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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エゼキエル書 18章

2023年01月06日 | エゼキエル書
エゼキエル書 18章
わたしは何人
(なんびと)の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなた方は翻って生きよ。(18・32)


当時のエルサレムでは「父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯が浮く」という諺(ことわざ)が流行(はや)っていました(18・2)

人々は、今日のエルサレムの困窮は、先祖たちの罪の結果を背負わされているのだと考えていたのです。自分の罪の責任を先祖になすりつける、無責任な言葉です。

しかし主は、「とんでもない。各自は自分の罪によって滅びるのだ」と言われます。「自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する」のです(18・13)

だれかの責任にしたり、言い逃れようとしないで、自分自身の罪の重さと向き合いなさいと、主は言われるのです。自分の罪を認めて、悔い改めることから、新しい道は開けます。

神は、あら探しをするように私たちの罪を指摘なさっているのではありません。自分の置かれている状況を直視せよと言われるのです。罪の結果は死であることを見なさい……と。

神は、私たちの罪を責めて追い詰めようとなさっているのではありません。むしろ、そこから救い出そうとなさっています。わたしは何人(なんびと)の死をも喜ばない」「あなた方は翻(ひるがえ)って生きよと言われるのです。

自分の子どもが、崖に向かって進んでいるのに。危ない!と指摘しない親があるでしょうか。死にいたる病にかかっている病人に、病状を告げずに放っておく医者がいるでしょうか。

人類がかかえている最大の病気……それは「罪」という霊的な病です。肉体の病気は、肉体のいのちを奪うだけですが、罪は、永遠のいのちを奪います。行き着く先は永遠に燃えるゲヘナの火です。

そんな危険な状況にあるのに、罪の恐ろしさを告げない牧師がいるでしょうか。ですから、昔の預言者も、現代の牧師や伝道者たちもそれを告げるのです。悔い改めて、生きよと。

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エゼキエル書 17章

2023年01月05日 | エゼキエル書
エゼキエル書 17章
野のすべての木は、主なるわたしが高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木を緑にすることを知るようになる。主であるわたしはこれを語り、これをするのである。
(17・24)


たとえ話を用いた謎かけが語られています。

2羽の大鷲が登場します。前半の大鷲はバビロンのことです(17・3~6)。バビロンはユダの地から香柏の木(杉の木)の梢を切り取るようにして、エホヤキン王とその民をバビロンに連れてきて植えました。「商業の地」とはバビロンの町のことです。

また、バビロンは、ユダの地には「その地の種(5)」を植えました。それは、バビロンが王として任命したゼデキヤのことです。バビロンの支配下にありながら、それなりの繁栄をとげました。「これが成長して、たけ低く、はびこるぶどうの木となり、枝は鷲に向かい、根は鷲の下にあり、こうしてついにぶどうの木となり、枝を伸ばし、葉を出した」のです(17・6)。 ※香柏(杉)から取られたのが、「ぶどうの木」に変化している。

次に7節から登場するもうひとつの大鷲はエジプトのことです。「このぶどうの木は、潤いを得るために、その根をわしに向かってまげ、その枝をわしに向かって伸ばした」とあります(17・7)。これは、ゼデキヤ王がバビロンに反旗を翻(ひるがえ)し、エジプトと同盟を結んだことを表しています。しかし、バビロンの攻撃によって、ゼデキヤとユダ王国は滅ぼされてしまいます。

こうして、やがて時を経て後に起こるべきことを主は語られました。

わたしはまた香柏の高いこずえから小枝をとって、これを植え、その若芽の頂から柔らかい芽を摘みとり、これを高いすぐれた山に植える。わたしはイスラエルの高い山にこれを植える。これは枝を出し、実を結び、みごとな香柏となり、その下にもろもろの種類の獣が住み、その枝の陰に各種の鳥が巣をつくる。(17・22~23)

大国の狭間で歴史に翻弄されたダビデ王家の木の梢を切り取って、それを高いすぐれた山に植える。その木は繁茂し、多くの者たちを受け止める大木となるというビジョンです。

ダビデ王家の末として来られたイエス・キリスト。このお方から始まった木は、はじめは小さく、からし種のようでしたが、やがて成長し、全世界の人々の救いが宿る木となるのです。以上が第17章の概要です。

歴史に翻弄され、あれこれと策略をめぐらす王たちをよそに、今日の冒頭の聖句は輝いています。高くするのも低くするのも、主がなさるのです。

神はどこにいるのか。死んでいるのか。ならば、バビロンに恭順しよう。いや、エジプトと同盟を結ぼう……と、右往左往する人々に対して、わたしは生きていると宣言なさいます(17・16、19)

そうです。人々が神のことなど忘れ、われ先にと自分の思惑を実行しようと躍起になる中、すべてをご支配なさっているのは神です。その神の「わたしは生きている」という宣言の前に静まるべきです。

朗読配信_Spotifyhttps://open.spotify.com/episode/05Swr3gsoH2F6630dVn57a?si=glqbL0sgS6-5WQQiSuHdaQ
You Tubehttps://youtu.be/8E9dzHLXxEA

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エゼキエル書 16章

2023年01月04日 | エゼキエル書
エゼキエル書 16章
あなたの起り、あなたの生れはカナン人の地である。あなたの父はアモリ人、あなたの母はヘテ人である。
(16・3)


これはエルサレムの町の起源について述べられています。イスラエルによって統治される前のエルサレムはカナン人の町でした。つまり元をたどれば異教の町でした。

そんなエルサレムの町を、神は〝ご自分の花嫁〟として選ばれました。そのことについて次のように記されています。

わたしは再びあなたのかたわらを通って、あなたを見たが、あなたは愛せられる年齢に達していたので、わたしは着物の裾であなたを覆い、あなたの裸を隠し、そしてあなたに誓い、あなたと契約を結んだ。そしてあなたはわたしのものとなったと、主なる神は言われる。(16・8)

かくして、エルサレムは神の花嫁のごとく愛され、整えられ、成長しました。神は、花嫁であるエルサレムの中に共に住み、親しく交わりを持とうとなさったのです。

しかし、彼女(エルサレム)は他の男たちと姦淫をするようにして、偶像礼拝におぼれ、他国の王たちと親交を深め、神に信頼するより、隣国の王たちを信頼する町へと堕落して行きました。その姿は「姦淫」として描かれています。 ※偶像礼拝も霊的な姦淫であるが、世俗の権力と結びつくことも霊的姦淫である。

エルサレムの人々は ――イスラエル民族全体を表している―― 高ぶっていました。神に特別に選ばれた町だ。神の恩寵を受けた特別な存在だ……と。

そこで、主は、冒頭の聖句のように、その町の起こりについて述べられたわけです。元を正せば、その町の起源はカナン人の町であること。異教にドップリとつかっていた町を、神が哀れみ、ここまで育まれたことを忘れてしまったのか。

また、神はこうも言われました。奴隷の地エジプトから連れ出されたイスラエルに、「エジプトにもどってはならない。しかし、自分たちがかつてエジプトで奴隷であったことを忘れてはならない」と。つまり、かつてはエジプトで奴隷であったことを忘れず、謙遜であれという意味です。

私たちクリスチャンもそうです。元を正せば罪人。無きに等しい者を神はあえて選び、神の民、神の子どもとしてくださったという起源を忘れてはなりません。これを忘れてしまうので傲慢になります。

話しをもどします。そんな不義理をしたエルサレムですが、神の結ばれた契約は継続しています。わたしはあなたの若き日に、あなたと結んだ契約を覚え、永遠の契約をあなたと立てると言われるのです(16・60)。この「永遠の契約」とは新約のことです。イエスを信じた人々のことで、「キリストの花嫁」と呼ばれています。

この花嫁は試練を経てきよめられ、整えられて、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天からくだってくる」ようになるのです(黙示録21・2)

神の契約は永遠です。途中で頓挫しません。完成した花嫁を目指してなおも歴史は続きます。

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エゼキエル書 15章

2023年01月03日 | エゼキエル書
エゼキエル書 15章
ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。
(15・2)


「ぶどうの木」は、イスラエルの民を象徴しています。神は、エジプトからイスラエルの民を救い出し、カナンの地にぶどうの木を植えるようにして、民をその地に植えられたのです。

それは豊かな収穫を得るためでした。

実に、天の神は農夫のようなお方です。イエスご自身も、「わたしの父は農夫である」と証言なさっているとおりです。数ある民の中からイスラエルを選び、カナンの地に植えられたのですが、何の実も結ばなかったのです。

もし、実を結ばないのであれば、他の木々と比べて何のすぐれた所があるのかと、冒頭の聖句は問うています。そんなぶどうの木は、木材としても役に立たないし、薪になるだけだと……。

イエスを信じるクリスチャンたちも、新約時代のぶどうの木(枝)です。もし、私たちが霊的な実を結ばなかったら、未信者と何の違いがあるでしょうか。

しかし、感謝すべきは、イエス・キリストがぶどうの木となって、私たちを枝としてつなげてくださいました。イエスは言われました。わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。わたしの父は農夫であって、手入れをなさるのだと。

ぶどうの木は様々な果樹の中でも、剪定(せんてい)がとても重要な果樹だそうです。不要な枝をまめに剪定しなければ実を結ばないし、手入れを怠ると簡単に野生化してしまうのです。

私たちも、神の手入れがなければ、伸び放題の枝や葉ばかりで、何の実も結ばない野生種のぶどうの木になってしまうでしょう。「剪定(せんてい)」という父なる神の取り扱いを感謝しよう。

あれもこれもと延ばした「欲張り」という枝葉はないだろうか。自由と放縦の区別なく伸びた「わがまま」という枝葉はないだろうか。神は、人生の出来事の中でそれらを剪定なさいます。

こうして、私たちは「御霊の実」という、霊的な収穫を得るようになります。愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制です。このような「ぶどうの実」は熟し、芳醇な香りのぶどう酒となるに違いありません。

主イエスは十字架に渡される前夜、「今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」と言われました(ルカ22・18)。それは、神の国の完成なるときに、クリスチャンたちが結んだ御霊の実による霊的なぶどう酒で祝う祝宴のことを預言されたのではないでしょうか。そんな最高の祝いにささげる実を結びたいものです。


エゼキエル書 14章

2023年01月02日 | エゼキエル書
エゼキエル書 14章
すなわち、あなた方が、その行いと、わざとを見る時、彼らはあなた方を慰め、あなた方はわたしがこれに行った事は、すべてゆえなくしたのではないことを知るようになると、主なる神は言われる。
(14・23)


先の13章では、偽預言者たちについて指摘されていました。続いて14章では長老たちに対する指摘です。いずれもイスラエルの霊的指導者です。指導者が間違えば民も間違えます。

彼らの問題は何か。それは偶像礼拝です。まことの神に背を向け、偽りの神々を礼拝していることです。神はそのことをこう指摘なさっています。とても興味深い指摘です。

これらの人々は、その偶像を心の中に持ち、罪に落しいれるところのつまずきを、その顔の前に置いている。(14・3)物質としての偶像も問題ですが、さらに根深いのは、彼らの〝心の中に偶像を持っている〟ことでした。 ※新改訳では「偶像を心に秘めている」と翻訳。〝秘めている〟という表現が根深さをよく表している。

心の中に偶像を持っているので、人はそれを見える形に現すようになるのです。

真の神である創造主を礼拝する。これが、人としての本来の姿です。まことの神を基準に生きる。これが、人としての本来の生き方です。しかし、創造主である神に背くようになって、人は心に偶像を秘めるようになりました。

心の中で、神ならぬものを神とする……。こうして心の中に偶像を持つようになります。その人の中で最大の関心事が「神」となって行きます。

自分の最大の関心事は何だろうか。富だろうか、名誉や地位だろうか、評判だろうか、美食や健康だろうか。これらのものが、まことの神である創造主より大きな関心事であれば、それが「偶像」という神になるのです。

そしてそれが罪に落とし入れるつまずきとなって顔の前に置かれるのです。かたや、詩篇の作者は「私は常に、私の前に主を置く」と告白し、その結果「ゆるぐことがない」と告白しました(詩篇16・8)。私は何を心の中に秘めているだろうか。探ってみる必要があります。

さて、偶像礼拝で堕落した民を厳しく罰せられるのだと、預言は続きます。それをまぬがれようと、信仰の義人であるノアやダニエルやヨブが執り成しても、それはかなわぬことだと4回も繰り返し語られています(14・12~20)。 ※真に執り成すことのできる義人はキリストだけだと暗示している。事実、イエスが十字架でいのちをささげて執り成して、我々の罪はゆるされたのだ。

罪に対する神の厳しいさばきは、つらく、悲しく、絶望的に見えます。しかし、冒頭の聖句が述べているように、ゆえなくなさったのではないと、やがて知るようになるのです。

このさばきの結果、民はバビロンへ捕囚となり、その地で悔い改め、新しく造りかえられて帰還します。真実な礼拝者となって戻ってくる民の姿は、神の厳しいさばきで悲しんだ者たちに希望を与えるのです。

ああ、神の激しい御怒りは、このような聖なる民を得るためだったのだ……と知って、なぐさめを受けるのです。

そうです。神はゆえなく怒られるお方ではないのです。神はゆえなく、悲しみをお与えになるお方ではないのです。きっと、後の時代になって、ああ、このためだったのですねと合点し、讃美できる日が来るに違いないのです。だから、主を信頼しよう。

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エゼキエル書 13章

2022年12月31日 | エゼキエル書
エゼキエル書 13章
わたしはまたあなた方の、かぶり物を裂き、わが民をあなた方の手から救う。彼らは再びあなた方の獲物とはならない。そしてあなた方はわたしが主であることを知るようになる。
(13・21)


エゼキエルはエルサレムの滅亡を預言したのですが、他の自称預言者たちは逆のことを語りました。エルサレムは神の聖なる都であって滅びることはない。安心せよ。捕囚となった人々は早期に解放される。捕囚とならずにすんだ我々は、特別な恩恵を受けた選ばれし者たちだ……と。

しかし、神は、そのような預言者を遣わした覚えがないと言われます。彼らは勝手におもむくままを語り、主の御告げだと言ってる。そのような偽預言者をエルサレムと共に滅ぼしてしまうというのです。

彼らについて神はこう言われました。彼らは虚偽を言い、偽りを占った。彼らは主が彼らをつかわさないのに『主が言われる』と言い、なおその言葉の成就することを期待する。(13・6)

しかし、人々は、エゼキエルが語る預言よりも偽預言者の言葉を歓迎しました。人は自分の都合の良い言葉を聞きたいものです。偽預言者たちの言葉は人々の耳には心地よく、その心をとらえたのです。

新約の時代にも同じことが起きます。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4・3~4)

都合の良い言葉を求める民にも問題がありますが、それ以上に霊的リーダーたちに問題があると、神は指摘なさっています。今日の13章は、偽預言者……つまり偽りの霊的リーダーの問題を指摘しています。

彼らには大きな壁のような問題があるのに、それにしっくいを塗って美しく飾って、あたかも問題など存在しないかのように偽りを語りました。

そのことを神は、彼らはわが民を惑わし、平和がないのに『平和』と言い、また民が塀を築く時、これらの預言者たちは水しっくいをもってこれを塗ると指摘なさっています(13・10)

でも、そんな上辺だけのしっくいは神の御手によって剥がれ落ちてしまうのだと言われます(13・11~16)。化けの皮はやがて剥がれるのです。

また、偽のリーダーたちは、かぶり物を被せるようにして、人々の心の目を覆(おお)ってしまいます(13・18)。ベールが覆ってしまうので、真実を見ようとしません。真理が分からなくなってしまいます。ベールを被せて人々を罠にかけるというのです(新改訳)

新約でもこう言われています。「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリ4・4)

「この世の神」とは悪魔とか悪霊のことです。彼らが発信する偽りの預言や惑わしの言葉が、心に覆いをかけて真理を見えなくするのです。

しかし、それを取り除く方法があります。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです(Ⅱコリ3・16)

旧約の時代も新約の時代も、霊的リーダーたちの責任は重大です。キリストにしっかりと目を向けるように語らなければなりません。また、民はリーダーたちのために祈らなければなりません。彼らが、神の言葉を正しく語ることができるように……と。

なぜ、民は偽預言者にだまされてしまうのですか。それは「聖書を読まないから」です。旧約の民は、聖書を手にできる時代ではなかったのですが、今や聖書を手にできる時代です。

聖書を通して、私の目をくらましている「かぶり物(ベール)」を取り除こう。神の真理のあらわれであるイエス・キリストに目を向けよう。そのようにして救いを得よと、冒頭の聖句は告げているのです。

わたしはまたあなた方の、かぶり物を裂き、わが民をあなた方の手から救う。彼らは再びあなた方の獲物とはならない。そしてあなた方はわたしが主であることを知るようになる。」 ※旧約でも新約でも〝偽預言者〟が民をミスリードしてる。偽りの霊的リーダーたちである。黙示録の患難期には、偽預言者と呼ばれる「地からの獣」が大いに民を惑わし悪魔礼拝を主導する。警戒しなければならない。

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エゼキエル書 12章

2022年12月30日 | エゼキエル書
エゼキエル書 12章
人の子よ、あなたは反逆の家の中にいる。彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である。
(12・2)


「バビロンへ捕囚となった人々の中で、神は彼らの聖所となられる」という預言を、エゼキエルは捕囚の民に語りました(11・25)。しかし、捕囚の民がみな、神の御言を受け入れたかといえば、そうではありませんでした。神がおっしゃるには、「彼らは反逆の家だ」と言われるのです。

どんなに素晴らしい御言が語られても、それを受け取らない人々がいます。彼らは見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしないのです。

見る目があったら見えるはずです。聞く耳があったら聞こえるはずです。でも、見えないし、聞こえません。何故ですか。

それは「反逆の家」だからです。心の中が「反逆の家」となっているからです。聴覚や視覚は正常でも、それを認識する心が病んでいるのです。心が反逆していたら、聞こえているのに真意が聞こえません。見ているのに、真実が見えません。

人間関係も同じです。嫌いな人のことは、彼に素晴らしい所があっても、それが見えません。むしろ、あら探しをします。気にくわない人の言うことは、どんなに素晴らしいことを語っていても、彼の言葉を聞くことができません。裏があるに違いないと、疑いの耳で聞こうとします。

それは、心に反逆があるからです。

神は、バビロンという奴隷の地で、民の心を造りかえ、新しい霊をそそぎ、彼らの心から石のような固い心を取り除き、柔らかい心を与えようとご計画なさっています。

しかし、人々の関心事は、神の深いお取り扱いよりは、目先の問題解決でした。捕囚の早期解決、祖国復帰、祖国の平和を語る偽預言者たちの言葉の方が魅力的でした。

そんなわけで、彼らの心は「反逆の家」となっていました。しかし、そのような中からも、心砕かれ、へりくだる人々が育ってきます。私たちの心の中はどのようでしょうか。

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エゼキエル書 11章

2022年12月29日 | エゼキエル書
エゼキエル書 11章
主なる神はこう言われる。たとい、わたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる。
(11・16)


かつてエレミヤを通して預言された神の御言を思い起こして頂きたいのですが、それは「バビロンの奴隷となってバビロンに仕えよ。そうするなら、いのちを得るのだ」というものでした。

バビロンに屈することが、なぜいのちを得ることになるのでしょうか。
 
真意はこうです。神が、バビロンを用いてエルサレムを撃たれるのであって、バビロンに屈して奴隷となることは、すなわち、神の御手の下に降伏することであるから、その結果、神の御手の中でいのちを得るのです。

逆に、エルサレムに籠城してバビロンと戦い続けることは、悔い改めを迫る神に対して敵対することを意味するのであって、その結果は滅びです。

そして、ついにバビロン軍に包囲され、エホヤキン王をはじめ一部の民は奴隷としてバビロンへ連れて行かれました。この民の中にエゼキエルも含まれていました。第1回目のバビロン捕囚です。

この時点では一部の民が捕囚となっただけで、エルサレムの町も神殿も無傷でした。そこで、エルサレムにとどまった人々は、自分たちは助かったのだ。神のご加護があったのだと考えました。

家を建てるにはまだ期間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ(11・3)と言っているのは、エルサレムにとどまった人々です。

彼らはこう考えたのです。これで、エルサレムの平和は保たれた。だから、ゆっくり家を建てればよい。わが町は鍋のように鉄壁の町だ。捕囚となった者たちは運が悪かったのだ。捕囚となった者たちは、肉にたとえるなら、食べることのできない「骨」の部分だ。われらは旨味のある「肉」の部分であって、良い者が残されたのだと高ぶったのです。

しかし、神の見解はまったく逆でした。エルサレムとその住民は滅ぼされるのです。逆に、彼らがあざ笑った捕囚の民の中に、神は、聖所となって共に住まわれると言われるのです。

捕囚となった人々は、自分の不運を嘆きました。自分は神に見捨てられて、こんな遠くの異国にまで追いやられててしまったと考えたのです。

しかし、それは、神の恵み深い取り扱いでした。彼らはバビロンの地で、神の力強い御手のもとで、へりくだりと従順を学ぶのです。そのような民の中に、神は、彼らの聖所となって共に住むのだと言ってくださるのです。

表向きだけ立派な神殿、形式的な礼拝儀式がくり返されていたエルサレムの神殿からは、神の栄光は去って行きました(10章)。しかし、貧しくつらい環境ではありましたが、へりくだった民の中に神は共に住まわれて、その栄光をお顕わしになるのです。

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エゼキエル書 10章

2022年12月28日 | エゼキエル書
エゼキエル書 10章
時に主の栄光が宮
(神殿)の敷居から出て行って、ケルビムの上に立った。(10・18)


次にエゼキエルが見た幻は、先のケバル川のほとりで見た「生きもののようなもの」の再登場です。これはケルビムと呼ばれる天使であって、神のご性質を顕わす存在です。 ※ケルビムについては第1章の「朝マナ」を参照。「ケルブ」は単数形、「ケルビム」はその複数形。

神は如何(いか)に栄光に富んだお方でしょうか。その栄光の輝きは私たち人間には想像できないほどのものです。その一端をあらわすかのようにケルビムはえがかれています。

神の「栄光」は光ではありますが、電気による人工の光でもなく、天然の太陽のような光でもなく、衰えることも萎(しぼ)むこともない永遠の輝きです。太陽の輝きは、神の栄光の素晴らしさを、ほんのわずかに見せてくれているにすぎません。

その栄光はケルビムによって表現され、実際にはエルサレム神殿にあらわれていました。神殿本来の輝きはどれほどに眩(まばゆ)いものであったことでしょう。しかし、その神殿を汚したために、とうとう、〝その栄光がエルサレム神殿から去って行く〟という幻をエゼキエルは見たのです(10・18)

エルサレムの人々は、この町には神殿があり、神の住まわれる町が滅ぼされるはずがないと高ぶっていましたが、すでに栄光が去ってしまったことに気づいていませんでした。

でも相変わらず、神殿で物の売り買いをする人々で賑(にぎ)わっていたことでしょう。でも、そんなことが栄光ではありません。黄金で造られた調度品が神殿に華やかさを演出していたことでしょう。しかし、そんな地上の金銀が栄光なのでもありません。

神の栄光は、人間の目には見えるときもあれば、見えないときもあります。私たちの霊の感覚が開いていないと見ることができません。だから、肉なる人間には、地上の富や地位や名誉のことが栄光だと感じます。そうではありません。本当の栄光とは、神が共に居られることです。

神は、ウルの町から出て生涯を旅人として生きたアブラハムと共に居られ、彼の上に栄光を顕(あら)わされました。土地もなく、生涯天幕暮らしのアブラハムに……です。傍目(はため)にはみすぼらしい遊牧民です。

また、神は、あのエジプトに奴隷として売られた惨めなヨセフと共に居られて、彼の人生に栄光を顕わされました。兄弟たちに裏切られ、人生のどん底を味わったヨセフに……です。

また、神は、奴隷の地から出エジプトしたイスラエルの民と共に住まわれ、その栄光を顕わされました。夜は火の柱、昼は雲の柱をもって顕わされました。どの国民より弱く、まだ何の土地も得ていないイスラエルに、神は栄光を顕わされました。端(はた)から見れば荒野を放浪する「みすぼらしい民に栄光を顕われました。

そして、ついに、神の御子イエスを通して、神はご自身の栄光を完全に顕(あら)わされました。旧約の時代は御使たち(天使)を通して顕わされましたが、終わりの時代には御子を通して顕わされました。

しかし、御子によって顕わされた栄光は、肉なる人間の目には見えませんでした。ですから、人々にはみすぼらしく映りました。田舎出身の大工のせがれとしか見えませんでした。

そんな中で、イエスの栄光が分かる存在がいました。それは、悪魔や悪霊たちでした。だから、彼らは御子イエスを見るや恐れ、震えおののきました。闇の存在にとっては、御子が栄光に輝いておられるのが分かったからです。

この御子であるイエス・キリストは、私たちの救い主です。私たちと共に居られる神です。ですから、私たちも、御子の栄光をもって輝くようにされました。

私たちが地上的に成功したから、それが栄光になるわけではありません。たとい全世界を得るほどの成功であっても、神が共に居られなければ、それがどれほどの栄光でしょうか。

逆に、たとえ、私たちが名もない平凡な人生であっても、私たちの心は、神を愛し、神だけを礼拝し、神への謙遜と従順があるなら、それは眩(まばゆ)いばかりの栄光です。闇は打ち砕かれ、地上のどんな世俗の栄光をも、太陽の前の蝋燭(ろうそく)のようです。

天の父よ、御子イエスが人の子として栄光をあらわされたように、どうか、私たちを通してもあらわしてください。

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エゼキエル書 9章

2022年12月17日 | エゼキエル書
エゼキエル書 9章
町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ。(9・4)
 
先の第8章では、数々の偶像や偶像崇拝で汚れていたエルサレム神殿の様子が描かれていました。
 
あなたは、そのような様子を見聞きして嘆き悲しんだでしょうか。また、自分自身の中もそのような要素があることを知って恐れを感じたしょうか。エルサレムの町にも、それを嘆き悲しみ、真の礼拝が回復するようにと祈る人々がいました。神は、そのような小さな存在をお忘れになっていません。
 
そこで、神は、その人々の額にしるしをつけるようにと御使に命じました。 ※腰に墨つぼをもった者とは天使である。
 
堕落し汚れてしまったエルサレムを滅ぼすにあたって、神は、現状を嘆き悲しむ者たちを一緒に滅ぼすことのないように、〝しるし〟をお付けになるのです。こうして、真実な礼拝者は守られるのです(9・6)。 ※かつての出エジプトの時は、身代わりの小羊の血を家の門柱に塗ってしるしとした。黙示録でも守るべき聖徒らの額にしるしをつけると預言されている。
 
今の世界も、さばきと滅びを目前にひかえたエルサレムの様相を呈(てい)しています。そんな世界の惨状を目の当たりにして、悲しみつつも、この世界がきよめられますようにと祈るのはだれですか。主イエスを信じる者たちではありませんか。
 
いつの時代にも、キリストにある者たちは天国人としての味付けを失わずに、世に、光と塩をもたらす存在です。それが、時流に抗(あらが)うことになってしまっても……です。
 
そのために、神は私たちにしるしをつけてくださっています。それは聖霊の証印です。あなた方はあがないの日のために、聖霊の証印を受けたのであるとあるとおりです(エペソ4・30)
 
世にあって天国の塩味を保つことは、困難なことです。しかし、その塩味が消されないようにと、主は守ってくださいます。主の御守りを信頼して、世の光、地の塩として生きよう。
 
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エゼキエル書 8章

2022年12月16日 | エゼキエル書
エゼキエル書 8章
彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか。(8・17)
 
エゼキエルは再び幻を見ました。日付は「第6年の6月5日」とありますが、エホヤキン王をはじめエゼキエル自身が捕囚としてバビロンへ連れてこられてから6年目であろうと思われます。  ※この時点ではエルサレム神殿は破壊されていないが、まもなく、バビロン軍によって神殿も町も破壊されてしまう。
 
幻によって、エゼキエルは、バビロンから遠く離れたエルサレムの神殿を見させられました。それは、偶像で満ちた悲惨な現状でした。神はそのことを「悪しき憎むべきこと」だと言われます。「悪い忌み嫌うべきこと」(新改訳)です。3つのことが指摘されています。
 
①偽りの神々の像が神殿におかれ、壁面には獣や偶像が彫刻されている(10)
 
②タンムズ神のための「泣きの儀式」をする人々がいる(14) ※タンムズとは幼なくして死んで生き返った息子を抱いている母親像。
 
③太陽を拝む人々がいる(16)
 
16節に記された人々は、せっかく神殿に来ていながら、「主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた」というのです。滑稽な姿ではありますが、せっかく教会に集いながら、イエス・キリスト以外の事がらに心を捕らわれている姿にも似ています。
 
神は、このような神殿の状況を「大いなる憎むべきこと」「忌み嫌うべきこと」だと言われます。
 
でも人々にとっては、そんなに悪いことには思えませんでした。だから神は、それは軽いことだろうかと問い詰めておられるのです(17)。新改訳ではささいなことだろうか」。
 
教会の礼拝堂に仏像が置かれていたら、それは些細(ささい)なことですか。礼拝に来ながら、東の窓の方を向いて太陽を拝むことは軽いことですか。新約のクリスチャンにとっては、とてもおかしなことです。忌み嫌うべきことです。これが、私の内に住まわれる聖霊の感覚です。聖霊がそれを感じさせてくださいます。
 
ただ、エゼキエルの時代の人々には、些細なことだと思えたのです。だから、エゼキエル書では新しい霊を注ぐ時代が来ると預言するのです。
 
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エゼキエル書 7章

2022年12月15日 | エゼキエル書
エゼキエル書 7章
あなた方はわたしが主であることを知るようになる。(7・4)
 
主イエスは「目を覚ましていなさい」と度々命じられました。何故なら、終わりがやって来るからです。神のさばきの時です。罪に対しては刑罰をもって報い、善に対しては栄光をもって報われる時です。
 
だから、目を覚ましているべきです。もちろん、肉体の目ではありません。霊魂の目を覚ましていなさいという意味です。それは、神のさばきがあることを忘れないで生きることです。
 
今日の第7章には、何度も「仕返しをする」「報いる」「罰する」という語句がくり返されています。いずれも神がなさることです。神の主権でこれらのことはなされます。
 
「今」だけを見ていると、何をしようと、どう生きようと、すべてが自由のように感じます。その結果を考えようともしないし、その結果など存在しないかのようです。
 
神を無視して生きたとしても、だれも責めもしませんし、平気です。また、人知れず善を行ったとしても、だれも認めてくれないし、報われないようにさえ感じます。正直者はバカを見るのです。
 
しかし、忘れないでください。神がお報いになるのです。「わたしが仕返しをする」「わたしが報いる」と主は言われるのです。つまり、神が精算をなさる時が必ず来るというのです。
 
この神による精算を意識して生きることが目をさましていることです。逆に、霊魂が眠っているとは、今だけを生きている人のことです。
 
ですから、目を覚ましていよう。「今」は今のままで終わるのではありません。善につけ、悪につけ、やがて神が報いてくださる時が来ることに目覚めていよう。この時のことを、聖書は「主の日」「終わりの日」と呼んでいます。この終わりの日を知っているので、今をどう生きるかを考えます。このような人が、目を覚ましている人です。
 
しかし、霊魂の眠っている人々にとっては、「主の日」とか「終わりの日」は、まるで眠りから急に覚まされるような出来事です。それを新改訳聖書では興味深い訳をしています。
 
終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る(7・6新改訳)。主の来臨は、眠っている人を起こしにやって来られるのです。
 
こうなって、ようやく、このお方こそが主であり、まことの神であることを知るのだと語られています。第6~7章にかけて、何度もわたしが主であることを知るだろうとくり返されています。でも、その時になって知るのでは遅いのです。
 
新約の民はイエスこそ主であると知っています主イエスが再び来られて、善であれ悪であれ、正しく報われる神であることを知っています。眠った者ではなく、目を覚ましている者たちです。
 
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エゼキエル書 6章

2022年12月14日 | エゼキエル書
エゼキエル書 6章
見よ、わたしは剣をあなた方に送り、あなた方の高き所を滅ぼす。(6・3)
 
先の第5章では、罪とは、神への礼拝を破壊することだと学びました。もちろん、殺人・不倫・盗みなどといった悪事も罪の範疇(はんちゅう)に入りますが、それは〝枝葉の罪〟です。その〝根っ子の罪〟こそが根源です。神を否定し、神への聖なる礼拝を汚すことです。そのような根っ子があるので枝葉が出てきます。
 
問題は〝根っ子の罪〟です。神は、その根っ子の罪を滅ぼすために「さばき」を下されます。
 
そこで、聖なる礼拝を汚している「偶像礼拝」を滅ぼしてしまわれる様子が預言されています。「あなた方の祭壇はこわし荒され、あなた方の偶像は砕かれて滅び、あなた方の香の祭壇は倒され、あなた方のわざは消し去られる」(6・6)
 
興味深いことは、あなた方の高き所を滅ぼすという預言です(6・3)
 
旧約聖書の列王紀とか歴代志には、この「高き所」が登場します。偶像礼拝がささげられた場所であるわけですが、詳細は記録されていません。
 
歴代の信仰あつき王たちは、まことの礼拝を回復しようと尽力したのですが、だれも「高き所」を取り除くことができませんでした。あれほど熱心な宗教改革者たちをしても、この「高き所」を取り除くことができなかったのです。しかし、神が、この高き所を打ち壊されるのです。
 
では、高き所とは何を意味しているのでしょう。昔から多くの偶像礼拝は「高き所」でなされています。日本の神社も石段を登り切った高い所に建設され、多くの山頂には鳥居や社が立てられています。
 
諸外国でも同様です。あのマチュピチュも山の頂上に礼拝所が建築されています。建造された理由には諸説ありますが、そのひとつは、かつて神はノアの時代に大洪水で偶像礼拝者たちを滅ぼされた。しかしその後の人類は、「洪水で滅ぼされてなるものか」と反抗するかのように、高き所を目指して偶像の祭壇を築くようになったという解説は興味深いものです。
 
その説の真偽は不明ですが、人類の根っ子には、このような神への対抗心からくる偶像礼拝があるのです。あの「バベルの塔」も、神に反抗する人々が、高き塔を建造して自分たちの名を高めようとした思想にも通じるものがあります。
 
そのような建造物としての「高き所」より、さらに強固に建てられているのは、私たちの心にある「高き所」です。自分を神として祀(まつ)っている高き所……それは、人間の心に根深く潜んでいます。
 
人の心にある高き所は、神の御手によらなければ取り除くことのできない領域です。十字架の血のきよめと聖霊降臨によってのみ、人の心に巣くう「高き所」は打ち壊されます。
 
おのれを神とし、おのれを誇り、神を王座から引きずり下ろし、自分が座ろうとする人間の高慢。これこそ、私たちの高き所です。人の手によっては取り除くことのできなかった「高き所」です。
 
自分を神とする自我は、イエスの十字架の死によって砕かれ、その高き所から降りてこなければなりません。そして、ひざをかがめ、イエスこそ主であると告白し、まことの礼拝者になるのです。
 
第6章では、このような神の取り扱いの中で、人々はわたしが主であることを知ることになると預言されています(6・7、13、14)
 
主によって砕かれた者は幸いです。彼らは告白します。「主イエスこそ礼拝を受けるべきお方です」と。
 
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エゼキエル書 5章

2022年12月13日 | エゼキエル書
エゼキエル書 5章
わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。(5・13)
 
先の4章に続いてエルサレム崩壊の預言です。具体的にはバビロン軍の進撃によって滅ぼされるわけですが、それは、罪をおかしつづけ悔い改めない民に対する神のさばきであると預言されています。
 
たまたま戦争に勝てなかったからではありません。一般の歴史書には、戦力に勝るバビロンが弱小国のユダヤを滅ぼしたと記録しますが、聖書は神の視点で描かれています。それは罪の結果である……と。
 
では、その罪とは何ですか。
 
あなたは、あなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚したので、わたしはあなたを取り去り、わたしはあなたを惜しまず、また、あわれまない。(5・11)
 
聖所とは神殿のことです。神への礼拝がささげられるところです。聖所を汚すとは、神への礼拝を汚すことです。 ※神殿域全体には庭もあり、祭壇、洗盤もある。その中央の建造物が正確な意味での聖所である。聖書ではそれらもふくめて〝聖所〟と呼ぶ場合がある。
 
神は、昔から今も、まことの礼拝者を求めておられます。神の意図は、まことの礼拝者による聖なる世界を完成することです。
 
さて、剃られた頭髪とヒゲはユダの民のことを表しています(5・1)。彼らは神の御怒りから逃れることができない。滅ぼされると語られています。
 
ある人は「そこまでしなくても」とお考えでしょう。でも、神は、そこまでしなければ、民は悟らないのだと言われます。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう(5・13)
 
何故、神は、ひとり子を罪のいけにえとして十字架で葬られたのですか。そこまでしなければ、民は悟らないからです。私たちのかかえている罪の大きさ、重さ、深さ、広さは、神のひとり子が壮絶な死をとげるほどの罪であることを……。
 
神の人類に対するさばきの厳しさばかりに目を向けるのでなく、その筆舌し難い御怒りを、神のひとり子が、あの十字架上で引き受けてくださったことを忘れてはなりません。
 
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エゼキエル書 4章

2022年12月12日 | エゼキエル書
エゼキエル書 4章
それはパンと水が乏しくなるからだ。彼らは自分たちの咎(とが)のために、みなやせ衰え、朽ち果てよう。(4・17)
 
神はエゼキエルに奇妙な命令をされました。粘土板(瓦)にエルサレムの町を描いて、町を囲むようにして町に顔を向けよと(4・1~3)。これは、やがてバビロン軍がエルサレムを包囲し攻撃することの預言でした。
 
奇妙な行動はさらに続きます。
 
エルサレムを描いた粘土板を前にして、左脇を下にして390日間横たわれと言われるのです。それが終わったら、逆に右脇を下にして40日間。
 
横になりながら雑穀入りのパンを1日1回だけたべて過ごせ。そのパンを焼くときには人糞を燃料にして焼け。当時、燃料として家畜の糞を乾燥させて、それを焼くことは一般的でしたが、人糞とは……。
 
異様な光景です。エゼキエルの行動は人々には奇異に感じられたことでしょう。
 
しかし、そうでもしなければ、人々に危機的な状況を理解させることは難しかったのです。言葉で語っても伝わらないのであれば、生活とか生き様を通して、神は語られるのです。
 
それは、今の時代でも同じです。私たちクリスチャンは、神の御言を自分の言葉で伝えますが、自分の生活で伝えることも大切な伝え方です。礼拝に集う姿。祈る姿。聖書を読む姿。きよい生活。そのような生き様や、価値観や言動が、キリストからの手紙のようにして、人々に読まれるように祈ります。
 
さて、彼の特異な行動は、後のエルサレム滅亡を表しています。バビロン軍に包囲された民が、燃料もなく、食べ物が不足する様子です。そうなるのは自分たちの咎のためだと語られました(4・17)。新共同訳では「罪のゆえに」。口語訳では「罰のために」と翻訳していますが、エルサレム滅亡は民のはなはだしい罪が原因です。
 
今日もその原則は変わりません。しかし、感謝すべきは、その罪の結果、受けるべく滅びを、イエス・キリストは十字架で引き受けてくださいました。このことを忘れてはなりません。
 
これからエゼキエル書を読み進めると、ますます、罪に対する神の御怒りと、さばきと、滅びが預言されて行きますが、だからこそ、イエス・キリストの十字架の恵みの大きさも明確になります。
 
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