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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エゼキエル書 33章

2023年01月24日 | エゼキエル書
エゼキエル書 33章
わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。
(33・7 新改訳)


敵がやってくるのに、見張り人が危険を見逃したり、見ても伝えなかったら、その責任は重いように、バビロンによって滅びることを知りながら、それを伝えないなら、それはエゼキエルよ、あなたの責任が問われるのだと言われました。 ※口語訳ではイスラエルの家を見守る者とすると翻訳。

そこで、エゼキエルはエルサレム滅亡の危機を伝え、悔い改めるよう警告するも、返ってくるのは人々からの反発や顰蹙(ひんしゅく)でした。「見張り人」としての使命はなんと重く辛いことでしょう。

今日の聖句はエゼキエルに与えられた使命であって、私のことではないと言えるでしょうか。現代の見張り人とはだれのことでしょうか。気が重いのですが、イエス・キリストを信じる〝私のこと〟ではないかと問われるのです。

私たちは、世の終わりが来ることを知っています。最後に真正なる神の審判があることを知っています。そのさばきの権をお持ちなのが、私たちの主イエス・キリストであることを知っています。そのような終わりの時が来るというのに、それを伝えないなら、居眠りをしている見張り人ではないのか。そんな問いかけを受けるのです。

町の随所に「世の終わりは近い。悔い改めてイエスを信ぜよ」といった主旨の黒地の看板を貼って行くクリスチャングループがいます。また、都会の雑踏の中で、その旨の録音メッセージを拡声器から流しながら立っている人々がいます。

そのような勇気や大胆さの無い私には、彼らのことを論じる資格がありません。ただ、伝え方には工夫と配慮が必要だと思います。

反発を受け人間関係をこじらせてでも大胆に伝えるのか。あるいは、配慮をもって伝えるのか。どちらが正しいのか私には分かりません。万事を益となさる主を信頼して、それぞれの達し得たところに従って見張り人として働かなければなりません。

旧約における神の働きには「預言者」と「祭司」がありました。大胆に神の御言を語って民が神につながるように教えた預言者と、弱さのある民を取りなしつつ神に結びつける祭司の働きです。

両方の働きが必要です。ブルドーザーのように福音を伝えたパウロのような働きもあれば、丁寧(ていねい)にコーチングをしながら人材を育てたバルナバのような働きも必要であったように……。

現代の見張り人として、私はどのように働くべきか求めて祈ります。主イエス様。どうか、私がイエスの証人として歩むことができますように。聖霊様の圧倒的な助けと満たしを与えてください。

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エゼキエル書 32章

2023年01月23日 | エゼキエル書
エゼキエル書 32章
人の子よ、エジプトの王パロのために、悲しみの歌をのべて、これに言え、あなたは自分を諸々の国民のうちの獅子であると考えているが、あなたは海の中の龍のような者である。あなたは川の中に、はね起き、足で水をかきまぜ、川を濁す。
(32・2)


エジプトの滅亡預言の最後です。

栄華を誇ったエジプトでしたが――それは諸国の中の獅子のような存在だった――、しかし神は海の中の龍と表現なさっています。 ※新改訳では「わに」と翻訳。「龍」とも訳せる。

エジプトの滅びは、龍であるサタンの滅びに通じるかのように暗示されています。それを裏付けるように、エジプトが滅びる時は、全地が暗くなると預言されています。

わたしはあなたを滅ぼす時、空をおおい、星を暗くし、雲で日をおおい、月に光を放たせない。わたしは空の輝く光を、ことごとくあなたの上に暗くし、あなたの国を闇とすると主なる神は言う。(32・7~8)

この預言のとおり、主イエスが十字架で死なれたとき ――それは、サタンの罪と死のわざを滅ぼされた時―― 太陽は暗くなり、暗やみがおおったと記されていますが、龍にたとえられたエジプト滅亡の様子を想起させます。 ※イエスの十字架の死によって悪魔はさばかれ滅ぼされた。ヨハネ12・31、ヘブル2・14、Ⅰヨハネ3・8参照。

エジプトの最期 ――バビロン軍に打ち破られる―― それは、周囲の国々を「心痛ませ」「おののかせ」「打ち震えさせる」ことになりました(32・9~10)

エジプトの滅びは、文明を誇り、軍事力を誇り、全地の獅子のようにふるまったとしても、神をあなどる者の最期を見るようです。現代でいえば超大国アメリカのような国が滅びるほどの衝撃です。

そんなことがあり得るだろうか。

エゼキエルの時代の人々も信じられないような預言でした。しかし、長い歴史の中でいくつもの大国が滅びて行きました。先の2011年の東北大震災でおきた原発事故も、一歩間違っていれば日本は滅んだかも知れません。国が滅亡することなど想像の世界でしたが、あの時、私は現実味をもって感じました。

神の力強い御手のもとで、謙遜にならなければなりません。


エゼキエル書 31章

2023年01月21日 | エゼキエル書
エゼキエル書 31章
これは、たけが高くなり、その頂
(いただき)を雲の中におき、その心が高ぶりおごるゆえ……(31・10)


エジプトについての預言が続きます。ここではエジプトがレバノンの香柏(杉の木)にたとえられています。※新改訳聖書では、「見よ、アッシリヤはレバノンの杉」とあり、エジプトもそれと同じだと翻訳。

レバノン杉といえば、その地方で最も高価ですぐれた木材です。まっすぐに力強く伸びるレバノン杉は、力強く生長したエジプトをたとえるのに相応しい樹木といえるでしょう。

周囲の一般の杉の木からも羨望の的でした。否、神に選ばれし民イスラエルにもこのような立派な杉の木はありませんでした。そのことを次のように預言しています。

神の園の香柏も、これと競うことはできない。もみの木もその枝葉に及ばない。けやきもその枝と比べられない。神の園のすべての木も、その麗しきこと、これに比すべきものはない。わたしはその枝を多くして、これを美しくした。神の園にあるエデンの木は皆これをうらやんだ。(31・8~9)

「神の園の香柏(杉)」とはイスラエルのことです。神の民でさえうらやむほどの力と繁栄を手にしたのがエジプトでした。

しかし、そのエジプトも彼の丈は高くされ、その梢(こずえ)を雲の間に伸ばしたので、心はおごり高ぶったと主は指摘なさっています(31・10 新共同訳)

どんな立派な杉の木でも、大地の栄養、適度な日照と降雨がなければ成長できません。神からの恵みの水によって生かされているのです。「これはその大きなことと、その枝の長いことによって美しかった。その根を多くの水に、おろしていたからである」と、その恵みを指摘しています(31・7)

しかし、神の恵みを忘れて、雲の間から顔を出すようにして高慢になったエジプトでした。

高ぶりは神への敵対となることを忘れてはなりません。神の御前にへりくだることを学んだ人は幸いです。高慢の鼻をへし折られた経験をした人は、何という祝福でしょう。

そのような人は、神の御前に悔いし砕けし魂をささげることができるからです。

話しは変わりますが、エンジェラ・エルウェル・ハント作の三本の木という物語があります。それは、いつかは偉大な木になりたいと願う〝三本の木〟のそれぞれの生涯を描いた物語です。

第一の木は、王の宝石箱になることを夢見ていたが、家畜小屋の飼い葉桶になった。ところが、クリスマスの夜、嬰児(みどりご)イエスをお入れすることになった。世界で最高の宝をお入れしたのだ。

第二の木は、大きな船になることを夢見ていたが、ガリラヤ湖の漁師が使う小舟になった。ところが、キリストがその小舟に乗って御業をなさった。王なるキリストをお乗せしたのだった。

第三の木は、人々が見上げる大木になることを夢見ていたが、変哲(へんてつ)もない角材として切り出された。ところが、十字架の木となってキリストをおつけすることになった。それを多くの人々が見上げて、キリストを賛美したのである。いずれの木も、思い描いたとおりにはならなかったが、キリストのために用いられた物語です。そこに共通しているのは、あのエジプトのような高ぶったレバノン杉ではなく、悔いし砕かれた木であったことです。

「高ぶり」の反対語は何ですか。「謙遜」「へりくだり」もそうですが、私は「仕える者になりなさい」といわれた主イエスの御言が思い出されます。


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エゼキエル書 30章

2023年01月20日 | エゼキエル書
エゼキエル書 30章
彼らは、わたしが主であることを知る。
(30・26)


エゼキエル書で何度もくり返される言葉です。

彼らは、わたしが主であることを知る」。神がエジプトを撃たれるときも、「彼らはわたしが主であることを知る」のです。実際には、バビロンによってエジプトが倒れるのですが、その時、「彼らはわたしが主であることを知る」のです。

本当は、そのようになる前に、主こそ神であることを知るべきです。

神がエジプトをさばかれることは、やがて来たらんとする全世界のさばきを表しています。イエス・キリストはさばきの権をもって再臨なさいます。その時になってだれもが、イエス様が神であることを知るようになります。

でも、それでは遅いのです。

主イエスが来られる前に「イエスは主です」という告白をもって、さばきを免れるようにと聖書は語っています。あなたはご存知でしょうか。イエス・キリストこそ主であることを……。あなたの若い日にあなたの創造主なる神を知るべきです(伝道12・1)。

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エゼキエル 29章

2023年01月19日 | エゼキエル書
エゼキエル 29章
主なる神はこう言われる、エジプトの王パロよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。
(29・3)


29~32章はエジプトに対する預言です。

旧約時代のエジプトといえば世界の中心でした。当時の歴史の主役と言ってもよいでしょう。しかし、それほどに栄華をきわめたエジプトに対して、神である主はわたしはあなたの敵となると言われたのです。※新改訳では「わたしはあなたに立ち向かう」。

神が敵となられる……これほど恐ろしいことが他にありません。無知な人は「人間を敵とすること」を恐れても、「神を敵にまわすこと」は平気です。本当に恐ろしいことは、神が敵となってしまわれることです。

しかし、逆に、神が私たちの味方となってくださるなら、いったいだれが敵対し得ましょうか(ローマ8・31)。こんなに力強いことは他にありません。

エジプトはなにゆえ神を敵にまわしてしまったのでしょうか。それはエジプトの高慢な態度ゆえです。彼はこう語ったのです。ナイル川は私のもの、私がこれを造った(29・3)

エジプトはナイル川によって繁栄した国です。川がもたらす栄養分が大地を潤し、豊かな作物をもたらしました。彼らはナイル川を誇り、しかも、自分たちがその川を造ったと豪語したのです。

創造主である神を認めない態度。この高ぶりに対して、神は敵となられるのです。先のツロに対しても同じでした。高ぶりに対して、神が敵となられることを忘れてはなりません。

この後、エジプトは歴史の表舞台の一線から退くようになります。徐々にその影響力を失って行きます。諸々の国よりも卑しくなり、再び諸々の国民の上に出ることができない。わたしは彼らを小さくするゆえ、再び諸々の国民を治めることはない(29・15)

その後の歴史が、神の御言の確かなことを裏付けています。

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エゼキエル書 28章

2023年01月18日 | エゼキエル書
エゼキエル書 28章
あなたは心に高ぶって言う、『私は神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。
(28・2)


さらに神は、ツロの王に向けて語られます。先にも述べましたように、ツロの町は交易による富によって繁栄していました。しかし、ツロの王の心には高ぶりが生じてきました。

あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯したのです(28・16)。だれもが陥りやすい道です。物事が順調に行くと自分の能力を誇り、自分を神のように勘違いするのです。

こうして、ツロの王も堕落してしまい、冒頭の聖句のように「私は神である、神々の座にすわって、海の中にいる」と豪語するようになったのです。 ※「海の中にいる」とは、ツロが陸地から離れた出島に建てられた町であったことを意味している。

人が神のようになることは成長でも出世でもありません。それは堕落です。「あなたは人であって、神ではないのです(28・2)

自分の領域を守らないことが堕落です。それを罪といいます。人は被造者であって神ではない。被造者は創造主なる神に仕えるのが〝分〟であって、その分をわきまえないことが堕落です。

神に仕えるべく天使も同様。ところが神の座につこうとして堕落した天使たちがいます。それが悪魔とかサタン、そしてその仲間たちです。

悪魔は、エデンの園にいたアダムとエバにも自分と同じあやまちをさせました。善悪を知る木の実を食べたら、あなたも神のように賢くなれるのだ…と。また、悪魔にだまされた人類は、バベルの塔を建築して、自分たちは神の御座に近づこうとしました。

バベルの塔は文明の偉大な業績ではありません。自分を神とし、神を認めない文明……。それがどんなに裕福で快適な社会であっても、神を礼拝しない世界は堕落です。人としての〝分〟を失った姿です。

このように、ツロの王に対する預言は、自分を神とするすべての人々に向けられています。そして、その背後で、自分も神の座につこうとしたサタン(悪魔)に対する預言でもあります。

イザヤ書14章では、堕落したバビロン王に対する預言になぞらえて悪魔に言及されていました。「いと高き方のようになろう」と、自ら神の座に着こうとした悪魔の姿でした。そしてエゼキエル書では、高ぶりの極致に達したツロの王に対する預言になぞらえて、悪魔の堕落が告げられています。

悪魔にだまされてはなりません。人としての分をわきまえることからスタートしよう。「なんじの創り主をおぼえる」ことに基礎を置くことから始めよう。

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エゼキエル書 27章

2023年01月17日 | エゼキエル書
エゼキエル書 27章
人の子よ。ツロについて、哀歌を唱えよ。
(27・2)


ツロの町の繁栄はまことに見事なものでした。ツロの人々が「私の美は完全である」と自慢するほどに、栄華をきわめていました。

先の26章でも述べたように、彼らは海洋民族であって、貿易船で地中海を行き巡り、世界中の金品を商(あきな)いし、ありとあらゆる富が行き交っていました。その交易で得た富と繁栄は人々を魅了しました。

ツロの交易によって、彼らと取引をする国々もまた繁栄を享受しました。あなたの商品が海を越えてきた時、あなたは多くの民を飽かせ、あなたの多くの財宝と商品とをもって、地の王たちを富ませたとある通りです(27・33)。 ※彼らの富の豊かさは、27章に記されている数々の金品に表されている。

しかし、そのような富と、富を主人とするツロは滅ぼされてしまうのだと、主は語られました。ツロに対して讃歌ではなく、哀歌を唱えよと主は命じられました。ツロの人々は自らに讃歌を惜しまない人々でしたが、預言者には哀歌を告げられました。

世の終わりを預言したヨハネの黙示録でも、このような富と富を主人とする都が滅びて行くさまがえがかれています(18章)。それは地上の富と繁栄の美酒に酔いしれる大バビロン滅亡の預言です。

この大バビロンは、世の富を主人とする女として描かれています。彼女は偽りの主人である富と結ばれることによって、贅の限りを尽くした女です。真の主人である神を裏切り、富を愛し、仕え、礼拝する姿は霊的姦淫のきわみの姿です。それゆえに、神は、彼女(大バビロン)のことを「大いなる大淫婦」と呼んでおられます。

ツロの滅亡は、そんな「大いなる大淫婦バビロン」の滅亡を想起させる出来事でした。

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エゼキエル書 26章

2023年01月16日 | エゼキエル書
エゼキエル書 26章
あなたは網を張る場所となり、再び建てられることはない
(26・14)


26~28章はツロについての預言です。

ツロとはフェニキヤ人の港町で、最も繁栄していた貿易港でした。フェニキヤ人は海洋民族で、彼らは地中海をわが庭のように駆け巡り、貿易によって豊かな富と繁栄を謳歌していました。

彼らの首都であるツロの町の中心は、陸から離れた出島にあったので、外敵を寄せ付けませんでした。そのため、ツロの人々は、エルサレム陥落を対岸の火事のごとく見てあざけっていました(26・2)。 ※「あざけりの座につく者」は悪魔的な態度であり、神が忌み嫌われることは、先の25章のアンモン人の場合と同様である。

しかし、この富を主人として高ぶる町も、やがて滅びるのだと語られています。冒頭の聖句のように、そこは網を張る場所になるのだ……と。貿易港の華やかさは廃れ、漁師がのどかに網を打つ様子が預言されています。まさにこの預言の通り、現在のツロは平凡な漁港となっています。

今は栄えているようでも、富を主人とする民も国もやがて衰えて行きます。ツロのみならず、世界の歴史がそれを物語っています。主である神だけが主人とするのに相応しいお方です。 ※黙示録でも、富を主人とする偽りの繁栄 ――聖書はそれを「バビロン」と呼んでいる―― が滅びて行く姿が預言されているが、ツロの凋落はその予兆のように思われる。

このように主によって撃たれたツロの町ですが、そのことによって、「聖書の神こそ主である」と知る者が出てきます。

それは、主イエスに娘のいやしを熱心に願って求めたツロ・フェニキヤの婦人です。しかも、彼女の信仰はイスラエル人の中にもないとイエスをして言わしめるほどでした。

神の厳しい御怒りを受けたツロでしたが、そのさばきの中から、彼女のような麗しい信仰の花が咲き出でる恵みを感謝しよう。


エゼキエル書 25章

2023年01月14日 | エゼキエル書
エゼキエル書 25章
あなたはわが聖所の汚された時、またイスラエルの地の荒された時、またユダの家が捕え移された時、ああ、それはよい気味であると言った。
(25・3)


第25章から32章まで「周辺諸国について」の預言が語られています。

エゼキエル書は三つの内容になっています。
 ①イスラエル(ユダ)の罪とそれに対するさばき。
 ②周辺諸国の罪とそれに対するさばき。
 ③さばきの後の回復。
これはイザヤ書やエレミヤ書でも同じでした。

さて、ユダヤ人が捕囚となって惨めな姿をあらわにしたとき、周辺の民はどのように反応したのか。ユダヤ人たちが誇りとしていた神殿が滅ぼされるのを見て、周辺の民は何を考えたのか。

冒頭の聖句のように、アンモンアモンは、「聖所の汚された時、またイスラエルの地の荒された時、またユダの家が捕え移された時、ああ、それはよい気味である」とあざけったのです。

そのあざけりはひどく手をうち、足を踏み、心に悪意を満たして喜んだのです(25・6)。ざま~見ろ!と言わんばかりに、大はしゃぎしたのです。

他者の失敗をあざ笑うのは、人の心の闇に潜む悪魔的な反応です。

詩篇でも冒頭から、「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人は幸いである」と戒めています(詩篇1・1)

神がイスラエル(ユダ)を厳しく取り扱われるのは、異邦人への訓戒とするためでもあります。イスラエルは神の民として選ばれましたから、祝福されるのも最初ですが、叱責されるのも彼らが最初です。

イスラエルは人類の中で長男のような立場です。あなたは、お兄ちゃんが叱られているのを見て、あざ笑う弟ですか。それとも、自分にも同じ過ちがないかと襟を正す弟ですか。

アンモンような弟になってはならない。ちなみに、アンモン人は、アブラハムの甥ロトの子孫です。まさに、弟分のような民であったのですが、神から叱責されるものでした。

このように周辺諸国にも厳しいさばきがもたらされるのですが、そこで終わらないのが慈愛に満ちた神です。「見よ、神の慈愛と峻厳とは」と言われるとおりです(ローマ11・22)。そんな彼らも、この厳しいさばきの後に、「主こそが神であることを知るようになる」とくり返し述べておられます。

自分(自国)だけ祝福されて、他者(他国)が滅びることを喜ぶのですか。他者がさばかれるのをほくそ笑むのですか。自分だけが厳しくされていると不満を言うのですか。いずれも、神の本当の愛を知らない人の反応です。神の慈愛と峻厳を知ろう。

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エゼキエル書 24章

2023年01月13日 | エゼキエル書
エゼキエル書 24章
そのさびとは、あなたの不潔な淫行である。わたしはあなたを清めようとしたが、あなたはあなたの不潔から清められようとしないから……
(24・13)


第24章の預言は、いよいよバビロン軍がエルサレムを包囲し、攻撃が開始された日に語られました(24・1)。厳しく悲惨な預言が続きます。

くり返し偶像礼拝の愚かさが記されていますが、それほどに、主への真実な礼拝が汚されることを、神は忌み嫌われるのです。主である神を後ろに投げ捨て、神ならぬ神々を拝むことは不潔な淫行と呼ばれています。 ※新改訳では「淫らな汚れ」、新共同訳では「不貞による汚れ」と翻訳。

神は、その汚れをきよめようと、何度も手を差し伸べてこられました。それが旧約の歴史でした。しかし「あなたはあなたの不潔から清められようとしない」と指摘されています。つまり「きよくなろう」と意志しなかったというのです。

意志することが重要です。

もちろん、人間の力や努力でできることはほんのわずかです。特に、罪に対しては、肉は何の役にも立ちません。でも、意志することは、〝私のやるべきこと〟です。

神は「あなたの前に祝福と呪いを置いた」と言われ、「あなたは祝福を選びなさい」と命じられています。神を信じたら自動的に祝福のベルトコンベアーに乗っているわけではありません。祝福を選ぶという意志が必要です。それは決断です。

神は、人間をロボットのように、決まり切ったことをする存在には創造なさっていません。私たち人間は、罪を犯さないようにプログラムされたロボットではありません。

また、神は、強制的に介入して、私たちが罪を犯さないようになさるのでもありません。私が「罪から離れよう」と意志することによって、神が助けてくださるわけです。「きよくなろう」と決断するので、神のきよさが私の中で満ちるのです。

丁度、私たちの意志とか決断は、神からのエネルギーが流れてくるためのスイッチのようです。神は、私たちを清くするために助けようとなさっているのですが、私たちがスイッチを〝ON〟にしないので、その力は流れてこないのです。

ですから、いつも、祝福の方向に意志しよう。ゆるそうと意志します。愛そうと決断します。祈ろう、聖書を読もう、礼拝に集おうと意志しなければ、神は、あなたを助けることができません。

自分にはできないけれど、神にはできるという信仰を持ちつつ、しっかりと意志しよう。

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エゼキエル書 23章

2023年01月12日 | エゼキエル書
エゼキエル書 23章
あなたはわたしを忘れ、わたしをあなたのうしろに捨て去ったゆえ……
(23・35)


偶像礼拝が霊的な姦淫であることは何度も取り上げてきました。本当の夫である神を礼拝せず、夫でもない偽物の神々(偶像)を拝むことは姦淫しているのと同じだと語られています。

この23章では、神に信頼せずに、他国の王を信頼することも、偶像礼拝同様に霊的姦淫としてえがかれています。本当の夫である神を信頼すべきなのに、世俗の王たちと契(ちぎ)りをかわし、彼らの保護の下に生きようとすることは、神からすれば不倫です。

このことは新約の時代になっても、キリスト教会がローマ帝国の国教となることによって、ローマ帝国の妻の立場に至ったことは同様の罪です。

さて、アホラ(オホラ)とはサマリヤのこと。サマリヤとは北イスラエル王国の首都でした。また、アホリバ(オホリバ)とはエルサレムのことで、南ユダ王国の首都です。 ※アホラ(オホラ)とは「天幕の女」の意味。神の社で売春をする女を表す言葉である。また、アホリバ(オホリバ)とは、「自分の内に天幕をもつ女」の意味。神殿娼婦の働きを内に持っている女である。両者とも霊的姦淫をする女として描かれている。

北イスラエルおよび南ユダは、神を信頼し、神によって成り立つ国であるはずが、アッシリヤ帝国やエジプト、バビロンと次々へと男を乗り換えるようにして淫乱を行いました。こうして、神の悲しみと怒りは頂点に達したのです。

確かに、神よりも信頼できそうに見えるものがあります。神より、それらを優先してしまう過ちも犯します。しかし、神こそ本当に信頼すべきお方であることを知って悔い改めるべきです。

ところが、南ユダは、今日の冒頭の聖句のように、信頼すべき神を、まるでゴミのようにポイッと〝うしろに〟投げ捨ててしまいました。このような神への態度があってはなりません。

同じ捨てるにも、前に向けて捨てる場合は少なからず迷いがあります。だから、たとえ捨てても、やっぱりやめておこうと拾い上げることもあります。

しかし、後ろに投げ捨てるとは躊躇(ちゅうちょ)なく捨てる行為です。捨てて振り向きもしない行為です。はたして、私たちの態度はいかがであろうか。

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エゼキエル書 22章

2023年01月11日 | エゼキエル書
エゼキエル書 22章
わたしはあなたがたを集め、わたしの怒りの火を、あなた方に吹きかける。あなた方はその中で溶ける。
(22・21)


エルサレムの滅亡預言が続きます。

「お前」「あなた」とはエルサレムの町のことです。聖なる都エルサレム。神が王として住まわれるはずの都エルサレムのことです。

それは、花婿であるキリストと結ばれるべく花嫁の町であるはずでした。しかし、この時のエルサレムは偶像礼拝と不品行によって堕落し、花嫁の姿からはほど遠い汚れた町となっていました。

まるで、金属を精錬するときに生じる「かなかす」と成り下がってしまったと指摘されました(22・18)。そこで神は、激しい御怒りを火のようにあらわし、それら「かなかす」を炉の中で溶かしてしまうのだと言われるのです(22・19~22)

神のさばきは、厳しさばかりが前面に出てしまいますが、もう一面では、火で精錬するようにして罪を取り除き、純金のような真実な民を得ようとなさる神のお取り扱いでもあります。

自動車エンジンに使われる鉄鋼材も、非常な高温の火の中で焼きます。一定の高温以上の火の中で焼かれることで、とても強い材質へと変化するからです。これを経ないと、燃焼機関であるエンジンはすぐに壊れるのです。同じ鉄でも、この火の処理をしたかどうかで材質が変化するわけです。

神は、私たちを火の中で精錬し、全く別な存在へと造り変えようとなさるのです。それは、さばきという火であったり、試練や困難という火の中を通過して、私たちの中にある不純物を焼きつくそうとなさるのです。こうして聖なる民を得るのです。

新約の教会に対しても同様なことが言えるでしょう。花婿なるキリストは、ご自分のいのちを与えるほどに花嫁なる教会を愛しておられます。だからこそ、キリストは教会をきよめるために、時には厳しく取り扱われます。それは、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためなのです(エペソ5・27)

ですから、神の厳しいお取り扱いの中にあっても失望してはなりません。まさに、私たちの信じるキリストは「聖霊と火によってバプテスマをお授けになるかた」なのですから……。

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エゼキエル書 21章

2023年01月10日 | エゼキエル書
エゼキエル書 21章
人の子よ、嘆け。心砕けるまでに嘆き、彼らの目の前でいたく嘆け。
(21・6)


エルサレム滅亡の預言が続きます。この知らせを聞いて嘆きなさいと命じられています。あまりにも壮絶な最期(さいご)を迎えることを知って、心が砕け散ってしまうほど嘆きなさい……と。 ※新改訳では「腰が砕けるほどに嘆け」と翻訳。立ち上がれないほどに嘆き落胆する様子をあらわしている。

ついに滅びの時が来ます。この滅びから、だれも逃れることができません。神は、剣を磨いて、この時に備えておられると言われています(21・9)

神は聖なる方であって、必ず罪をさばくお方です。罪に対しては容赦なさいません。この厳しさを知るとき、あの十字架のイエス・キリストに下された神の御怒りを理解できるのです。 ※ヤコブ書4章9節でも、「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」と命じているが、薄っぺらい喜びではなく、深い哀しみを経て得られる、分厚い喜びへと至ることを目指している。キリストが言われた「悲しんでいる者は幸いである」とはそういう意味である。

キリストが私たちに代わって、罪に対する激しいさばきと怒りを受けてくださらなければ、私たちはだれも、このさばきから逃れることはできません。

イエス・キリストの身代わりの十字架が無ければ、どんなにか恐ろしいことでしょう。それを知って、嘆く人は幸いです。自分の罪の重さを知って、心が砕け散るほど嘆く人は幸いです。

おのれの罪に嘆いて、恐れて、悲しんで……そしてついに、イエス・キリストの十字架にたどりつく人は幸いです。逆に、心底、おのれの罪に嘆いていない人は、十字架の恵みから簡単に離れてしまいます。

罪に嘆くとき、この十字架の幸いにたどりついてください。


エゼキエル書 20章

2023年01月09日 | エゼキエル書
エゼキエル書 20章
わたしはわたしの名のために行動した。
(20・9)


神は、ご自分の名を尊ばれます。それ故に、神はご自分の名のために行動したと告げています。

イスラエルの民が偶像礼拝によって堕落したときも、彼らを荒野で見捨てるようなことはしなかった……と。それは、自分の民を途中で投げ出してしまうような不徹底な神だと言われて、ご自分の名が汚されないようになさったのです。

私たち人間にもそれと似た感覚があります。自分の名を汚したくないと思います。どんなに貧しくても、盗みをしてまで得ようと思いません。自分の名を汚したくないからです。そして、時に、自分の名を汚さないために命さえ惜しみません。それは、人が神に似せて、神のかたちに創造された存在だからです。人間である私たちがそうなのですから、ましてや神は、なおさらご自分の名を尊ばれます。

だから、神は、たび重なるイスラエルの堕落に際しても慈愛を示し、ご自分の名を汚すようなことはなさいませんでした。しかし、この時におよんで、神はイスラエルを滅ぼすのだと語られています。

忍耐と慈愛をもって導かれた神が、ご自分の民を滅ぼされることで、神の名は地に落ちてしまうのでしょうか。いいえ、むしろ、ここに至るまでの歴史を知るなら、今度は、神の御名を汚さないために、民を滅ぼされるのだということが理解できます。

神は、ご自分の御名のために、まっすぐ進んで行かれます。この道は、右にも左にもぶれることがありません。神とはそのようなお方ですから、神を愛するとは、神の名を尊ぶことです。神を礼拝するとは、神の名を讃美することです。

天国とは、神の御名が置かれた所です。その名に礼拝をささげる所です。その名に仕え讃美し、その名に従う者たちが集う国です。そのような御国のために、神のご計画はまっすぐに進んでいます。

ですから、神の御名を汚し、辱(はずかし)めたイスラエルを神は滅ぼされます。しかし、そのような中から、悔い改めた者たちを選び出し、神の民を再生させようとなさっています。それが、バビロンによる試練の向こう側に用意されている計画です。 ※散らされた場所から民を集めると預言されている(20・41~42)

神は、ご自身の名のために動かれます。この方針は、永遠前から永遠後までぶれることなく、一貫しています。光のようにまっすぐ貫かれている神の意図です。

私たちも、この意図から外(はず)れてはなりません。

小さな自分の「自己実現」のために、イエスを信じているのではありません。イエスの御名があがめられるためです。天の者も地の者も、あらゆる者たちが、イエスは主であると告白し、イエスの御名にひざをかがめるためです。だから「主の祈り」でも、まず最初に祈るのが、「御名をあがめさせたまえ」です。

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エゼキエル書 19章

2023年01月07日 | エゼキエル書
エゼキエル書 19章
これは悲しみの歌、哀歌となった。
(19・14)


第19章はイスラエルの君(王)たちに向けた悲しみの歌です(19・1)。ここでは、王たちを獅子(ライオン)になぞらえています。

イスラエルの子孫から、その中のユダ族から、さらにはダビデ王家の子孫から、御国の王であるキリストが誕生するのだと預言されていることから、歴代の王たちは「獅子」にたとえられています。

しかし、神から選ばれた獅子は、獲物を食いちぎり、人を食べる獅子へと成り下がってしまった。堕落した王たちはエジプトへ、またバビロンへと引かれていったと語られています。

4節のエジプトへ引かれて行った獅子とはエホアハズ王のこと、9節のバビロンへ引かれて行った獅子とはエホヤキン王のことだと思われます。そして、1節の「母である雌獅子」とは、歴代の王を排出したダビデ王家のことです。

その「母」は豊かな神の恵みの川の流れのそばに植えられたぶどうの木のようであったのですが(19・10)、なぜ、かくまでも堕落したのか。その嘆きと悲しみの歌で預言はしめくくられています。

歴代の王たちは、何か立派なことがあるから、王であり続けたのではありません。それは、神の一方的な選びでした。ダビデの子孫からキリストを誕生させるという神の契約に、神が忠実であられるからです。

選びとは、偉そうにするためのものではありません。選びに応えうる謙遜と従順がなければ、高慢な選民意識だけが肥大します。自分の守るべき分をわきまえず、高慢になったサタンの失敗に学ぶべきです。

新約時代のクリスチャンたちはどうだろうか。このような哀歌を、神が語らなければならないような者になってはならない。

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