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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

創世記 20章

2023年12月16日 | 創世記
創世記 20章
そこでアブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしため達をいやされたので、彼らは子を産むようになった。
(20・17)


何ということでしょう。アブラハムはかつてエジプトで妻を妹と偽ったことと同じ過ちを、ゲラルの王アビメレクに対しておかしました。

聖書は、優秀で特別な人々の記録ではなく、あやまち多き罪人たちの記録です。しかも、そんな多くのあやまち中でも、神は信仰者たちを哀れみ、忍耐強く取り扱われた恵みの記録です。

この時も神はアビメレクの家に介入なさり、サラを守ってくださいました。このことを通してアブラハムは、自分が「祝福の基」としていかに重要な立場であるかを、畏れをもって知ることとなりました。

神の約束はこうでした。アブラハムを祝福する者を〝神が〟祝福し、アブラハムを呪う者を〝神が〟呪うのです。

今回の事件もアブラハムに非があるのですが、結果的にアブラハムに害を及ぼすことになったアビメレク王を、〝神が〟撃たれました。

アビメレクは、アブラハムにあらわされた祝福の法則を知って、アブラハムを祝福して帰しました。その結果、アビメレク王を〝神が〟祝福されました。

アブラハムは自分の言動が、周囲の人を祝福したり、逆に、呪いさえをも与えることになると、この事件を通して自覚したことでしょう。

だから、アブラハムはアビメレクのために、神に祈りました。何はともあれ神に祈ったのです。失敗をしても神に祈る。格好悪い結末でも、相手のために神に祈ったのです。これがアブラハムに与えられた祝福の基としての使命なのです。

こうして、自分にはまだ子がいないのに、アビメレク家の不妊が癒されるように祈りました。「祝福の基」として召されたアブラハムは、まずアビメレクのために祝福を祈ったのです。

この使命は私たちも受けついでいます。だから私たちも祈ろう。私たちから「祝福の連鎖」が始まるように祈ろう。


創世記 19章

2023年12月15日 | 創世記
創世記 19章
彼はためらっていたが、主は彼に哀れみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置かれた。
(19・16)


ソドムとゴモラの町を滅ぼすとの知らせは、ふたりの御使によって、ソドム在住のロトに伝えられました。この御使たちとは、先のアブラハムに現れた3人の御使の内のふたりです。

この危急の知らせは、にわかには信じがたいことでした。ロト自身もためらっていたのです(19・16)。神の御言に対する「ためらい」は、いったいどこから来るのでしょうか。それは、自分の肉なる思いと神の御心との間に生じる葛藤です。

アブラハムは、かつてネゲブの飢饉を逃れてエジプトに下った経験とか、ハガルによってイシマエルを生んだ経験などを通して神の取扱いを受け、肉なる思いを砕かれてきました。

かたやロトは、主なる神を信じているとはいえ、自分の思いのままに生きてきました。快適で豊かなソドムの町に憧れてそこに住むようになったのも、彼の肉的な価値観から出たことです。

ちょうどコリント教会にはイエスを信じて救いを受けてはいるものの、御霊に属する人と、肉に属する人とがあったのに似ています。

神の訓練を通して、神の思いをわが心とするようになっていったアブラハムと、信じてはいるが御利益のために信じているのであって、自分の肉なる考えを優先してきたロト……このふたりは対照的です。

アブラハムは御霊に属する人の型であり、ロトは肉の人の型です。あなたはアブラハム型だろうか。それともロト型だろうか。御霊に属する人なのか、それとも肉の人だろうか。

あのコリント教会の肉なる人に対する警告は、「それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」と言われています(Ⅰコリ3・13)

ロトも、ソドムとゴモラに降りそそいだ火によってその結果が明らかにされました。でも、救いを逃したわけではありません。その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう(Ⅰコリ3・15)とあるように、ロトは今まで得た肉の財産を失いましたが救われました。

さあ、話しをもどしましょう。こういうわけで、ロトは神の御言に対してためらいました。彼の肉なる価値観がためらいを生じさせたのです。神の御言をためらうことなく受け入れる人は幸いです。

しかし、そんなためらいのあるロトに、主は哀れみを施されたと聖書は記録しています。ふたりの御使はロトとその家族の手を取って無理矢理に町の外に連れ出しました。このように、時には、神の強制的な対処がなければ、私たちは滅びてしまいます。

言われて仕方なく聖書を読んだり、祈ったり、奉仕することもあるでしょう。そのような束縛と思えるような中にあえて神が追いやられるのも、神の哀れみであることを知ろう。

その後、ロトの娘たちは父であるロトを通して子をもうけたことが記されています。信仰はありながらも長年ソドムに居住することで、その地の不品行の影響を受けていたのだろうと思われます。残念な結果です。


創世記 18章

2023年12月14日 | 創世記
創世記 18章
主は言われた、
わたしはその10人のために滅ぼさないであろう」。(18・32)


主はアブラハムを訪ねて来られました(18・1)。見える姿で、しかも人の姿で現れています(2)。18章では、主がおいでになったという文脈で、それは3人の人であると記録しています。彼らは御使(天使)です。神ご自身が見える姿で現れたのではありません。「神を見た者はひとりもいません」(ヨハネ1・18)。新約に至って、神のひとり子イエスだけが、見える姿で神を表しました。ですから、旧約における神の顕現は、御使の現れだと考えられます。

※3人の御使の内のひとりが、〝主〟の名を受けて現れた御使だと仮定しよう。その後、3人の内のふたりは、ソドムに向かうが、残りのひとり、〝主〟の名を受けた御使は、なおもその場に残ってアブラハムとやり取りをしている。

※「その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお〝主〟の前に立っていた」(18・22)。ソドムに行った「その人々」とは、19章1節で「そのふたりの御使」と説明されている。

※旧約で見える姿となって現れた主とは、〝主〟の名で遣わされた御使である。見えない存在である神が、直接、見える姿を現すことはない。しかし、神が、〝主〟の名で御使を派遣して語ったことは、神が語ったことと同じである。


※神が見える姿で現れたのは「イエス」という名で御子が来られた時が初めであり唯一である。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ、父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわした」と、聖書は宣言している(ヨハネ1・18)。

※「御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」(ヘブル1・4)とあるが、旧約は〝主〟という名を受けた御使が現れ、新約では〝イエス〟という名を受け継いだ御子が現れた。当然、御使が語ったことより、御子が語られたことが確かであると、新約の優位性をヘブル書は論述している。

アブラハムは彼らを見るや、急いでもてなしました。その内のひとりが「主」という名で現れた御使です。

彼らは2つの目的で来ています。第1は、アブラハムとサラ夫妻に来年の今頃に約束の男子イサクが誕生することを告げるため。第2は、ソドムとゴモラを滅ぼすにあたり、ロトの家族を救出するためです。

さて、ソドムとゴモラの堕落ぶりははなはだしく、遂に神は、その町を滅ぼすことになさいました。しかし、その滅亡の予告を聞いたアブラハムは執り成しをしました。

「正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に50人の正しい人がいるなら、それでも滅ぼされるのですか」。それに対して主はその50人の正しい人のために滅ぼさないと応えられました。

では、45人では。40人では。……10人の正しい人がいるなら……。すると主はその10人のために滅ぼさないと応えられました。しかし、実際にはロトの家族の他にはいなかったため、ロトを救出し、町は滅ぼされることになったのです。

私たちは「全員」が良くなることを求めて、今の社会はどうのこうのと嘆いたり批判します。教会でもその批判の鉾先は、その誤りや欠点に集中しがちです。

しかし、神は、全員の正しさではなく、10人の正しい人を探しておられます。そして、その10人のゆえに全体をゆるし、憐れんでくださる神です。最終的には、たったひとりの正しい人であるイエス・キリストによって、全人類を救おうとなさるのです。

「全員」を問題にする前に、私が10人の正しい人として召されていることに畏れを感じるべきです。10人という少数者であっても、世の光・地の塩としての役目を果たすことができるように祈ろう。

さて、アブラハムと主とのやり取りは執り成しの祈りですアブラハムはもはや私人として生きるのではなく、人々のために執り成し、人々と神との和解のための祭司として生きる姿をここに見ます。これは、祝福の基となるべく召された者の大切な務めです。キリストにあってアブラハムの子孫とされた私たちに、この執り成しの祈りの務めがゆだねられています。

社会を憂うだけでなく、執り成しの祈りが必要です。「みんな」を問題にする前に、自分も10人の正しい人として全うできるために祈ろう。


創世記 17章

2023年12月13日 | 創世記
創世記 17章
アブラムの99歳の時、主はアブラムに現れて言われた。
(17・1)


アブラムがカランを出発したとき75歳でした(12・4)。主は約束の地カナンの土地所有と子孫の繁栄などを約束されました。しかし、あとを継ぐ子もなく、具体的には何も進展していないように見えました。神の約束の実現には「神の時」があります。そのタイミングは私たちの期待と異なる場合がほとんどです。

アブラムとサライは神の時を待ちきれずに、女奴隷ハガルによって子を得ましたが、それは神の御心ではなく、神の方法でもありませんでした。アブラム86歳の時でした(16・16)

こうして失意の内に13年が経過し、アブラムが99歳になって、主は現れて来年、アブラハムとサラとの間に子が生まれると約束されました。ついに「神の時」がきました。

ここにいたるまで、アブラムは人間的な可能性を使い果たしました。子を生むことに関してはまったく無力になっていました。このように「神の時」は、多くの場合、私たちが無力になった時です。

それは「自分がそれをしたのだ」と高慢にならないためです。「わたしの力はあなたの弱いところに完全に現れるのだ」(Ⅱコリ12・9)と主は言われます。ですから、私たちにも、アブラムのように〝失意の13年〟があるのです。しかし、それは神の御業が現れるために通過すべき道です。

私が救われたのは、自分に何か良きものがあったからですか。人間的な功績が認められたからですか。誇るものもなく、罪人で、無力で、無きに等しい者であった時、主は救ってくださったではありませんか。

さて、この時から神は、アブラムをアブラハムと呼ばれ、割礼を命じられました。男性の包皮を切り取る儀式です。 ※アブラム〈偉大な父〉は、アブラハム万国民の父〉と改名。妻サライ〈私の女王〉は、サラ国々の母〉と改名。子がいないのに、互いが「万国民の父」「国々の母」と呼び合ことで、神の約束を確認し続けることになった。かくして約束は遂に実現するのだ。

礼は、後の新約においては心の割礼を意味していますつまり、かたくなな心が砕かれ、切り裂かれることを意味しています。自分中心という頑固が砕かれること。それが心の割礼です。神に反発する自我が砕かれること。それが心の割礼です。

アブラハムは割礼を受けて、「神の時」が実現しました。つまり、約束の子イサクを得ました。そのように、私たちも約束の結果を受け取るには心の割礼を経なければなりません。

〝失意の13年〟に意味があります。心の割礼に至るための、神の慈愛に満ちた取り扱いだからです。あなたは心に割礼を受けたでしょうか。神に対するかたくなな心は打ち砕かれたでしょうか。


創世記 16章

2023年12月12日 | 創世記
創世記 16章
そこでハガルは自分に語られた主の名を呼んで、『あなたはエル・ロイです』と言った。
(16・13)


神は、アブラムの子孫を星の数のようにすると約束されましたが、年老いたアブラムと妻サライには一向に実現しそうにありません。

そこで、サライはひとつの提案をしました。自分には子ができないので、女奴隷のハガルによって夫アブラムの子を得ようというのです。このような方法で子孫を得ることは、当時の一般的な慣例でした。

そうか!神はそういう方法で「子孫を増やす」と言われたのか。アブラムも同意して実行しました。そして、女奴隷のハガルは身ごもったのです。しかし、それを機にハガルは、女主人であるサライを見くだすようになりました。

これでは本末転倒。妻であるサライの立場がありません。サライは厳しい仕打ちをハガルに向けるようになり、ついに女奴隷ハガルはサライの顔を避けて逃げ出しました(16・6)

自分に代わってアブラムの子をはらむようにとサライが言わなければ、ハガルはサライのもとで平穏に過ごしていたはずです。実に理不尽な結果です。それに、この問題に誠実に対応しないアブラムの態度にも忸怩(じくじ)たるものを感じます。

神には神の方法があります。人間的なやり方で実現しようとして、返って問題を大きくすることもあります。神の御言は、肉によってではなく、御霊によって成就して行くからです。神の御子を身ごもることになったマリヤが、「御言の通りこの身になりますように」と告白したごとく、御霊の導きを信頼し、この身をまかせるのです。

さて、ハガルは行く当てもなく荒野をさまよいました。そんな中、主の御使が現れて、

①戻って女主人に仕えよ
②お腹の子をイシマエル(「神は聞かれる」の意)と名付けよと告げました(7~12)。
このことでハガルは、顔も見たくないと思っていたサライのもとに帰る勇気を得ました。

それは、奴隷の自分さえも、主はご覧になっているのだと知ったからです。それまでのハガルにとって、神である主は、アブラムにしか現れてくださらない遠い存在でした。しかし今や、主が、こんな私にさえ語ってくださいました。

ハガルはこの時以来、主はエル・ロイと告白できるようになりました。エル・ロイとは神は私をご覧になっているという意味です。

この視点が重要です。肉の感覚は「人の目」を意識します。ハガルが身ごもったことで高慢になったのも、また、サライがハガルに反撃したのも、みな肉の感覚から生じるトラブルです。

ハガルはこの事件を通して、霊的な視点が開かれるようになりました。それが「エル・ロイ」です。神が私をご覧になっているという視点です。

人知れず悲しみや苦しみに明け暮れることがあります。自分の労苦を誰も認めてくれない時もあります。しかし、告白しましょう。「主は私をご覧になっているのだ。私の主はエル・ロイです」と。


創世記 15章

2023年12月11日 | 創世記
創世記 15章
アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。
(15・6)


アブラムは恐れていました。ひとつは、ケダラオメル軍の反撃を恐れました。また、ソドム王からのほうびを断ったことへの今後の影響を思うと、それもまた恐れとなりました。

だからこそ主は、アブラムよ。恐れてはならないと励ましてくださいました(15・1)

アブラムは神の祝福こそ本物だと信じるがゆえに、ソドムの王のほうびを断りました。しかし、後になって不安になりました。信仰ぶらないで受け取っておけば良かったのでは……と。この地の権力者と良い人間関係を作っておけば、暮らしぶりも安定するのに……。そんなことを思い巡らしていると、恐れが生じてきたのです。

神の御言を信頼するより、財産や人間の方が頼りがいがあると思える時があります。神の約束がいったい何になるのだろう。神の約束に自分の人生を賭けても大丈夫だろうか。不安になり、恐れます。

信仰は冒険です。見えない神を信頼して旅立つのです。具体的な確証もないのに、神の約束である御言を信頼して人生の重要な決断をするのです。そんな信仰による冒険には恐れが伴います。本気で信じるからこそ、恐れもまたつきまといます。

そんなアブラムに、神はさらに約束されました。

あなたの子孫は星の数ほどになるのだ(15・5)と。アブラムはこの神の約束(御言)を信じました。それを神は喜ばれました。人間的には何の根拠もありません。ただ、神がそう言われるので信頼します。それが信仰です。人間的な根拠や理性を越えて、御言を信頼してジャンプするのです。

父親が約束したことを、子どもが「どうせ父さんは口だけなんだから」とか、「そんなこと言っていても途中で気が変わるんじゃないの」などと疑うなら、親としては悲しいことです。逆に、「父さんのことだから信じるよ」と信頼してくれるなら、父親冥利につきるというか、嬉しいものです。

信仰もそれと同じです。私たちの父である神は、私たちが神の約束を信じることを喜ばれます。そして、満足なさいます。天の父を信頼して、神の御言の中にジャンプすることを大いに喜ばれるのです。

それが信仰です。そして、そのような信仰を神は喜ばれ、義とされるのです。

私の立派な何かを根拠に喜ばれるのではなく、子が父を信頼するように、神を信頼し、神の御言を信じることを神は喜ばれるのです。そのような者を神は義とお認めになるのです。

高齢になり、いまだ子のないアブラムは、これからどうなるというのでしょうか。不安や恐れをいだくのも当然です。そんなアブラムでしたが、あなたの子孫を星の数ほどにするのだという神の約束を、幼な子のように信じたことを神は喜ばれ、義とされました。私たちもアブラムの信仰に続こう。


創世記 14章

2023年12月09日 | 創世記
創世記 14章
アブラムはメルキゼデクに全ての物の10分の1を贈った。
(14・20)


エラム王ケダラオメル連合軍と、ソドムの5人の王たちの連合軍との戦争が起きました。ソドム在住のロトたちも戦渦に巻き込まれ、ケダラオメル軍の襲撃を受け、捕虜として連れ去られてしまいした(14・1~12)

その知らせを受けたアブラムは、たった318人の従者を引き連れてケダラオメル軍を打ち破り、ロトとその家族はもちろん、ソドム連合軍の失った財産も取り返しました。

この勝利は周囲を驚かせました。まさにソドムの王たちからすればアブラムは英雄です。ソドムの王は凱旋するアブラムを大いに歓迎しました。

かたや、サレムの王メルキゼデクもアブラムの帰還を出迎えてくれました。彼は当時の霊的指導者として尊敬を受け、人々からはいと高き神の祭司と仰がれる崇高な王でした(14・17~18)。彼はアブラムに向かって願わくは天地の主なるいと高き神が、アブラムを祝福されるように。願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された、いと高き神があがめられるようにと祝福したのです(14・19~20)。まさに今回の勝利は、神である主の恵みであったのです。 ※当時アブラム以外にも主を信仰する者はいたと考えられる。メルキゼデクは後のキリストのひな型である(ヘブル7・17)

アブラムはメルキゼデクと出会うことによって、さらに信仰の目を開くことができました。この出会いがなければ、たった318人で勝利したことで傲慢になり、自分の栄光にしてしまったかも知れません。だから、アブラムは10分の1の献げ物をメルキゼデクに贈り、神に栄光を返しました。

話を整理しましょう。ふたりの王がアブラムを出迎えたわけです。神である主に栄光を向けようとするメルキゼデクと、何やら人間くさいはかりごとがプンプンと匂ってくるソドムの王。このふたりです。

ソドムの王はアブラムに提案しました。私には人をください。財産はあなたが取りなさい(14・21)。人質はソドムの王に返し、財産はアブラムに褒美として与えるというものでした。なかなか良い条件じゃないですか。 ※この関係は教会が世の権力と結びついて保身と繁栄を得ることを意味している。

しかし、アブラムは受け取りませんでした。私は糸一本でも、靴ひも一本でも、あなたのものは何にも受けません。アブラムを富ませたのは私だと、あなたが言わないように(14・23)。本当の所有は、神からのものだからです。

アブラムはソドム王の提案に邪悪な下心を感じ取ったのです。メルキゼデクに出会っていなかったなら、ソドム王の提案にひそむ罠を見抜くことができなかったでしょう。本物を見ているからこそ、邪悪なものを見抜けるのです。

主に栄光を帰するために10分の1を献げると共に、邪悪な富は受け取らないことを通して、アブラムは所有についての神の原則を学びました。

このことも、アブラムがまことの礼拝者となるための大切なレッスンとなりました。主イエスが「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたように、富は神にとって代わる魅力があります。富とその所有について正しく管理することは、神に正しく仕えることに通じる道です。


創世記 13章

2023年12月08日 | 創世記
創世記 13章
あなたが左に行けば私は右に行きます。あなたが右に行けば私は左に行きましょう。
(13・9)


先の12章で、神は、まことの礼拝者を求めてアブラムを召されたことを見ました。そのための第一歩は、国を出て、親族に別れ、父の家を離れて神の導かれる地に出て行くことでした。

次に、神がお与えになったレッスンは神の主権を学ぶことでした。

神は、カナンの地をアブラムとその子孫に与えると約束なさいました。神は、この約束の地を通してご自身の御業をなさるからです。しかし、カナンの地が飢饉となった時、アブラムはエジプトに移住してしまいました。

この時、アブラムは二つの失敗をしました。第一に、約束の地を離れてしまったこと。第二に、自分の妻サライを妹だと偽って自分の身の安全を保とうとしたことです。

サライはとても美しい女性であったので、彼女を得るために夫を殺して奪おうという荒くれ者たちがエジプトにはいたのでしょう。そこで、自分が兄であれば、人々は自分に良くしてくれると考えたわけです。やがて、サライの評判はエジプトの王パロの知るところとなり、パロはサライをめとることにしました。

「サライは私の妻です」と言って断らないアブラムこそ問題なのですが、神は、パロの家に疫病をもたらして、その愚行を正されたのです。その結果、サライがアブラムの妻であることが判明し、パロはアブラムとサライに、エジプトから立ち去るように命じました。体よく追い返されたのです。しかも沢山の〝お土産〟つきで……。

ここに神の主権の確かさが示されています。アブラムの失敗をはるかに超えて、〝神が〟主導権を握っておられます。アブラムが約束の地を離れることがないように、そして、アブラムとサライとの間から約束の子孫が誕生するように、神が主導権を握っておられます。

アブラムは、このエジプトにおけるレッスンを通して、主権は神にあることを学びました。

こうして第13章に入るわけです。アブラムは甥のロトと行動を共にしてきたのですが、互いに財産が増えたため、共に住むことができなくなりました(13・6)。そこで、彼らはそれぞれ別の地域に住み分けることにしました。

その地域とは、ヨルダンの低地とよばれる肥沃な地域と、片や痩せた地域でした(10)。しかしアブラムは、どちらの地域を選ぶのか、その選択権をロトにゆずりました(9)

ロトは肥沃なヨルダンの低地を選び取りました。そのためアブラムは痩せた地域に移動しました。しかし、この選択がやがて両者の明暗を分けることになろうとは、二人は知る由もありません。

アブラムは先のエジプトでの失敗によって、真の主導権は神にあることを学びました。だから、あえて自分が主導権を握ろうとしなかったのです。神の導きとご支配を信頼することにしたのです。

しかし、アブラムと行動を共にしてきたロトは、神の主導権について学んでいませんでした。だから、彼は自分の手で目先の富をつかみました。ロトは主導権を握ったようですが、やがてソドムとゴモラの滅びの時にすべてを失ってしまいます(19章)

一方、神はその後、アブラムにあなたの見渡す地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えると約束なさいました(13・15)。つまり、アブラムは「神の約束」(神の御言)を受け取ったのです。

アブラムが受け取った地は痩せていましたが、神の御言を受け取ることこそ本当の豊かさです。アブラムの選択は、ロトと比べるなら損をしましたが、神の御言を受け取ることこそ祝福です。

ロトのように、自分の手でつかむことは確実なようですが、実はそれを失います。しかし、神の御言をつかむことこそ本当の所有となることをアブラムは学ぶのです。主が与えるのでなければ所有とはなりません。「主は与え、主は取り去られる。主の御名はほむべきかな」です(ヨブ1・21)

 


創世記 12章

2023年12月07日 | 創世記
創世記 12章
時に主はアブラムに言われた、
あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい(12・1)


神は、先の洪水の中からノアの家族を選び、新しい民を得ようとなさいました。さらに、その中から、神はセムの子孫を選び、さらに、その中からアブラムを選ばれました。

このように、神は、いつの時代も、ご自分に相応しい聖なる民を得ようと求めておられます。神を敬い、神を礼拝する忠実な民を得ようとなさっているのです。それは、そのような民によって天の御国を満たし完成するためです。

ここに神の意図があります。神が人間を創造なさった目的の核心部分です。イエス・キリストも、わたしの父は、まことの礼拝者を求めておられるのだと語られました。

まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。(ヨハネ4・23)

このように、まことの礼拝者を求めて、神はアブラムを選ばれました。

そのための第一歩は、冒頭の御言が語るように、あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさいというものです。

アブラムが住んでいたのは、当時のメソポタミヤ地方の中心地であるウルという都市でした。文明の中心かつ偶像礼拝の盛んな土地です。そのような偶像の地から「出てきなさい」と呼び出されました。まことの神から目をそらし、世の富を神とする地から出てくるようにと、神は呼び出されました。

※創世記12章では「ハランという地から呼び出された」と記されているが、それ以前にウルから呼び出された。ウルから出た時は父親のテラも連れての大移動であった。あまりにも大所帯なので、ハラン(カラン)に一時定住した。父親の死後、再び神は呼び出された(使徒7・2~4)。使徒行伝と創世記を合わせ読むことで、神はアブラムを2回にわたって呼び出されたことが分かる。創世記12章はその2回目の呼び出しである。神は忍耐強く呼び出しておられる。

このように、主はいつも呼び出す神です。アブラムをメソポタミヤの地から呼び出し、イスラエルの民を奴隷の地エジプトから呼び出し、後のユダヤ人を捕囚の地バビロンから呼び出されました。

新約の時代も同じです。神は、私たちを罪の世界から呼び出されました。罪と闇の世界から呼び出され、私たちはキリストのゆるしと光の世界へと出てきた者たちです。

なぜアブラハムの子孫たちがヘブル人と呼ばれるようになったのでしょうか。「ヘブル」とは川向こうの人」「川を渡った人という意味です。まさに、アブラムは、チグリス・ユーフラテス川を渡って、神が指し示す地に出て行ったわけです。

むかし、川を渡ることは大変なことでした。簡単に戻ることができない世界への旅立ちでした。ですから、川を渡ることによって過去に区切りをつけ、新しい世界への出発となったわけです。

このようにして、アブラムは偶像礼拝の地を葬って出てきたのです。そのような人々を、聖書は「ヘブル人」と呼んでいます。

奴隷の地であったエジプトを出立したイスラエルも、紅海という川を渡って出てきました。まさにヘブル人です。しかし、その後、彼らの多くはエジプトを恋い慕って荒野で滅びてしまいましたが……。

私たちはどうでしょうか。イエスを信じて、悪魔が支配する罪の世界から出てきました。そして、川を渡るようにしてバプテスマを受けました。私たちも新約時代のヘブル人です。罪の奴隷であった身分を、バプテスマという名の川の中で葬って渡って来ました。自分中心という世界も葬ってしまいました。富を主人とする生活も葬って出てきました。それは、私たちがまことの礼拝者となるためです。

旧約の時代に、アブラムもそのようにして川を渡りました。そのアブラムを、神は祝福の基と定められました。彼から、神の祝福が流し出されるようになさったのです。 

※12章2節、新改訳では「あなたの名は祝福となる」。口語訳は「祝福の基となる」。新共同訳は「祝福の源となる」。


どうか、まことの礼拝者から、神の聖なる祝福が流れ出ますように。祝福の基―祝福の発信基地― に相応しい者として整えられますように祈ります。


創世記 11章

2023年12月06日 | 創世記
創世記 11章
さあ、町と塔とを建てて、その頂きを天に届かせよう。
(11・4)


なぜ人々は、バベルの塔を建てようとしたのでしょうか。彼らは互いに話し合って決めたのです。さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう(11・4)

バベルの塔には、自分たちの力で神に到達しようという願望が込められています。つまり立派になって神に近づこう」「自分の力で神に近づこう。そして、そのことによって自分の名をあげようという自分を誇る考え方です。

しかし神は、そのような人間的な方法を拒絶なさいます(11・5~8)

神の方法は、神の側から近づいて、御子イエスが十字架で私たちの罪の身代わりに死ぬことでした。御子イエスを信じる信仰によって、神に近づけるようになさいました。それは誰も誇ることがないためです。

ですから、聖書は救いについて「決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」と語っています(エペソ2・9)

イエス以外の方法で神に近づこうとすることはバベルの塔です

人々が建てた塔は荘厳であったことでしょう。しかし、だからといって神が喜ばれるわけではありません。主イエスへの信仰がなくては、神に喜ばれることはできません(ヘブル11・6)

また、人間中心の考え方はバベルの塔です

神を求めているようでも、人間の満足のためという人本主義は、バベルの塔がそうであったように、やがて混乱と崩壊をまねきます。神の御言を土台としない建物はかならず滅びます。

「バベルの塔」に象徴されるバビロン的思想は、以後、イスラエル民族とキリスト教会の歴史の中に忍び込んで、繰り返し神の民を堕落と混乱に追いやりました。しかし、最後のさばきの時、大淫婦バビロンとして滅ぼされます(黙17・1~6)。私たちは惑わされることなく、御子を信じる信仰によって、神の御言を土台にして神に近づきます。


創世記 10章

2023年12月05日 | 創世記
創世記 10章
ニムロデは世の権力者となった最初の人である。
(10・8)


ノアとその家族は、洪水による神の激しいさばきを経たのですが、再び神への反逆の芽が出てきました。特に、ノアの子ハムの家系にそれは現れてきました。

ハムは父ノアの失態を見たとき、義人の堕落ぶりをあざ笑うかのような対応をしました(9・22)。それに対するノアの言葉は、ハムとその子たちが反逆者となることの預言でした(9・24~27)

ハムの子カナンからは、後のカナン人が出て神に敵対しました。その子孫に、あのソドムとゴモラもあります。また、ハムの子クシからは後にペリシテ人らが出て、彼らもイスラエルとその神である主に大いに反逆しました。

特にハムの子クシは、息子にニムロデ我らは背こう)」と名付け、反逆の道に拍車をかけました。このニムロデが世の最初の権力者となった人であると聖書は記しています。彼こそがシナルの地にバベルの塔を建築した人物です。

ハムから芽生えた小さな罪の芽でしたが、その影響力は衰えることなく人類の中に浸透して行くのを見ることができます。

私と私の家族とは主に仕えますと告白したヨシュアのごとく、初代の信仰が肝心です。

祈りましょう。私の子孫からは神への反逆者が生まれることがないように。私の家系からは、主に仕える多くの子孫が増え広がりますように……と。 


創世記 9章

2023年12月04日 | 創世記
創世記 9章
虹が雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思い起こすであろう。
(9・16)


洪水によるさばきは、ノアとその後の子孫にとって強烈な記憶となったはずです。それ以後、ノアから新しい人類の歴史が始まったのですが、彼らは洪水によるさばきを子孫たちに語り継ぎました。

それを裏付けるかのように、世界各地の民族に洪水伝説が残っていますそのほとんどが、我らの先祖は洪水の中、船によって救われたというものです。

さて、そのような恐ろしい記憶を癒すかのように、神は空に虹をあらわして、それを神はもはや洪水によって人類を滅ぼさないという約束のしるしとなさいました。

洪水の生々しい記憶が残るノアにとって、ちょっとした雨でも恐ろしく感じました。いわゆる「トラウマ」です。しかし、そんな雨の後に虹は現れます。そして、「ノアよ!さばきは終わったのだ」という神の宣言を思い出させてくれました。

何か不穏な出来事に直面したとき、過去の失敗とか罪がトラウマのようにして思い出され、恐れや不安にかられることがあります。再び失敗をするのではないだろうか。どうしよう……。

しかし、そんな時、神は「虹」というしるしを見せてくださり、「お前に対するさばきはもう終わったのだよ」と示してくださいます。

では、私たちにとって、そのとは何でしょうか十字架の血はそのしるしと言えるでしょう。ノアが虹を見るたびに思い出したように、私たちも十字架を見るたびに、神は私と和解してくださった、もはや私に対するさばきは終わったことを確信するのです。

旧約の時代のノアにとって「虹」が約束のしるしとなったように、私たちにとっては、イエスの十字架とその血は新しい契約のしるしです。 ※イエスはパンと杯をもって契約をなさった時、杯(十字架の血を意味する)をとって、これは契約の〝しるし〟だと言われた。

そして、世の終わりの時、天の神の御座のまわりにも「虹」が現れるという預言は、実に興味深いことです(黙示録4・3)

さて、洪水後のノアの家族について記録は続きます。ある日、ノアが酒に酔って裸で眠り込んでいる姿を目撃したハムは、その兄弟であるセムとヤペテに告げたとあります。それを聞いたセムとヤペテは、父の醜態を見ないように後ろ向きに近寄り、衣服で裸を覆いました(9・21~23)。この一連の出来事を知って、父であるノアは、ハム(その息子であるカナン)をのろったとあります(9・24~27)

ハムの何が悪かったのでしょうか。

かつてのカインの献げ物の何が悪かったのかという問題もそうでしたが、具体的には記していません(創4・3~6)。アベルのささげ方から類推して、そうではなかった点を神が嫌われたと解釈したように、ハムの場合もセムとヤペテの行いではないことを、神は嫌われているのです。

セムとヤペテは父の恥を覆いました。ノアの失態そのものは誉められたことではありません。でも、彼らはそれを言い広めたり、うわさ話にしませんでした。つまり父の恥を覆ったのです。主である神も、アダムとイブの失態を覆うようにして皮の衣を着せてくださいました。神が求めておられるのは、おおうことではないかと思います。

他者の失態を覆っているだろうか。

他言しないということで覆うこともあります。助けてあげることが覆うことになる場合もあります。神が罪人である私をあわれんでくださって、イエス・キリストという衣で覆ってくださったように、私も他者を覆う者でありたいと願います。


創世記 8章

2023年12月02日 | 創世記
創世記 8章
はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。
(8・11)


洪水は40日40夜降り注ぎ、150日間にわたり水は地上をおおいました。その後、水がひき始め、箱船はアララテ山にとどまりました。この山は現在のトルコ北部国境沿いにある5千メートル級の高山です。

※アララテ山周辺に巨大な人工物らしき痕跡が発見されている。それがノアの箱船のものかは不明。今後の調査研究結果が待たれる。


地表の様子をさぐるためにノアは鳩を放ちました。すると、くちばしにオリブの若葉をくわえて戻ってきました。ついに、地上に植物が茂りだしたのです。鳩がオリブの若枝をくわえて戻ってきたことは、地上における恐ろしいさばきが終わり、新しい世界が始まったことの知らせでした。

オリブの若枝をくわえた鳩は、来たるべき聖霊を表しています。

私たちが水のバプテスマを受けたら、聖霊を受けます。聖霊を受けるとは、神との和解が成立したことの証拠です。バプテスマによって古い自分を葬って、私に対する神のさばきが完全に終わったことの証拠として聖霊を受けます。

ノアはオリブの若葉をくわえた鳩が戻ってきたことを通して平安を得ました。何故なら、オリブの若枝は洪水による神のさばきが終わり、地上に新しいいのちと実りが始まったことの証拠だからです。

ノアの場合と同様に、聖霊は、さばきが終わって神との和解が成立したことの証しです。こうして、新しく始まった世界の実を得るのです。それは聖霊の実です。聖霊の実は、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・忠実・柔和・自制です。

ノアが新しい世界のいのちと実りを享受したように、聖霊を受けた私たちには聖霊の実が用意されています。聖霊は〝鳩のように〟私たちのうちに来られたのです。この知らせを感謝します。

さて、この大洪水と嵐の中を箱舟は守られました。それは、神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられたからです(8・1)。それと同じように、イエス・キリストの中に入った者たちに、神は心をとめられます。キリストの体である教会とその中で生きる者たちに、神は心をとめられます。

ノアが建造した箱船は、現代の豪奢なクルーズ船とは比較にならないほど粗末な造りです。ですから、快適な船旅ではありません。汚くて、うるさくて、時には喧嘩もしたことでしょう。でも、守られました。何故ですか。神が、箱船とその中に居る者たちに心をとめられたからです。

私たちキリストの教会も同じです。小さな教会です。問題が山積しています。あちこち隙間だらけ、吹けば飛ぶような存在です。でも、神が心にとめていてくださるので、嵐を乗り切ることができるのです。
 
 
Youtubeでこの聖書箇所の説教が聞けます。
こちらも是非ご活用ください。
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創世記 7章

2023年12月01日 | 創世記
創世記 7章
鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。
(7・22)


洪水の結果、地上のすべての生物は死にました。水はすべてを葬ってしまいました。私たちは、このような神の、あまりにも大胆な処置に当惑します。

神は実に忍耐強く、慈愛をもって私たちを見守ってくださる方ですが、聖なる義のゆえにさばく神でもあります。神は愛なるお方であると同時に、義なるお方であることも覚えなければなりません。

さて、この洪水はバプテスマを象徴するのだとペテロは記しました(Ⅰペテロ3・21)。洪水によって過去のすべてが葬られたように、私たちもキリストにあるバプテスマの水の中に完全に沈んで、私自身の過去の罪も悪もみな葬ってしまいました。

ここに神の法則が表わされています。

神は罪人である私たちを修理したり改良して、何とか良くしようとはなさいません。思い切って大胆に、罪人を葬ってしまわれます。あのバプテスマによって古い私は死んだのです。洪水によってすべてが死んだように……です。

いま生きているのは、水から出てきて、キリストにつながった新しい私です。

洪水の中から救い出されたノアたちが新しい世界で生きたように、バプテスマの水から出てきた私たちも新しく生きることができるようにしてくださいました。バプテスマに込められた神の法則が、各自の人生の中で実現しますように祈ります。

ところで、この洪水の期間、箱船が耐えられたことに注目してみましょう。

ノアたちが建造した箱船は木製で、大型タンカー並みの大きな建造物です。浸水を防ぐためにアスファルトを塗ったと記録されていますが、それにしてもよく耐えたものだと思います。神の支えなくして乗り切れるものではありません。

教会もまた同じです。よくぞ、わずかな人数の組織や経済力で保たれているものだと思います。牧師である私は、時々恐ろしく感じることがあります。目に見えない信仰だけで、よくぞ教会が保たれているものだと。これはキリストの圧倒的な守りがあってこそのことだと、つくづく感謝するのです。これからも、この地上の荒海を新約の箱船である教会は航海することでしょうが、それを守られるのは神なる主です。

箱船を建造せよと命じられた神が、洪水の中で箱船を守られたように、「わたしの教会を建てよう」と命じられたイエス・キリストが教会を守られるのです。


創世記 6章

2023年11月30日 | 創世記
創世記 6章
 私はあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟に入りなさい。
(6・18)


人は「罪を治めなければならない」と言われたものの、治めることができず、悪がはびこり、思い計ることは悪いことばかりになり(6・5)、ついに、神の前に乱れ、暴虐が地に満ちてしまいました(11)

神は地上から悪を一掃し、ノアとその家族から、神の聖なる働きを始めようとなさいました(12~18)

いつも、神は、多くの者の中からわずかの者を選び、ご自身の御業を託されます。この「残されたわずかの者」を「レムナント」と言い、聖書の中にくり返しでてくる思想です。

つまり、神は、いつもご自身の御業を、残っている小さな者たちからお始めになります。これは神の法則です。「小さい者たちよ、恐れるな!」と主イエスも励まして下さいます(ルカ12・32)

さて、洪水によって人類をさばくことになさった神は、ノアとその家族に箱船を建造するように命じられました。この箱船に入った者は、洪水のさばきの中で救われるのだと約束なさいました。これが、神がノアに結ばれた契約です。

この箱船はキリスト教会をあらわしています。

ノアとその家族は周囲の人々から嘲られながらも、黙々と箱船を造りました。そして、洪水のさばきがあることを人々に伝え、箱船に入るように勧めたのです。このようなノアは、周囲の人々からは「変わり者」と見られたことでしょう。

今日の私たちがキリストの教会を建て上げるのもこれと同じです。キリスト教会は教勢を増すことが主目的ではありません。神のさばきの中で、救いを得ようとする人々を、箱船の中に招き入れることこがその使命です。

神は、「キリストの体という大きな箱船を用意なさいました。この中に入る者は、来るべき最後のさばきという〝洪水〟を乗り越える者たちです。

ノアのように、教会を建て上げ、人々を救いに招くために、私たちも、良い意味で主にある〝変わり者〟であろうと思います。

先のエノクも「神と共に歩んだ」のであり、続いてノアも同じく「神と共に歩んだ」のです。当時もいまも、神と共に歩むことは変わり者の特徴です。私は、そしてあなたは、果たして、人生の終わりに「彼は神と共に歩んだ」と記してもらえるだろうか。