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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

創世記 5章

2023年11月29日 | 創世記
創世記 5章
エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたのでいなくなった。
(5・24)


5章は、人々が罪をおかした結果、神にそむいた記録です。それを象徴するかのように、そして彼は死んだとの記録が続いています。罪人は結局は死んでおしまいなんだと……。むなしい「死」の連続を見るようです。

しかし、エノクの記録だけが違います。神を離れた人間の歩みが闇のような死の連続であったとしても、そんな闇の中に光が輝くかのように、エノクは神と共に歩んだと記されています。

神と共に歩んだので、エノクは〝死んだ〟のではなく、神が彼を取られて〝いなくなった〟のです。やがて後、キリストによって救われたクリスチャンの歩みを予告するかのような記録です。

イエス様は言われました。「わたしを信じる者は、たとえ死んでも〝生きる〟」と。

クリスチャンの死は、「死んだ」のではなく、この地上から「いなくなった」だけで、今も神と共に生きています。私たちの歩みは「死」で終わらないのです。エノクが神と共に歩んだように、私たちもキリストと共に歩むのです。

エノクは神からの啓示を受けて、彼が65歳で生んだ子にメトセラと名付けました。その名の意味は死後何かが起きるです。

メトセラは969歳で死にましたが、丁度そのときノアが600歳の時でした。それは、あの大洪水が地上をおおった時でした(創7・6)

※年齢と子を生んだ歳をもとに経過年数が算出できる。創世記の記述年齢は文字通りの年数だと考えられる。その根拠は、ノアの洪水以前は長寿が可能な環境だったと推測できるからだ。創世記1章7節の「上の水」は水蒸気層であり、宇宙からの放射線を遮断するのに有効であった。

今日でも大気圏があることで、宇宙からの有害な宇宙線の多くを遮断している。原発でも核燃料棒は水の中で放射能を防いでいる。であれば、地球全体が水蒸気層で守られることによって長寿を保っていたのは妥当だろう。

しかし、その「上の水」が、洪水として雨となって地表に降り注いだ結果、水蒸気層はなくなり地球環境は激変した。それ以降、人々の年齢は下がって行き、アブラハムの時代には百歳前後になった。次の図表はそれを物語っている。


さて、エノクはメトセラをさずかった時、地上の大いなるさばきについて啓示を受けたのでしょう。だから彼は、人々に、神のさばきが来ること、それに備えて悔い改めるようにと語ったのだと思います。しかも、わが子にも預言的な名をつけてまでそうしたのです。

私たちクリスチャンも、エノクのように神と共に歩みます。そして、神がエノクを取られたようにして、天に携挙される日が来るのです。

 
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創世記 4章

2023年11月28日 | 創世記
創世記 4章
アベルは羊の群の初子と肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供えものとを顧みられた。
(4・4)


アダムとエバの間にふたりの息子が与えられました。兄のカインと弟のアベルです。第4章は、兄と弟の礼拝について記録しています。霊的存在である人間の基本は神への礼拝です。

神は、アベルとそのささげものを顧みられました。つまり、祝福されたのです。アベルは、初子のもので、肥えた羊をささげました。しかも、自分の手で持ってきました(新改訳・第二版)

一方、神がカインのささげものを祝福なさらなかったのは、具体的な理由は記されていませんが、アベルのようではなかったからです。

アベルのささげ物をとおして、祝福される礼拝とは何かを考えてみましょう。

初子とは親羊が最初に生んだ子のことです。つまり「最初のもの」をアベルはささげました。

生活費などで使った残りのお金を献金するとか、今日は時間があるので残った時間で礼拝するとか……それは神にふさわしくありません。神への礼拝とささげものは、「最初のもの」こそ相応しいのです。それが神を愛することです。

次に、肥えたものとは、一番よい羊のことです。病気や怪我をしている羊ではありません。最高のものをささげるのは、神への礼拝に相応しいことです。最高のささげもの……それは神を愛することです。

まとめましょう。最初ものも最高のものをささげることこれが神への礼拝であり、神を愛することです。

しかし、カインの礼拝はそうではなかったのです。神への礼拝を軽んじると、罪が門口で待ち伏せするようになります。しかも、それを治めなければなりません(4・7)

この時すでに、アベルに対する嫉妬心が、カインを門口で待ち伏せしていました。カインはこれを治めなければなりませんでしたが、残念なことに、治めることができずに弟を殺害してしまいました。

このように人類の歴史は、罪との戦いの歴史です。〝門口で待ち伏せする〟罪を治めて勝利しなければなりません。勝利して真の礼拝者たる者を、神は求めておられます。


創世記 3章

2023年11月27日 | 創世記
創世記 3章
本当に神は言われたのですか。
(3・1)


アダムとエバがおかれたエデンの園とは、どのような環境だったのでしょうか。そこは、神と共にある祝福された場所でした。

ただし神は、あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろうという御言を与えておられました(2・16~17)

彼らにとって、肉体のためには園のあらゆる果実が食物でした。そして、霊魂のためには「善悪を知る木の実を食べてはならない」という〝神の御言〟が食物でした。こうして人は神の御言で生きるのです。

3章では「ヘビ」が登場します。このヘビは悪魔とかサタンと呼ばれる存在です(黙12・9)。悪魔は巧妙に誘惑してきます。園にある木から取って食べるなと、本当に神は言われたのですか」。

そんなことはありません。園のどの木からでも食べて良いと言われました。ただし、善悪を知る木の実を食べてはならないと言われただけです。しかし、悪魔は、神の御言に疑いをいだかせるように誘導しています。明らかに悪意ある言葉です。

神は本当に言われたのですか」……神の御言に疑いをいだかせるのは、悪魔の常套手段です。あなたは、神の御言をしっかり食べているだろうか。曖昧なままだと、悪魔の巧妙な手口によって、神の御言を疑うようになり、やがて失ってしまいます。

さらに誘惑は続きます。「それを食べても死なない。食べると神のように賢くなれるのだ」(3・4~5)。つまり、神の御言に背いても死ぬことなどない。御言に縛られずに自由に生きることこそ賢いのだ……と。

悪魔にだまされてはいけません。神の御言に堅く立つことこそ、岩を土台として家を建てることです。

しかし、アダムとイブは悪魔の誘惑に負けて、善悪を知る木の実を食べてしまいました。こうして人は、神の御言を捨てたのです。そして、悪魔の言葉に従うことによって人の霊は死にました。

神の御言を捨てる……これは神を拒絶して自らが生きようとすることです。これが人類の根底に流れ込んだ「根っ子の罪」です。

さて、人は罪をおかすと、罪人である自分の姿を隠すようになります。

第一に、イチジクの葉で身を隠しました(7)

第二に、神を恐れて木の陰に隠れました(8)

第三に、他者のせいにしました(12~13)。 アダムは妻のエバが悪いのだと言い、エバはヘビが悪いのだと言ったように、言い訳によって自分を隠しました。これが罪人の性質です。

しかし、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪はきよめられました。ですから、大胆に神の前に出て行くことができるようになりました。イチジクの葉で自分を隠す必要がなくなったのです。木の陰に隠れたり、言い訳や人のせいにして、自分を隠す必要がなくなったのです。ありのままの自分を神にさらけ出しても大丈夫なのです。なぜなら、神はキリストの十字架ゆえに、「ありのままの自分」を受け入れてくださるからです。

しかし、この救いを受けるまでは、アダムがイチジクの葉で自分を覆ったように、人は、自分を隠し、自分を飾りつづけます。

どんなイチジクの葉があるでしょうか。虚栄という名のイチジクの葉。学歴や地位といったイチジクの葉等々。この他にも、罪人の自分を隠し、飾ろうとする様々な「イチジクの葉」があります。

しかし、神が与えてくださる本当の着物こそ、罪人である自分の姿を覆って、いやして、きよめることのできる着物です。それはキリストを着るという着物です(ガラテヤ3・27)

さて、アダムとエバはイチジクの葉を着たのですが、神は、彼らに特別な服を着せられました。主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられたのです(3・21)

皮の着物というからには、動物が殺され、血が流されたはずです。まさに、そのようにして、イエス・キリストは十字架で殺され、血を流し、私たちにとって救いの衣となってくださいました。

今日も義の衣であるキリストを着て生きよう。

 
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創世記02 創造記事考察

2023年11月25日 | 創世記
創造記事考察

さて、第2章7節に登場する人は「アダム」と呼ばれていますが、創世記はアダム以降、子孫を生んだ年齢と生きた年数が記録されています。その記録をもとに計算すると、アダムは約6千年前の存在であることが分かります。そのことから人類の歴史は6千年であるとする解釈もあります。しかし、それよりも古い人類の骨も多く発見されています。その矛盾をどのように受け止めればよいのでしょうか。

放射性元素による年代測定法にも矛盾点があり、一概にその年数を鵜呑みにするわけにも行きません。ウラン測定、アルゴン測定、同位炭素測定等によって測定値が大きく変動するからです。かといって、人類は6千年前に誕生したと主張するにも難点があります。

そこで、こう考えたらいかがでしょう。

先程の第1章と第2章との間に区別があったわけですが、第1章で述べられている人類とは、霊が注がれていない生物学的人間の記録です。その人間が増え広がったある時点で、神は、ひとりの人アダムに「いのちの霊」を注いで、霊的な人間の歴史が始まった。その記録が第2章以降です。 ※1章と2章では文体が異なっている。1章~2章3節までは主語が「神」。2章4節から、あらためて天地創造の経緯が記され、この場合の主語は「主なる神」。この区別は何を意味するのか。

両者の時間の隔たりはどれくらいあったのかは分かりません。門外漢の私にはこれ以上論じる知識がありません。今後の研究にゆだねることにして、要は霊が注がれた人類の歴史が6千年ということです。ここが重要です。聖書は、万物の存在課程を科学的に説明しようとするのではなく、霊的人間に込められた神の意図を説き明かしている書物です。

話しは変わるようですが、なぜ、文明の歴史をさかのぼると5千年程度なのでしょうか。それ以前に人類が存在していても、チグリスやエジプトのような文明が生じなかったのでしょうか。

文明は宗教と深い関わりがあります。文明の多くはみな宗教文明に関わる活動です。人が霊的存在となって以降、そのような文明が生じるようになったと考えるなら年代もほぼ一致します。

これは私的な解釈ですが、霊が注がれたアダムの時から、人類は言葉を持つようになったのではないかと思います。言葉を持つことで一気に文明が開花しました。また、その言葉ゆえに神との交わりを持つようになったというわけです。そのことをこの時、人々は主の名を呼び始めた(4・26)と記しており、新改訳では、その時、人々は主に御名によって祈ることを始めたとあります。

さて、こう考えるなら、霊を持たない人類と、霊が注がれたアダムの子孫とが混在した時代があったことになります。しかし、ノアの時の洪水によって(ノアは霊を注がれたアダムの子孫)ノアの家族以外は死滅したので、それ以降は霊が注がれた人類の歴史ということになります。

霊を持たない人間がいたといっても、ゴリラやチンパンジーの延長線上のような人間ではありません。知的には高度な存在であり、狩猟や農耕もして料理もしました。群れをなして暮らし、洞窟に壁画も残します。そのような痕跡は考古学によって多く発見されています。しかし、彼らは神を求めたり、主の名を呼びませんでした。霊的存在ではないからです。

現代でも、聖霊を受けた人間もいれば、聖霊を受けていない人間もいます。両者は同じように服を着て、車を操り、食事をして生きています。でも、聖霊を受けた人間は、神を愛し、神に従い、神と交わりを持つ人々です。そう考えると、創世記2章の頃のことも想像しやすいのではないでしょうか。

余談ですが、アダムの子カインが流浪の人となった時、彼は私と出会う人は私を殺すだろうと恐れたのはだれを恐れたのか(4・14)。また、カインと結婚した女はだれなのか(4・17)。霊を注がれる以前の人類と考えられないでしょうか。

ちなみに、霊を注がれたカインと、霊を注がれていない女との間に子孫が誕生しますが、その霊は人の中に長くとどまらないと神は指摘なさっています(6・3)。神が求めておられるのは、神との交わりの中で生きる霊的な人間とその子孫です。

話をまとめましょう。聖書のすべてを科学的に証明しようとすると混乱を招きます。もちろん、聖書は科学的な批判にも充分耐えうる神の言葉ですが、注目すべきは、霊を注がれた人間の歴史です。 

科学者たちは生物学的人間の歴史を探究していますが、聖書は霊的人間の歴史を語っています。アダムとその子孫である私たちは霊的な存在であるという視点は、聖書解読の基本です。


創世記 2章

2023年11月25日 | 創世記
創世記 2章
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。
(2・7)


第1章から2章3節までがひとつの区切りと考えるべきでしょう。6日間の創造記事と7日目の安息日に関する記録です。

そして、第2章4節からは、視点を変えるようにして、創造についてもう一度、記録されています。その視点とは、人が霊的存在となった経緯についての記録です。 ※第1章~2章3節までの主語は「」であるのに対して、第2章4節以降の主語は「主なる神」あるいは「神である主」となっており、文体にも区別がある。

第1章では、人間も含む万物の創造について記録されており、第2章では、さらに、人間に焦点を合わせて記録されています。その人間とは、神からいのちの息すなわちを注がれることによって生きるようになった人間の記録です。

人の肉体は「土のちり」からできているので、人は死ぬと、体は土に帰ります。しかし、肉体が朽ちて終わってしまうのではなく、神は人に「いのちの息」を吹き入れてくださいました。

この「息」はヘブル語で「ルアッハ」であり、「霊」とか「風」とも訳される言語です。

息・霊・風の共通点は、見えない存在でありながら見える物を動かす力があることです。「風」は見えませんが、木々をゆらし、海に波を起こし、建物さえも倒してしまいます。風は見えませんが、物事が動いているのを見て「風」の存在を知ります。

「息」もそうです。口や鼻から出入りする息は見えません。でも、不思議です。息があるとき、人間は活動します。しかし、息が取り去られると肉体の死をもたらします。

このように、見えない風や息が、見える物を動かしています。「霊」も同じです。

神の御言は「霊」なのですが、その御言によって見える世界が存在するようになりました。「光あれ」と言われた御言によって光が創造され、光が存在するようになりました。神の御言が「嵐よ鎮まれ」と言われると嵐がやみ、「起きて歩け」と言われると、足の不自由な人が癒されて歩き出します。イエス様の語られた言葉は、神の御言であり霊なので、そうなったわけです。

このように「霊」は見える世界を動かしています。

ですから、人も、その肉体は土のちりからできたのですが、その肉体にいのちの息……つまりいのちの霊が注がれたので、人は本当の意味で生きるようになったのです。

こうして人は「霊的に生きる者」になりました。文語訳聖書はその点を注意深く翻訳しています。「人すなわち生霊となりぬ」なのです。

人は単なる土のちりで終わらず、そこに霊が注がれて、その霊によって活かされている存在です。肉体という服を着た霊的存在……これが私たち人間です。

ですから主は、人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる御言で生きると言われたのです。パンは肉体を養いますが、霊を養うのは霊的食物……つまり神の御言です。

神に似せて造られた私たちが、神と共に働くために、神の御言を食べて生きるように造られたのです。それが本当の意味で生きることです。しかし多くの人々は、肉体を生かすために人生を費やしています。だから、肉体は飽食でも、霊は飢餓で苦しんでいます。

「むなしい」という感覚は、人の霊的飢餓から出てくる叫びです。肉体が空腹だと「お腹がすいた」と感じるように、神の御言がないと、人の霊は「むなしい」と感じるのです。

人を活かすものは霊である。わたしの言葉は霊であり、いのちであると言われたイエス様の御言を食べて、霊的生活が満たされますよう祈ります。

 
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創世記 1章

2023年11月23日 | 創世記
創世記 1章
神はご自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
(1・27)


聖書が証しする神は、万物を創造した神です。

この創造主である神は、全ての根源であられるお方です。万物の存在の意味も目的も、このお方にあります。創造主を知らずして、自分の存在意味も目的もわかるはずがありません。

さて、神は人を特別な存在として創造されました。

他の動植物はそれぞれ固有の〝かたち〟に創造されました。鳥は鳥のかたち、魚は魚のかたちがありますが、人だけは「人のかたち」ではなく、神のかたちに創造されました。

つまり、人は神と切り離すことのできない存在として創造されているのです。なのに、人は神を無視して人生の目的を探そうとしています。

アメーバーのような生命体が〝偶然〟誕生して、それから幾つもの〝偶然〟が重なって人間にまで進化したという学説があります。その考えによるなら、自分の存在は偶然です。しかし、残念ながら、偶然には目的がありません。

たまたま自分が存在するようになった……という偶然を前提にして、人生の意味や目的を論じることができません。

しかし、聖書は、人は神によって創造されたのであり、神に似せて創造されたのだと宣言しています(1・26)。つまり、人間のオリジナルの姿は神にあるというのです。

人とは何なのか。どう生きるべきか。その答えは、私を創造なさった神と出会うことで得られます。神を発見するとは、自分を発見することです。逆に、神を見失うなら自分を見失います。

ところが、猿から進化したのだから、猿を研究して、人間とは何ぞやと探究する人もいます。たしかに、猿と人間には似たところがあります。同じお方がお造りになったのですから、そのデザインは似ていて当たり前です。ベンツが生産する車は種類は違えどそのデザインは似ているのと同じです。

でも、神は人を猿に似せて創造なさったのではなく、神ご自身に似せて造られたのです。猿とどこが似ているかを知るより、神と似ているところを探究することの方がもっと有意義なことです。

さて、神に似せて創造された私たちですが、聖書は「神のかたち」に創造されたとも記しています(1・27)。では、神はどんなかたちをなさっているのでしょうか。

霊的存在である神を見ることはできません。また、天も諸天の天も入れることのできないほど大きく偉大な神を、だれもこの目で見た者はいないし、見ることもできません。(Ⅱ歴2・6、ヨハネ1・18)

しかし、唯一、神の御子であるイエス様だけが、神のかたちを見せてくださいました。なぜなら、御子イエスは「神のかたち」だからです。幾つか聖句を挙げておきましょう。

神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝き(Ⅱコリント4・4)
キリストは神のかたちであられたが、(ピリピ2・6)
    ※新改訳では「神の御姿」、新共同訳では「神の身分」。
御子は、見えない神のかたちであって、(コロサイ1・15)

つまり「人間を神に似せて、神のかたちに創造した」とは、私たち人間は、神の御子であるイエス様に似せて創造された存在なのです。あなたは、そして私は、神のかたちに創造された存在なのです。

セルフイメージを正しく持ちましょう。

私は猿に似た存在ではありません。私たちは無目的に偶然存在するようになったのでもありません。イエス様と同じ姿に創造され、イエス様と共に働く存在として創造されたのです。

これが私たちの正しいセルフイメージです。

 
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