見せてくださいました。このお方が権威ある立場のすべての基準です。

上に立つ者は、しもべであることを忘れてはなりません。忘れるので、その権威は腐敗し堕落して行きます。牧師しかり。政治家しかり。すべての権威ある者しかり。現代社会に噴出しているリーダーたちの問題はここにあるのです。

(4)福音による生活は律法を完成する(13・8~10)

福音による生活とは「愛する生活」です。イエス様は、「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することだ」と、律法を要約されました。つまり、律法は「愛しなさい」と命令しているわけです。旧約では肉の力でこれを成そうとしてできませんでしたが、新約では、肉の力ではなく聖霊によって成す時代です。

福音には、「御子によって罪がゆるされた喜び」と「聖霊によって罪に打ち勝つ喜び」の二面があります。前者だけで終わらず、後者の恵みも得る生活によって、律法の目指すところを完成するのです。

(5)福音による生活とは時を知る生き方(13・11~14)
「時」とはイエスが再臨される時のことです。眠りからさめるべき時……それはイエスが再臨なさって死者は復活し、その時、地上で生きている者は一瞬のうちに復活の体に変えられる……その時のことです。

福音による生活とは、その時を知っている者の生活です。主イエスの再臨にフォーカスを合わせて生きることです。

夜明け近くになり、惰眠をむさぼってウトウトとしていると、「あっ時間が過ぎている。わぁ間に合わない!」なんてことがあります。イエス様が来られた時、そんなことになるなと警告しています。

あなた方の眠りからさめるべき時がすでにきている。なぜなら今は、私たちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからであると聖書は警鐘を鳴らしています。

罪に翻弄されている生活は、霊的には眠った状態です。そんな状態で、主イエスが再臨された時、罪でよごれた服でお迎えしますか。聖歌で歌う「花婿なるキリストを迎えに出られるか。罪のシミのない服を毎日きておるか」の歌詞のごとく、目覚めて備えていますか。そのために聖書はこう勧めています。

「夜はふけ、日が近づいている。それだから、私たちは、闇のわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなた方は、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(13・12~14)

新共同訳聖書はこう訳しています。闇の行いを脱ぎ捨てて……主イエス・キリストを身にまといなさい」。つまり、着ている服が重要です。「主イエス・キリストを着る」ことです。

人は着ている服で行いが導かれます。スーツを着て土木工事をしません。学生服を着て風俗店には入れません。カソリックの僧侶が僧服をまとっているのは意味があります。僧服を着ながら、罪をおかすことはできません。そういう意味で、僧服は、罪をおかすことから身を守ってくれるわけです。

それと同じように、イエス・キリストを着なさいと命じています。肉眼では見えない服ですが、信仰をもってイエス・キリストを着ていると意識すべきです。イエス・キリストという服は、私の行動をコントロールしてくれます。罪から遠ざけてくれます。

今日も時を知って、目覚めていることができますように祈ります。
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。

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