ローマ人への手紙 1章
このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。(1・5)
今日からローマ教会への手紙です。手紙の送り主は使徒パウロです。ローマ教会といっても、会堂や組織だった集まりではありませんでした。ローマにある家の教会として活動していました。
聖霊がくだった五旬節の祭(ペンテコステ)の日に、巡礼のためにローマからエルサレムに来ていたユダヤ人が、福音を受けて始まった教会であると考えられます。
実はこの時点でパウロはローマ教会に訪問したことがありません。パウロ書簡の多くは、パウロの宣教活動で生み出された教会あてに書かれているので、教会の諸問題に関する具体的な指導が中心に記されていますが、まだ訪れたことのないローマ教会への手紙では、福音を論理的に整理し、キリスト信仰の基礎となる神学を丁寧に展開している点が特徴です。
新約聖書の並びでいえば、四福音書と使徒行伝に続いて、書簡集の最初に本書が編集されたのは意義深いことです。※記された年代順ではなく、テーマ順である。
さて、本題に入りましょう。冒頭でパウロは、自分が使徒として召された目的は、「御名のために、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためだ」と記しています。そして、この目的は、神ご自身の目的でもあります。
「神の御名のための従順」。これは大切なテーマです。神の意図の根幹をなしています。 ※神の御名への従順は信仰がなければできない。信仰の従順でもあるわけだが、ここでは要約して、「神の御名のための従順」と表記する。
神を愛するとは、神の御名を愛することです。神に仕えるとは、神の御名に仕えることです。神を直接見ることもふれることもできませんが、私たちは神の御名を讃美し、神の御名を礼拝します。
人は自分の名を尊びます。肉体の苦難は耐え難いことですが、それ以上に、自分の名が卑(いや)しめられることは、さらに耐え難いことです。究極的には、人は自分の肉体より、我が名を尊びます。たとえ肉体を死にわたしてでも、我が名の名誉を守ろうとします。それが人間としての尊厳です。
名を尊ぶという感覚……それは人が霊的な存在だからです。
霊的存在ではない動物にはない感覚です。動物は、自分の肉体のために生きているのであって、自分の名のために生きようとしません。また、自分に屈辱的な名を付けられても気にしません。
しかし人は違います。それは、人が神に似せて創造された存在であるからです。人をそのように創造なさった神は、なおさら、ご自分の名を尊ばれます。
ですから、神は、ご自分を目に見える物質に表現することを嫌われます。それが「偶像」です。目に見える何かを拝むのではなく、神の御名を礼拝することを願われます。神の御名を尊ぶこと……これは神の尊厳です。
旧約の預言者マラキは、神の御名の尊厳を語りました。要点をまとめておきましょう。
うわべでは神を礼拝しているが、汚れたもの、傷のあるものを献げる人々に向かって、それは神の御名をあなどることだと指摘しています(マラキ1・1~14)。
神の御名はすべての国々であがめられる名です(マラキ1・11)。神が人を創造なさった目的は何ですか。それは神を敬う子孫を得るためです(マラキ2・15)。 ※口語訳・文語訳を参照。神はたくさんの霊を造ることができるお方なのに―事実、天使たちは各々の霊として創造された―どうして人間はたった一つの霊として造られたのか。それは神を敬う子孫を得るためであると訳されている。
終わりの日が来る。それは裁きの日であって、その時、神の御名をいやしめる者たちは焼きつくされ、神の御名を恐れあがめる者には義の太陽が昇り、神の栄光で輝くのだ。これがマラキが預言した主旨です。
神は、ご自身の御名があがめられる世界を目指しておられます。御名をあがめる場所として、神は天を創造し、天に神の名を置かれました。天とは、被造者たちが神の御名に仕えるところです。
ですから、私たちは主の祈りでまず祈るのです。「御名があがめられますように」。御父と御子と御霊……三位一体の神の名は「イエス」です。イエスの御名を讃美しましょう。※「朝マナ」のヨハネ17章を参照。
すべてはイエスの御名が讃美されるためですから、どんな時も「イエスさま感謝します」と告白しよう。
私たちが救われたのは、イエスの御名に仕えるためです。イエスの御名を讃美するためです。すべての国民が御名を尊ぶ従順な者たちになるために、神はパウロを召されました。そして、私たちも召されています。
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