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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

創世記 35章

2024年01月12日 | 創世記
創世記 35章
あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい。
(35・1)


先のヤコブの子どもたちが起こしたシケム事件は、ヤコブとその家族に衝撃を与えたことでしょう。ヤコブに何かが欠けていたのです。そこで、主はヤコブに命じられました。

ベテルに戻れと。つまり原点から始めよというのです。ベテルは兄エサウの顔を避けて逃れて野宿した時に、天からのはしごが現れて、神の約束が与えられた記念すべき所です。まさにヤコブの原点といえる場所です。

かつて彼はそこに石碑を建てて、ここに戻ることができたなら主を礼拝しましょうと誓った場所でした。しかし、ヤコブは忘れていました。原点を見失っていたのです。

新約の時代になって、イエス様の弟子たちもそうでした。イエスの十字架の死によって、弟子たちは道を見失っていました。イエスが復活されたという知らせも、まだ確信が持てません。

そんな弟子たちにイエス様は、ガリラヤに戻れ、そこで会おうとおっしゃいました。ガリラヤは弟子たちの故郷であり、最初にイエス様と出会った場所であり、召された場所でした。つまり、弟子たちの原点でした。

あなたにとって「イエス様と出会った」という原点はどこですか。信仰の道に迷った時、主は原点に戻れと命じられます。そこから始めるのです。


創世記 34章

2024年01月11日 | 創世記
創世記 34章
レアがヤコブに産んだ娘デナはその地の女たちに会おうと出かけて行ったが……、
(34・1)


ヤコブたちはシケムの地に宿営し(33・18)、そこで起きた痛ましい事件が記されています。ヤコブとレアの間に生まれた娘デナが、土地の女たちと交流を持とうと出かけた時のことです。

ヒビ人のシケムという男にレイプされたのです。シケムの父ハモルは事態を収拾するため、謝罪と多額の結納金をもって、シケムとレナの婚姻を申し出ました。それを聞いたデナの兄シメオンとレビは策を講じ、婚姻を承諾する代わりに、シケム本人と町の男子たちの割礼を要求しました※。しかし、それは口実で、割礼の痛みで身動きできない男たちを殺害したのです。

※イスラエル人はみな割礼を受けており、婚姻関係になるなら、同様に割礼を受けるべきだと主張した。

シケムの卑劣な犯罪に対する怒りは理解できますが、他に解決の道はなかったのでしょうか。「目には目を、歯には歯を」どころか、目には目以上の報復、歯には歯以上の憎しみをもって返すことでは真の解決がありません。

また、デナの単独行動も無防備でした。聖書は娘デナは、出かけて行ったと記していますが、「つかわされる」ことこそ信仰者に相応しい行き方ではないだろうか。私たちは出かけるのではなく遣わされるのです。

イエス様は、私たちを世に遣わすのだと言われました。それは、羊を狼の中に遣わすようなものですが、遣わされる者がいなくて、どうして福音を聞くことがあろうかとも言われました。

「遣わされる」という自覚のある時、祈りが生まれます。「主よ、助けてください。導いてください」と祈る中で、事件解決の知恵も与えられることでしょう。

ヤコブの子どもたちに欠けていたことは、自分たちが〝遣わされた民〟であるとの自覚と祈りではなかっただろうか。

この34章では、父親であるヤコブの存在感の薄いことが気がかりです。子どもたちに何を教え導こうとしているのでしょうか。

ヤコブは伯父ラバンのもとで砕かれる経験をしましたが、さらにこの後は、自分の子どもたちが引き起こす様々な事件を通して更なる試練を受け、きよめられて行くことになるのです。


創世記 33章

2024年01月10日 | 創世記
創世記 33章
みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。
(33・3~4)


ヤコブは兄エサウとの再会をはたしました。この20年間の神の取り扱いの中でヤコブは砕かれましたが、兄エサウもまた同様でした。エサウは弟のヤコブをゆるし、心から歓迎しました。「エサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた」のです。

ヤコブは兄との和解を通して、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います(33・10)と告白しているように、人間同士の和解は神との出会いに通じるものがあります。逆も言えます。神との和解は人間同志の和解へと展開します。私たちが愛し合うなら、神もその交わりに共におられるのです(Ⅰヨハネ4・12)

さて、アブラハム・イサクとつなげられてきた祝福の流れは、確かにヤコブが引き継ぎました。「兄は弟に仕える」と預言されたように、ヤコブは長子の権を得ました。

しかし、だからといって、それを根拠に高ぶる者であってはなりません。

それを教えるために、神は、ラバンのもとで20年の歳月をかけてヤコブを訓練なさいました。ここで謙遜と従順を学んだヤコブは、エサウに対しても身を低くし、7度もお辞儀をしながら近づきました。

主イエスは弟子たちに、「あなた方の知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなた方の間ではそうであってはならない。かえって、あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなた方の間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない」とお教えになったように(マタイ20・25~27)、「祝福の基」たる者は、身を低くする者です。

祝福の流れは、長子の権を軽んじた兄エサウから弟のヤコブに移され、また、そのことで兄は弟に仕えることになったこと。これらは、兄の立場であるイスラエル民族がイエス様の救いを拒絶し、弟の立場である異邦人へと移されることの預言でもあります。

しかし、異邦人のイスラエル民族(ユダヤ人)に対する態度は、ヤコブがエサウに7度もおじぎをして謙遜を示した態度には程遠いものでした。この点で異邦人クリスチャンは悔い改めて、謙遜を取り戻さなければなりません。そして、イスラエルの祝福を祈らなければなりません。

さあ、話を戻します。ヤコブは神の取り扱いの中で、謙遜を学び、仕えることを学びました。神によって悔いし砕けし霊魂へと導かれることは何と幸いなことでしょうか。これも祝福の重要な項目です。

先の32章では、御使と格闘しながら祈ったヤコブは腿のつがいを打たれるという経験をしました。これ以来、彼は足を引きずることになるのですが、このことはヤコブが神によって砕かれたことを表す象徴的な証しとなりました。

悔いし砕かれた魂とは、弱さを知った人のことです。神に打たれる経験をした人は、その心に、足を引きずるような痛みを感じることでしょう。しかし、その弱さを知って謙遜を学び、仕えることこそ神に祝福された者の証しです。

あなたは神にふれていただいたであろうか。神の取り扱いの中で、砕かれるという経験をしたであろうか。足を引きずるような痛みのしるしを受けただろうか。これは「祝福の基」として定められた者たちが受けるべき大切なレッスンです。


創世記 32章

2024年01月09日 | 創世記
創世記 32章
ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。
(32・24)


ミツパにて義父のラバンと和解の契約をたてたヤコブは、いよいよ実父イサクの待つカナンの地に戻ろうと旅を進めたのですが、その心中は穏やかではありませんでした。

それは、兄エサウとの和解ができていなかったからです。

妻や子どもたち及び多くの使用人と家畜をたずさえて、ヤコブはカナンの地に戻るわけです。一旗揚げて故郷に錦を飾るといったところです。傍目には、さながら凱旋将軍のようでありました。しかし、和解のない人生は、どんなに物質的に富んでいようとも、本当の祝福ではありません。

だからヤコブは恐れたのです。

いよいよ故郷に近づいた時、使いを先にやって兄エサウに帰郷の報告をしたのですが、エサウが400人を率いて向かっていると聞くや、ヤコブは闘いを想定して宿営を二手に分けました。陣営を一度に失わないためです。

また、和解を得るために贈り物として500頭以上の家畜を三段階にわけて順次送り出すなど、周到な手立ても怠りませんでした。知恵者であるヤコブらしい対応です。しかし、充分な手立てをもってしても彼は恐れていました。

こうしてヤコブは家族を先にやり、ひとり残ってヤボク川のほとりで祈ったのです。冒頭の聖句のひとりの人とは天使であろうと思われますが、彼と格闘しながら祈ったのです。私を祝福してくださるまでは、あなたを去らせない(32・26)

ヤコブは神からの祝福を真剣に求めました。これまでも彼は祝福の中にいなかったわけではありません。しかし、この時ばかりは、兄との和解のためには、神からの圧倒的な祝福を必要としたのです。

物質的な富を得たことなど「和解の祝福」に比べれば取るに足りないものです。ヤコブは、和解することこそ本物の祝福であることを知って、それを真剣に求めたのです。そしてついに彼は兄と対面する勇気を得ました。和解に向けた大きな一歩です。

かくして、兄との和解の前に、ヤコブは神との和解が必要だったわけです。

20年前、彼は兄をだまし、父をだまし、神をもだまして「長子の権」を受け取りました。こんな方法で得た祝福は本物なのか。偽物ではないか。神はこんな自分を本当にゆるしてくださるのだろうか。

そんな恐れや不安を抱えて、ヤコブは20年間を過ごしたことでしょう。その間、彼は神である主を知るようになりましたが、このヤボク川での祈りを通して確信を得たかったのです。

神との和解……それは神との親しい交わり。神が親しく共に居られるという人生です。これこそ祝福です。この祝福を受けたヤコブは、兄エサウを祝福し、兄と和解する勇気を得たのです。

アブラハム・イサク・ヤコブと、「祝福の基」はつながって行きます。そこからすべての国民に祝福を広げるのが神のご計画です。言換すれば、「和解の福音」をイスラエルから全世界へ広げて行くことです。

今や、ヤコブの家系からキリストが誕生され、神との完全な和解の道が開かれました。私たちはこの和解の福音をたずさえて、全世界へと派遣されています。

あなたは神と和解をなさっただろうか。つまり、祝福を受け取られたでしょうか。ヤコブのように祈ろう。祝福を受けるまでは、あなたを離しませんと。そのあなたから(私から)祝福は広がるのです。


創世記 31章

2024年01月08日 | 創世記
創世記 31章
あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる
(31・3)


初めの頃の記録では、ラバンに息子がいるようには記されていません。しかし31章からはラバンの息子たちが登場します(1)

ラバンにとっては、娘たちをヤコブに嫁がせた当初は、跡取りの婿ができたことを喜んだのです。しかし、やがて自分に息子が誕生するや、ヤコブは邪魔な存在となってしまったのではと思われます。

となれば、ラバン家の財産を増やしてくれるために、ヤコブは都合の良い労働力と見なされ、「婿」であり「義理の息子」という立場は名ばかりで、奴隷のような20年間を経たのです。

まさに伯父ラバンはヤコブにとっては苛酷な主人でした。

ずる賢く身勝手なヤコブを造りかえるために、神は、彼を伯父ラバンのもとに遣わされました。鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される(箴言27・17)とあるように、ヤコブはラバンによって研がれたのです。

自分と同じような人との関わりを通して自分の姿を自覚し、研がれ、磨かれて行きます。神の取り扱いは奇しき御業です。

ヤコブはこの20年間、相当忍耐したようです。その鬱憤がラバンに対して堰を切ったように語られています(31・36~42)。でも、彼がここまで忍耐できたのは、いみじくもヤコブ自身が語っているように主が共におられたからです。

順調な時だけ主が共に居られるのではありません。言い換えれば、順調な人生のために主が共に居られるのではありません。苦難の時にも、試練の時にも、主は共に居られます。ヤコブと共に居られたようにです。それが本当の祝福なのです。これを知らずして「祝福の基」にはなれません。

神の訓練の時が満ち、神はヤコブを呼び出されました。父の家に戻れ!約束の地カナンに戻れ……と。

私たちクリスチャンたちも、約束の地である天の御国を相続するためには、ヤコブのような取り扱いを受けます。そしてついに時が満ちるに及んで、天の御国に導かれるのです。

ヤコブにも、私たちにも、冒頭の聖句のように神は約束されます。「わたしはあなたと共に居る」と。


創世記 30章

2024年01月06日 | 創世記
創世記 30章
ヤコブは大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった。
(30・43)


今日の30章には何ら良い記録がありません。家族内の嫉妬と憎しみ、財産争いと計略です。

ヤコブの偏愛が、家庭の中に根深いいがみ合いを引き起こしました。結婚前のレアとラケルは仲の良い姉妹であったのでしょうが、今では卑劣なやり取りが交わされる姉妹の姿が記されています。

また、ヤコブはラバンとの狡猾な駆け引きによって財産を増やして行きました。彼は体験的に遺伝の法則なるものを理解していたのかも知れません。雄雌の掛け合わせ方によって生まれてくる毛色を制御して、自分の取り分を増やしていったのです。 ※動物病院で聞いた話だが、猫のメスにしか現れない文様があるとのこと。羊にも同じことがあるのだろうか。

このように
ヤコブの家庭も仕事ぶりも、神の祝福の相続者としては相応しからぬものでした。にもかかわらず……です。神は彼を大いに富ませたと聖書は記しています。

聖書には時々このような理解しがたいことが記されています。何故イエスは立派なパリサイ人の家ではなく、罪人ザアカイの家に泊まられたのだろうか。何故、放蕩息子の父は兄息子にもしたことのないような出迎えを弟息子にしたのだろうか。

しかし、真の愛には愛する理由などないのです。

この不条理、この矛盾こそが愛の本質なのです。神の愛はわたしは自分の哀れもうとする者を哀れみ、慈しもうとする者を慈しむと言われているとおりです(ローマ9・15)

もし、神が、人の態度や努力に応じて愛されるのなら、私たちは神の愛どころか、呪いを受けるしかありません。誰ひとり神の愛を受けるに相応しい者はいません。神の愛を受けるために、いったい人は何ができるというのでしょうか。

しかし、神は理由なく、ただご自身のゆえに愛してくださるのです。あえて理由を申し上げるなら、神が愛なるお方だからです。

早朝からブドウ園で働いた者が、午後5時から働いた男を非難したような不平や疑問を神に向けてはなりません。相応しくないヤコブさえ祝福し、愛された不条理の神こそ、恵みの本質なのです。

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創世記 29章

2024年01月05日 | 創世記
創世記 29章
ヤコブはレアよりもラケルを愛して、更に7年間ラバンに仕えた。(29・30)


伯父ラバンのもとに身を寄せたヤコブは、ラバンの娘ラケルを愛し、彼女をめとるために7年間ラバンのもとで働きました。ところが7年後、ラバンはラケルの姉レアを最初にめとるべきだとして、更に7年間仕えるようにしました。

伯父のラバンは、娘を与えることを条件に、ヤコブにただ働きをさせることにしたのです。

兄のエサウから長子の権を奪い取ったずる賢いヤコブでしたが、それ以上にずる賢いラバンの登場です。鉄は鉄によって研がれる(箴27・17)とあるように、神はヤコブと同じような人物と出会わせ、ヤコブを磨かれたのです。それは、ヤコブを祝福の相続者として訓練するためです。

神は、私たちに対してもヤコブと同じように、祝福の相続者に相応しくするために、人や環境や境遇を用いて訓練なさいます。ヤコブは、このような神の取り扱いをたくさん受けた人です。

さて、ヤコブは仕方なく、更に7年間ラバンのもとで働くことになりました。複雑な境遇とはいえ、ヤコブはラケルを愛しレアを嫌っていたため、ヤコブのラケルに対する辛辣な対応に閉口してしまいます。

しかし、このことがヤコブの問題点ともなり、またそれを用いて主が訓練なさる課題ともなりました。

神は、夫から嫌われているレアを哀れまれたので子宝に恵まれました。当時の女性にとって、子を授かることが祝福だったのです。ルベン・シメオン・レビ・ユダ……というイスラエルの12部族の内6人が、姉のレアから生まれました。

中でも、レビは後のモーセと大祭司アロンを生む家系であり、また、ユダはダビデ王の家系となり、やがてイエス様が誕生なさるわけです。神はこのような方法でレアに報いてくださいました。神は公平にご覧になっているのです。

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創世記 28章

2024年01月04日 | 創世記
創世記 28章
私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。私は決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行うであろう。
(28・15)


卑怯な方法で、父イサクから長子の祝福を受けたヤコブは、兄の恨みをかって、逃げるようにして伯父のラバンのもとに旅立ちました。こんな展開を祝福と言えるでしょうか。

しかし、失意の旅のなか、主はヤコブに現れて、わたしはあなたと共に居る」「あなたを必ずこの地に連れ戻す」「決してあなたを捨てないと約束されました。何という神の一方的な恵みでしょうか。

ヤコブは夢の中でこの幻を見たのですが、その中にはしごが登場します。それは「天から地に向けて」かけられたはしごでした。一般的にはしごは地から天に向けてかけるものですが、ヤコブの見たはしごは逆です。 ※新改訳では、「見よ、ひとつのはしごが〝地に向けて〟立てられている(28・12)

神の約束は、天から私へ向けてかけられたはしごです地上の私から天にとどきそうもない状況でも、天の神からの約束は確実なのです。それが、天から地に向けてかけられた「はしご」に込められた恵みです。 ※「はしご」は漢字では「梯」と書く。〝木〟+〝弟〟は興味深い。「梯」の幻を見たヤコブは「弟」であった。漢字の成り立ちに聖書の思想が反映されていると考えられないだろうか。

ヤコブは祝福を受けたわけですが、それは、単に物事が順調に行くことを意味していません。どんな状況の中でも「神が共に居られる」。これこそが祝福です。逆境にあっても、神から私に向けての「はしご」が取り去れていない。これこそが祝福です。

神に見捨てられたと思えるような時でも、わたしは共にいると主は語ってくださいます。これを聞いたヤコブはすぐに、枕にしていた石を立てて柱とし、油を注いでその所の名をベテル神の家)」と名付けました。

ヤコブはみじめな逃亡生活の中にも神が共におられることを知りました。彼は父の家を出て、神から遠く離れてしまったかのように思っていました。しかし、そんな苦しみの場所も「神の家」だと知りました。

こうして、ヤコブは朝早く起きてここに祈念碑を立て、ここの所を「ベテル」と呼びました。信仰が後戻りしないように、すばやく歯止めをかけるかのように、彼は祈念の碑を建てました。信仰生活にはこれが大切です。せっかく主が悟らせてくださったのに、後回しにしている内に、いばらが生えてきて信仰を塞いでしまうからです。

人生の節々に各自のベテルが立てられますように。

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創世記 27章

2024年01月03日 | 創世記
創世記 27章
「父よ、あなたの祝福はただ一つだけなのですか。父よ、私を、私をも祝福してください」。エサウは声を上げて泣いた。
(27・38)

エサウとヤコブの間にくり広げられた「神の祝福」の相続権をめぐる相剋が記されています。

かつてエサウは「長子の特権などお前にくれてやる」とヤコブに言い放ち、神の祝福を軽んじました。一方でヤコブは、長子の特権を正式に自分のものにするために策略を練り、ついにそれを実行しました。その結果がこのエサウの嘆きです。

神の祝福はひとつしかないのでしょうか。

この場合の祝福とは、万人に太陽を照らし雨を降らせるといった一般的な祝福のことではありません。アブラハムそしてイサクへと引き継がれた、この地を神の御国として支配するという祝福です。それはやがて、神のひとり子を世に送り、救いを完成させるという特別な祝福へと展開します。

これはひとつしかありません。そして、それは決して軽んじてはなりません。

イエス様は「わたしは道である」と言われました。神に至る道は主イエスという一本の道だけです。主イエスは「わたしは門である」とも言われ、この門以外から入ってくる者は盗人だと指摘なさいました。つまり、ひとつだけです。

聖書は「神の慈愛と峻厳を見よ」(ロマ11・22)と言っています。主は、人知で計り知れないほど大きな慈愛の神ですが、同時にエサウの出来事にあらわされたように峻厳なる神でもあります。だからといってヤコブのやり方が正しいのでもありません。ですからこの後、ヤコブはこのために散々苦しみます。こんなやり方で本当の祝福を受けたと言えるのか。確信を得ないまま悶々とした歳月が流れます。

また、祝福は、物事が順風満帆に進むことの保証ではありません。神が共におられ、神の取り扱いを受ける人生であることを意味します。

主イエスが、「天国は激しくおそう者たちが奪い取って行く」(マタイ11・12)と言われたように、ヤコブの荒削りではありますが祝福を熱望する人生を、神は慈愛の目を注いで見守ってくださいました。

その目は私たちにも注がれています。神の祝福を得ようと、時に肉なる画策を企てたり、もがき苦しむ私たちに神は慈愛の目を注がれます。

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創世記 26章

2024年01月02日 | 創世記
創世記 26章
我々は、主があなたと共におられるのを、はっきり見ましたので……、まことにあなたは主に祝福された方です。
(26・28~29)


イサクの生涯は、神の祝福が泉のように湧き出る生涯だったと言えるでしょう。それを象徴するかのように、彼は地に種をまいて百倍の収穫を得ました。それは神がイサクを祝福されたからです(26・12)その祝福の象徴が〝井戸〟です。

イサクはいつも井戸を掘りあてました。井戸から水を得ることは祝福の源です。しかし、ペリシテの人々はねたみの故にイサクの井戸を次々と塞いだり、横取りしたのですが、彼は争いを避けて別の所に井戸を掘りました。

ついに、ペリシテの王アビメレクはイサクに対して、この土地から出て行くようにと退去命令を出すのですが、イサクは別の土地でも井戸を掘り、彼は豊かになって行きました。

イサクは気の弱い人だったのでしょうか。いいえ、むしろ主にあって強い人だったと思います。

主が共におられることを知っている人は ――それが祝福です―― いつもゆとりがあります。退くゆとりです。あえて負けるゆとりです。イサクはそんな人ではなかったかと私は想像しています。そして、イエス様も十字架で人間に負けるゆとりをお持ちでした。しかし、それが本当の神の強さです。

そのようなイサクの姿を見ていたアビメレクは、イサクのもとに来て我々は主があなたと共におられるのをはっきり見ましたと告白し、和解を申し出てきたのです(26・28)。 ※あのニコデモがイエスに対して「神が共におられなければ、あのような御業はあり得ません」と告白したのを思い起こさせる。

こうして、イサクは戦わずして、主に在って勝利しました。

何度も井戸をふさがれたり、退去を命じられるなどの嫌がらせに対して、イサクは祝福をもって報い返しました。悪に対して悪をもって報いるのではなく、祝福をもって報いることこそ、祝福の基とされた者の生き様です。私たちも、イサクのように祝福をもって応えることにしよう。

傷つけられたら、同じように傷つけたくなるものです。憎しみには憎しみをもって報い返す道もあります。憎しみやうらみを原動力にして生きようとする人もいます。そのエネルギーは闇の力であって、報復の連鎖を生み出すだけです。

でも、神は、祝福を流し出すようになさいます。憎しみではなく、愛するエネルギーは神から、即ちキリストの十字架から流れ出てきます。

自分がこんなに不幸なのは、嫌がらせをしたお前のせいなのだ……と、うらみ節で反応する生き方ではなく、嫌がらせに負けないで、幸せになりましょう。主の祝福で祝福された生き方を選ぶのです。それが正しい〝仕返し〟です。敵を祝福するほどの幸せ者になるのです。

どうか、そんな私たちの姿を見て、「主があなたと共におられるのをはっきり見ました」と、人々をして告白させますように。

さて、イサクが祝された秘訣はどこにあったのでしょうか。それは、どんな状況下でも井戸を掘り当てたことにあります。水を確保することは繁栄の基礎となったからです。

新約の時代を生きる私たちも、人生には様々な困難があります。しかし、その所で井戸を掘るのです。それは、いのちの水である聖霊の泉のことです。いかなる状況下でも、神との交わりを絶やさないのです。そこからいのちの水が湧き出てきます。

こうして見ると、イサクの姿はイエス・キリストのひな型モデルだとわかります。

イサクは父アブラハムのひとり息子であったように、イエス・キリストも父なる神のひとり子です。イエス様は反対者たちの妨害の中でも、いつも柔和に対応なさいました。それは父なる神からの泉をお持ちだったからです。

だからこそ、渇いている者はだれでも、わたしのもとに来て飲めと呼びかけてくださいました。わたしの与える水を飲む者は、その腹からいのちの水が湧き上がるようになると約束されました。

このお方のもとで、いのちの水を汲み出す井戸を掘り当てる人生にしよう。

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創世記 25章

2024年01月01日 | 創世記
創世記 25章
このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。
(25・34)


イサクとリベカの間に待望の子が産まれました。双子で兄のエサウと弟のヤコブです。アブラハムから始まった神の祝福計画は、長子(長男)が受け継ぐべきものですが、兄のエサウはそれを軽んじました。

兄のエサウの性格は荒っぽくて豪快なタイプのようですが、問題は霊的な課題や使命に無頓着であったことです。そのため、彼は長子の特権を軽視するようになりました。

長子の特権とは、神の祝福の流れを受け継ぐことです。単に親の財産を相続するといった物質的なことではなく、物質的な富の裏付けとなる「神の祝福」を相続することです。

目先の物質は影のようなものです。影は本体ではありません。本体は神の祝福です。それなのに、影を捕らえようと追い求めている人々の何と多いことでしょう。それは兄エサウの姿です。

神が祝福してくださらなければ、真の所有はあり得ません。神の祝福なき富は、それを得たとしても影をつかむようにスルリと逃げて行きます。

イエス様は「持っている人は与えられていよいよ豊かになり、持っていない者は持っているものまで取り上げられる」(マタイ13・12)と言われましたが、神の祝福を大切にする人と軽んじる人に言えることです。

聖書は、エサウが長子の権を軽んじた経緯について記録しています。野で猟を終え戻ってくると、弟のヤコブが作っていたレンズ豆の煮物が食べたくて、長子の権と交換したというのです。 ※レンズ豆の煮物は赤色(アドム)をしており、それが好物であったことから、エサウの子孫のことをエドム人と呼ぶようになった

余りにも腹を空かしたエサウは、長子の特権など私に何になろうと言って、煮物と長子特権の交換を承諾したのです。

新約の時代の私たちはどうだろうか。神の子どもとしての身分など、私に何になろう」。「天の御国の世継ぎなど、私に何になろうと言っていないだろうか。こうして、霊的な祝福を手放してしまうのです。

兄エサウと同じ轍を踏んではならない。

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創世記 24章

2023年12月30日 | 創世記
創世記 24章
主は御使をあなたの前につかわされるであろう。
(24・7)


晩年のアブラハムは息子イサクの妻をめとるために、年長のしもべに命じて、①アブラハムの親族の中から、②イサクは約束の地に留まるという条件を付けて嫁さがしの旅に送り出しました。

アブラハムの親族の住むアラム・ナハライム(メソポタミヤ北部)は肥沃で文明の進んだ地域です。そんな所からイサクの住む片田舎に嫁を連れてくるなど前途多難な課題です。
だからこそ、「主は御使をあなたの前につかわされる」のです。

主の働きのためにはいつも御使が伴ってくれます。しかもあなたの前につかわされます。私たちが祈って動き出すとき、御使はその課題のために先回りするようにつかわされます。困難と思えるような課題も、主が御使を用いて助けてくださることを期待しよう。

ある日こんなことがありました。ある信者さん宅を訪問しようとしたとき、差し上げるべき印刷物が無いことに気がつき、プリントアウトしている内に時間が過ぎ、出発時間が遅れてしまいました。しかし、そうこうしているうちに、なんと、その方が教会に来られたのです。予定どおり出発していたら入れ違いになっていたところです。些細な出来事ですが、主は先だって共にお働きくださいました。

さて、アブラハムのしもべは、町に到着するや主に祈りました。すると不思議な出会いが導かれ、アブラハムの弟ナホルの孫のリベカと会うことができました。御使が先回りして、全ての段取りをしておいてくれたのです。

しもべの祈りは具体的でした。「水をください」と求めて、自分に水を与えてくれる娘。しかも、「あなたのラクダにも水を差し上げましょう」と言ってくれる娘を……と祈り求めたのです(24・12~14)

主からの応答であると分かるように、具体的な求めをしています。そして、主もまたそれに応えてくださり、リベカという素晴らしい女性と出会わせてくださいました。

ある姉妹のことを紹介しましょう。彼女は居酒屋を経営していたのですが、やがてクリスチャンになりました。彼女にとっては生活の糧を得る大切な仕事ですが、クリスチャンとしては良くないと思うようになりました。

そこで具体的にこう祈ったのです。「イエス様、この仕事が良くないのでしたら、どうぞ鈍い私でもわかるような方法で教えてください」と。するとどうでしょう。客足が止まってしまったので、彼女は店を閉じるしかなくなったのです。

具体的に祈り求める時、イエス様もまた具体的に応答してくださいます。先のしもべは、主人のアブラハムに仕えながら、祈りの大切さを学んでいたのです。何事も祈りから始めよう。

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創世記 23章

2023年12月29日 | 創世記
創世記 23章
マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は……アブラハムの所有と決まった。
(23・17~18)


サラは地上の生涯を終えました。そこで、アブラハムは妻を葬るためにエフロンの畑を買い取ろうとしました。しかし、エフロンは代金を受け取ることを潔しとせず、無料で提供すると言いました(23・11)

このことからも、アブラハムが地元の人々から尊敬され慕われていたことが分かります。しかし、アブラハムは畑の代価を支払うと主張し、多くの証人の前で、正式に自分の所有としました(17~20)

主は「この地をあなたと子孫の所有とする」と約束されましたが、この時点でアブラハムの所有はエフロンの畑だけでした。それでもアブラハムは希望を失うことなく、彼の信仰は衰えませんでした。

なぜなら、彼は神の御言をしっかりと所有していたからです。

現実を通して神の御言を見るなら、失望するかもしれません。目の前の現実が目をふさいで、神の御言を見えなくしてしまうからです。

そうではなく、信仰とは、神の御言から現実を見ることです。

さて、アブラハムはエフロンに代価を払いました。代価の支払いは神の御心にかなったことです。

神は人類を神のものとするために、御子イエスの血を代価として支払われました。その代価は、全被造物を神の聖なる所有とするために……つまり神の国とするために支払われました。

そんな神の買い戻し(あがない)も、このエフロンの小さな畑から始まりました。神は日本を、そして世界をご自分のものとするために、という小さな所有を足掛かりにして御業を始められます。

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創世記 22章

2023年12月28日 | 創世記
創世記 22章
それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお
主の山に備えありと言う。(22・14)


第22章は、アブラハムの生涯の中で最も衝撃的な出来事が記録されています。100歳にして約束の子イサクを得たアブラハムでしたが、その子を神への生贄として献げよと主は命じられたのです。

「神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(全焼のいけにえ)としてささげなさい』。」(22・2)

「アブラハムを祝福の基とし、彼から祝福が世界におよぶ」という約束を、神はいったいどのようにして実現なさるというのでしょうか。約束の子を献げたのでは、祝福は途切れてしまうではないですか……。

①アブラハムを祝福の基とするための テスト試練だった。

アブラハムはここに至るまでも幾つものレッスンを経てきました。ネゲブの飢饉でエジプトに逃れた時の失敗を通して、すべての主導権は神が握っておられることを学びました(12章)

また、財産と土地のことでロトと袂を分かったこと、そして、その後のロト救出の闘いに勝利した際にソドム王の褒美を受け取らなかったこと等を通して、富の所有は神にあることを学びました(13~14章)

さらに、約束の子を得ようとして女奴隷のハガルによって子を生み、大きな痛手を負ったことを通して、約束の実現には神の方法があるのであって、肉の力によらないことを学びました。彼はこのことによって肉の力も肉の心も砕かれ、御言を信頼すべく忍耐を学びました(16章)

そして、ついにイサクをささげよと主は命じられたのです。
私たちは物質や子孫が増すことが祝福だと勘違いしていないだろうか。それは「祝福の実」であって、大切なのは「祝福なさる神」であることを忘れていないだろうか。

神は与え、神は取り去られるお方であることを覚え、その神が共におられることこそ祝福です。物質的な豊かさが祝福なのではなく、祝福なさる神との親しい交わり……そのような霊的な豊かさこそ祝福であることを忘れてはなりません。

アブラハムは、年老いて与えられたイサクを喜びました。しかし、イサクそのものが神のような存在になり、イサクをお与えくださった神を二の次にしていたのではないだろうかと思います。

②この出来事はイエス・キリストの預言であった。

「イサクを燔祭(全焼のいけにえ)として献げよ」との神の御言を受けて、アブラハムは苦悩したに違いありません。
それと同時に、「あなたの子孫は空の星のようになる」と約束された神の御言を信頼しました。この子のいのちが献げられることによって、さらに多くの子孫を得ることになるのだ……と。

一粒の麦は死ぬことによって、多くの実を結ぶようになるのだと語られ、自らのいのちをお献げになったイエスによって、神の子どもたちが星の数ほどに増え広がって行くのと同じです。

さて、この時の息子イサクは分別のつかない幼児ではありません。燔祭のための薪をかついでモリヤの山に登ったのですから、青年とみるべきでしょう。

また、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」と父に質問できるぐらいですから、神への礼拝も心得ていたわけで、この時すでに青年イサクです。

イサクは道中の会話の中で、父アブラハムの尋常ならぬ心中を悟ったのです。父は自分を燔祭として献げようとしているのだと。だからこそ、父が自分を祭壇のたきぎの上に乗せた時、彼は抵抗しませんでした。父が刃物を自分に向かって振りかざした時も、すべてを父にゆだねていました。

青年であるイサクの腕力をもってすれば、100歳を越えた老人アブラハムの力を制することもできたはずですが、そうしませんでした。イサクは意味を理解して従順したのです。ひとり息子を献げるアブラハムの従順も驚くべきことですが、その父に無言で従順した青年イサクにも驚嘆します。

父なる神が、人類の罪の贖いのために御子イエス・キリストを十字架におつけになる時の苦悩。そして、その御心に最後まで従われたイエス・キリストの苦悩。それは、アブラハムとイサクの出来事の中に見事に描かれています。

ちなみに、アブラハムがイサクを献げたモリヤの山は、後のエルサレムにあるカルバリの丘であると言われています。イサクが薪をかついでモリヤの山を登ったように、イエス様は十字架をかついでカルバリの丘を登られました。何という一致でしょうか。

③主の山に備えありアドナイエレ)。

御言に従順する道こそ祝福の道ですが、時として、神の御言は、私たちに死をもたらすことがあります。自我が死ぬように導かれるのです。肉の思いを葬って、御言に従順すためです。

しかし、その結果はいのちです。〝肉は死んで霊が生きるようになる〟。これが本当のいのちを得る道です。これは、いのちの御霊の法則です。

聖霊なる御霊は、私たちの中で御言をあらわされます。その御言は、自我の死をもたらし、肉の思いを葬るように導かれます。しかし、そのことによって霊を生かし、かつ永遠に生かすようになさいます。

「愛しなさい」「ゆるしなさい」という神の御言は、肉なる私にとっては従いたくありません。しかし、御言に従うために自分に死ぬしかありません。肉なる自分を生かそうとするなら、霊的ないのちを失います。しかし、御言のために肉なる自分を葬るなら、霊的ないのちを得ることになります。

イサクが自分を葬るための薪を背負ってモリヤの山に登ったように、そして、イエス様が十字架を背負ってカルバリの丘に登られたように、私たちも十字架を負うようにして御言に従順します。これが私たちの生きる道です。

そのようにして従順する山には必ず「主の備え」があります。復活のいのちがあります。まさにアドナイエレです。あなたはアドナイエレを信じますか。そして体験しましたか。きっと体験するはずです。十字架を背負って生きた人生の最期は復活という「アドナイエレ」が用意されていることを。


創世記 21章

2023年12月27日 | 創世記
創世記 21章
サラは言った
神は私を笑わせてくださった。聞く者は皆私のことを笑うでしょう」。(21・6)


ついに時が満ちて、サラは男の子を出産し、イサクと名付けました。「彼(神)は笑った」という意味です。約束が実現することは何と喜びでしょう。アブラハムもサラも笑い、神もまたお笑いになったのです。※冒頭の聖句「神は私を笑わせてくださった」は、新改訳では「神は私を笑われた」。直訳は「神は私に対して笑いをつくられた」。嘲笑の意味ではない。

神の約束を待つ者からは、このように笑いの輪がひろがります。最後に笑う者は、神の約束を信じ続けた者です。アブラハム夫妻は、死人のような自分たちから子孫が産まれると信じ続けました。だから最後には笑うことができました。

途中、約束を信じ切れずに、女奴隷ハガルによって子を得たこともあったように、私たちも人生の中で色んな実を結びます。女奴隷の子という実を結ぶこともあれば、信仰による約束の子という実を結ぶこともあります。神は私たちに「約束の子」という実を結ばせたいと願っておられます。

ぶどうの木であるイエス様につながっていなさい。そうすれば実を豊かに結ぶようになる……と主は命じられました。また、御霊の実を結ぶようになるとも約束されています。

このことは、私たちも信じ続けて約束の子のイサクという実を結ぶことを意味しています。信じ続ける者がイサクを産みます。つまり笑うのです。

涙をもって種をまく者は、喜びの声を上げて刈り取るのです(詩126・5)。主によるあがないの完成を待つ者は、楽しみと喜びを得、悲しみと嘆きとは逃げ去るのです(イザヤ35・10)

最後に、イシマエルをイサクから離すために、アブラハムがイシマエルとハガルを外に出した経緯は、人間的には理解に苦しむことでしょう。このことは新約時代の預言となっています。ガラテヤ人への手紙4章21~31節を参照してください。