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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エゼキエル書 3章

2022年12月10日 | エゼキエル書
エゼキエル書 3章
人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。(3・17 新改訳)
 
(1)御言による腹ごしらえ
 
神はエゼキエルにひとつの巻物をお見せになりました。それには神の御言が記録されていました。そして、それを食べよと命じられたのです。
 
「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」(3・3)
 
神の御言を食べて霊的な腹ごしらえをして出かけよと言われるのです。私たちが毎朝、聖書を読み続けるのは、今日一日の腹ごしらえなのです。「腹が減ってはいくさはできぬ」というわけですね。
 
(2)同胞に遣わされる
 
こうして腹ごしらえをしたエゼキエルを、神は派遣されます。どこに派遣なさいますか。「むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わす」のです(3・5)
 
もちろん、むずかしい外国語を学んで他国に派遣されるように召された人もいます。海外への宣教師たちです。私の知る宣教師は、高校生の時に中国宣教のビジョンを受け外語大学の中国語を専攻。今では中国人と区別がつかないほどです。
 
しかし、多くの場合、クリスチャンは同胞に遣わされています。あなたの身近な場所、生活の場が、神が遣わされた大切な場所です。宣教地です。
 
自分は母国にいて、宣教師だけが派遣されていると誤解していませんか。私たちの母国は天国です。そこから、この地に宣教師として派遣されています。
 
変な言い方ですが、私やあなたの「日本語」が用いられるのです。得意とする日本語が、福音を伝えるために神に用いられるのです。どうか、神の御言を伝えるために、日本語が研ぎすまされますように……。
 
(3)見張り人とした
 
神は、エゼキエルを「イスラエルの家の見張り人」として任命なさいました。
 
「見張り人」とは敵の進撃をいち早く発見し、それを知らせるのが任務です。ですから、目を覚ましていなければなりません。重要な任務です。
 
神のさばきが近い。神はエルサレムを滅ぼそうとされている。そんな危機的な状況下で、人々は惰眠をむさぼっていました。エゼキエルの任務は、そのような人々に警鐘を鳴らし、終わりの時に備えるようにと、人々の目を覚ますことでした。
 
今の時代、この見張り人の役割はイエスを信じるクリスチャンたちに託されています。主イエスの再臨の日が近いことを知って、人々に警鐘を鳴らさなければなりません。
 
そのような警鐘は、昔も今も、惰眠をむさぼる人々は聞きたくありません。うるさい! 静かに寝かせておいてくれ!!と、怒鳴られます。そんなわけですから、起こしてあげるにも工夫が必要です。
 
まずは、私たちは「見張り人」として目を覚ましていることが肝心です。今日も目を覚ましていよう。
 
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エゼキエル書 2章

2022年12月09日 | エゼキエル書
エゼキエル書 2章
彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。(2・7)
 
エゼキエルは神から預言者として召されたわけですが、派遣されるにあたって、「彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない」と命じられました。つらいことです。人々が神の言葉を拒むこと知りながら、それでも語り続けよと言われるのです。
 
しかし、視点を変えれば、神は、私たち人間が聞こうが聞くまいが、語り続けておられるということです。反逆の民と呼ばれたイスラエルにも語り続けてくださる神の慈愛を知ることができます。
 
ですから、私たちが聞こうという意志さえあれば、神の御言を聞くことができるのです。
 
主イエスは聞く耳のある者は聞くがよいと呼びかけられました。 ですから私は聞きます。主よお語りくださいと祈ろう。すると、ある時は、聖書を通して語ってくださいます。ある時は、出来事の中で語ってくださいます。ある時は、祈りの中で語ってくださることがあります。
 
明確な声として聞かなくても、こうおっしゃりたいんだな……と感じるのでも良いのです。
 
お願い事ばかりの多い祈りに、聞く祈りを加えてみよう。「聞こう」と意識しないので、聞こえないのです。主は私に語りかけてくださっていることを意識して祈るのです。
 
イエス様は、無きに等しい私にさえも語ってくださいます。その感動が、今度は、私も人々に語ろうという勇気と励ましを生み出します。
 

エゼキエル書 1章

2022年12月08日 | エゼキエル書
エゼキエル書 1章
その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。(1・28)
 
エゼキエルは先のエレミヤと同時代の人物で、共にバビロン捕囚を体験した預言者でした。エレミヤは捕囚を免れてユダヤにとどまりましたが、エゼキエルは捕囚となってバビロンに連れて行かれました。
 
そのエゼキエルが預言者として召されたのは、バビロンに移住して5年目のことでした。エホヤキン王が捕囚となった時から5年目と記されていますので紀元前592年のことです(1・2)
 
この時点では、エホヤキン王と一部の民が ――この中にエゼキエルも含まれている―― 捕囚となっただけであり、祖国のユダヤ王国は存続していました。
 
ただし、バビロンの主権のもとにゼデキヤが王として擁立されたのであり、実質的にはバビロンの傀儡(かいらい)政権として、かろうじて王国の体裁を保っている状況でした。
 
最終的にエルサレムが陥落してユダヤが滅ぼされるのが、紀元前586年のことですから、エゼキエルが預言者として召されたのは、エルサレム陥落の6年前ということになります。
 
しかし、当時のユダヤ人は非常に楽観的でした。捕囚も長くは続かない。すぐにでも戻って来ることができる。それに、神の都エルサレムが滅びるわけがない。神はそれをおゆるしになるはずがないと、都合良く考えていました。
 
そんな中で、預言者エレミヤおよびエゼキエルは、「エルサレムは滅ぼされる。悔い改めて神に立ち帰れ」と語ったわけですから、人々からは受け入れられず、反感をかうことになりました。
 
さて、神は、エゼキエルに幻をお見せになりました。そこには〝四つの奇妙な生き物が見えました。これはケルビムと呼ばれる天使であることが、後の第10章で明らかになります。
 
神を見ることはできません。しかし、神は、このように天使の姿を通して、神のご臨在を証しなさいました。それらには、各々に四つの顔があって、
 
① 獅子、② 牛、③ 人間、④ 鷲……
の顔だったと記されています。
 
この表現は黙示録にも表されており(黙4・7)、神のご性質を表しています。獅子は〝王〟を表し、力とか権威の象徴。牛は〝しもべ〟を表し奉仕の象徴。そして人間は知性ある〝人〟の象徴。鷲は天的存在である〝神〟を表しているとされます。
 
新約聖書の四福音書も、マタイは王であるイエスを、マルコはしもべであるイエスを、ルカは人であるイエスを、ヨハネは神であるイエスを描いていることにも対応しているようです。
 
神の臨在を表す幻は、世界中を行き巡り、罪をさばき、万物を統べ治められる様子を表しています。これから、ユダヤとエルサレムに臨まんとしている大いなるさばきの序章のようにも思われます。
 
しかし、エゼキエルは、そんな恐ろしい姿や情景の中に雨の日の雲の間にある虹のような栄光を見ることができました。嵐のような激しい雨の向こうに虹が見えるとき、それは希望の虹です。
 
ノアの時の大洪水が終わって、神はノアに虹をお見せになりました。それは、洪水による恐ろしいさばきが終わったしるしでした。
 
エゼキエルは、神の激しいさばきを預言しますが、その向こうに希望の虹を見つめながら語った預言者でした。私たちも、いかなる環境の中にもこの〝虹〟を見出すものであろう。
 
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