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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

エレミヤ書 22章

2022年10月27日 | エレミヤ書
エレミヤ書 22章
あなたが繁栄していた時に、わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『私は聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若い頃からのあなたの生き方だった。(22・21)
 
イスラエルの祖先はアブラハムです。「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」のです(ヘブル11・8)
 
こうして先祖アブラハムは、信仰によって大胆に旅立ったので、「信仰の父」と呼ばれました。その子イサクも、孫のヤコブ(後の名をイスラエル)も信仰の人でした。神は目に見えませんが、神の御言を信じ、御言に従順した人々でした。
 
このように、信仰とは、神の御言を聞き、神の御言に従順することです。
 
そんな偉大な信仰の家系はいつから、不従順の民となったのでしょうか。預言者を通して何度も語りかけられる神の御言に、民は耳を傾けず、御言を捨てる民となったなったのです。
 
エレミヤは堕落した民のことを、わたしの声に聞き従わないということ。これが若い頃からのあなたの生き方だったと指摘しています。 ※この預言はユダの王エホヤキムに語られたのだが、それは民の姿でもあった。
 
何ということでしょうか。神の御言に聞き従わないこと……これが、幼い頃からの習慣になっているというのです。「あなたの若いときに、あなたの創り主をおぼえよ」と主は言われます(伝道12・1)。幼い頃から、神をおぼえ、その御言に聞き従う習慣を養われた人は幸いです。
 
しかし、イスラエルの民はいつしか、御言に聞き従わないことが習慣になってしまったのです。
 
こんな事があってはなりません。どうぞ、お子さんたちに、幼い時から、御言に聞き従う習慣を身に付けさせてあげてください。そのためには、親である私たちがそうすることから始まります。
 
これは、子孫に残すべく最高の遺産です。
 
地上では「世界遺産」として、様々な史跡や街並みや自然を残そうと、人々は躍起です。それは、地上に国籍のある人々の活動です。
 
私たち天に国籍のある者が残すべき遺産は「信仰」です。神の御言を聞き、御言に従う信仰です。
 
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エレミヤ書 21章

2022年10月26日 | エレミヤ書
エレミヤ書 21章
見よ、わたしは命の道と死の道とをあなた方の前に置く(21・8)
 
いよいよバビロン軍が迫ってきました。「大丈夫だ。エルサレムは神の都。神殿のある町。神なる主がこの町を守られるのだ。徹底抗戦すべし」と息巻く人々が大勢を占める中エレミヤは告げました。
 
見よ、わたしは命の道と死の道とをあなた方の前に置く。この町にとどまる者は、剣と飢饉と疫病とで死ぬ。しかし、出て行って、あなた方を攻め囲んでいるカルデヤびとに降伏する者は死を免れ、その命は自分のぶんどり物となる(21・8~9)。 ※カルデヤ人とはバビロン軍のこと。
 
自分はクリスチャンなんだらか、きっとうまく行くんだ。対面する敵(困難)を主は打ち破られて劇的な勝利が……と、自分に都合の良いシナリオをえがいて、主はそうなさるのだと思いたいです。
 
もちろん、主は勝利の神です。万事を働かせて益となさる神です。だからといって、自分の思い描いた通りを主がなさるわけではありません。〝私の御心〟がなりますようにと祈るのではなく、〝神の御心〟を求めて祈るわけです。
 
エルサレムの人々は勘違いしていました。神の御心を無視して、自分の都合の良い神を信じていました。というか、信じたかったのです。「日本は神国だから、最後には神風が吹いて逆転勝利するのだ」と都合良く信じていた時代に似ています。
 
冒頭の聖句のように、神はいのちの道と死の道を置いたと言われます。もちろん、いのちの道を選ぶようにと願っておられます。
 
しかし、いのちの道とはバビロンに降伏するという道でした。「籠城して徹底抗戦すべし」と鼻息の荒い人々にとっては屈辱的な道でした。彼らには狭い門」「細い道でした。
 
主イエスも言われました。狭い門から入りなさい。いのちに至る門は狭く、その道は細いのだと。
 
しかし、滅びに至る門は広く開いています。どうぞいらっしゃい!と歓迎するかのように開いていて、そこから入って行く人は多いのです。狭い門はだれも嫌です。入りやすい広い門から入りたいのです。
 
自己主張の道と自己正義の道は、多くの人々が選ぶ「広い門」「広い道」です。そうすることによって自分の面目が立つからです。自分の肉なるプライドが傷つかなくてすむからです。
 
こうして自分のいのちを自分で得たかのようですが、かえって、本当のいのち ――霊的ないのち―― を失うことになります。自分で自分のいのちを救おうと思う者はそれを失うと主が言われたとおりです。
 
しかし、自分のいのちを捨てる者は、結果的にいのちを得るのです。つまり、自分のいのちを捨てるようにして、バビロンに、降伏するなら、その者は死を免れ、そのいのちは自分の分捕り物となると言われるわけです(21・9)
 
自分の思い通りになることを期待していると、神の御心は屈辱と感じることがあります。それは、肉なる自我(自分中心)の死を意味するからです。
 
しかし、本当のいのちを得るためには、この自分中心の死を経なければなりません。それゆえ、それは狭い門であり細い道なのです。
 
広い道の方が歩きやすいようにも思えます。そこで「これもあれも」と道の右と左の範囲を広げます。どんどん広げて、ついには、道なのかグランドなのか分からなくなってしまいます。道を進んでいるつもりが、道の右端から左端に横断しただけということにもなりかねません。
 
道とは右端と左端があるので道です。一定の幅があるのです。しかし、その幅が広すぎると迷います。狭いということは確かな道です。
 
主イエスはわたしは道ですと言われましたイエス様も信じるけど他の神々もとか、イエス様の祝福も欲しいけどこの世の栄華や富も欲しいと、あれこれと道幅を広げしまうのではなく、主イエスにしっかりと焦点を合わせて進むことにしよう。
 
その道は狭く細いですが、確実に天国に通じる道だからです。
 
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エレミヤ書 20章

2022年10月25日 | エレミヤ書
エレミヤ書 20章
私が「主のことは、重ねて言わない、この上その名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉が私の心にあって、燃える火の、わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。(20・9)
 
エレミヤは神のさばきと悔い改めを語った預言者でした。しかし、人々は耳を傾けようとはしませんでした。いつの時代も、人々は心地よい言葉を聞きたいと願うからです。
 
そんなエレミヤを疎(うと)ましく思う人々は、ついに彼を捕縛し足かせにつなぎ止めました。
 
その首謀者は祭司長のパシュル(パシュフル)でした。彼の名は「周囲は安全」という意味でしたが、エレミヤはパシュルに向かって「あなたの名は〝周囲は恐れ〟と呼ばれるようになる」と指摘しました(20・3)
 
さらにエレミヤは、バビロン捕囚について具体的に語り始めました。エルサレムは滅ぼされ、すべてがバビロンによって持ち去られる。パシュル自身もそうなるのだ……と(4~6)
 
このような預言を語ることは勇気のいることです。語れば語るほど、人々から嫌われ、あざけられるのですから。だから、エレミヤはもはや預言を語るまいと決心したこともあったようです。しかし、語らないでいると、彼の内側に燃える火を閉じ込めているようで、それもまた苦しいのです。
 
私たちクリスチャンも神からの御言を預かっているものです。「神は御子を十字架につけて罪を赦(ゆる)してくださった」「この福音を受け入れて救われよ」「終わりの日、悔い改めなき者を神は滅ぼされるのだ」。
 
私たちはこの御言(福音)を語らないでいると、内側に燃える火のような苦しみを持ちます。でも、語ることも恥ずかしいし、馬鹿にされる事もあります。嫌われたりもします。しかし、聖霊なる神は語る勇気をくださいます。「何をどう語ろうかと心配するな。語る言葉は天の父の霊(聖霊)がお与えになるのだ」と主は約束されました。
 
神の御言を語ることによって、はずかしめを受けることがあるでしょう。小馬鹿にされたり、時には迫害すら受けるでしょう。しかし、それは私たちが負うべき十字架です。主イエスは「おのれの十字架を背負って従え」と言われました。エレミヤも、そんな十字架を背負った預言者でした。十字架を負う者に祝福が豊かにありますように祈ります。
 
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エレミヤ書 19章

2022年10月24日 | エレミヤ書
エレミヤ書 19章
彼らが強情で、わたしの言葉に聞き従おうとしないからである。(19・15)
 
先の18章では、神はエレミヤを陶器師の家に行かせ、陶器師の手の中で器が壊され、再び形づくらせる所を見させました。神は、イスラエルの人々をそのように取り扱われるのです。
 
そして19章では、その陶器師から陶器の壺(瓶)を買って、エルサレムの南側にあるベンヒンノムの谷に行けと、主は命じられました。そして、そこに行って、その壺を砕いてしまいなさいと。
 
それは、やがてエルサレムの町とその民に臨まんとする破滅を預言するものでした。
 
陶器はろくろで製作中であれば作り直すことができますが、いったん焼き上げたものは、そうは行きません。駄目なものは破壊してしまいます。柔らかい時に悔い改めるべきですが、柔らかさを失い、焼き上がってしまうなら、神のさばきは決定的なものになってしまうのだと語られたわけです。
 
エレミヤが壺を破壊したベンヒンノムの谷には、トペテ(トフェテ)という小高い場所がありました。そこでは、人々が異教の忌むべき習慣を取り入れ、幼児犠牲を偶像の神々にささげたとされる場所です。
 
まさに、そのような忌むべき場所で、陶器は木っ端微塵に砕かれました。悔い改めのない強情な民は、この谷で滅ぼされ、投げ込まれることを預言しています。民の心は柔らかさを失い、強情でうなじの固い陶器に焼き上がってしまったのです。
 
悔い改めることのできる柔らかい心を用意しよう。神は、悔いし砕けし霊魂をを喜ばれるのです。
 
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エレミヤ書 18章

2022年10月22日 | エレミヤ書
エレミヤ書 18章
主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなた方にできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなた方はわたしの手の内にある。(18・6)
 
神はエレミヤに「陶器師の家に行け」と命じられました。行ってみると、陶器師はろくろを回しながら器を作っていました。しかし、目指す形にならなかったので、彼はそれを壊し、作り直したのです。その時に主が語られたのが冒頭の御言です。
 
神である主は、陶器師のようにイスラエルを扱われます。この民を尊い器に形づくろうと、手塩にかけて民を養ってこられたのです。しかし、民は神を否定し、偶像を拝む器へと堕落してしまいました。
 
だから、神は、それを壊してもう一度練り直し、造り変えるのだと言われるのです。バビロンによる破壊と捕囚は、陶器を壊し練り直すようにして、民を造り変えようという神の取り扱いです。
 
エレミヤ書が語るさばきは、単なる滅びではなく再生です。そこに神の目指される所があります。
 
新約の私たちにも、このような神のお取り扱いがあります。試練や困難、挫折などを通して、神は、私たちの固い自我の殻を打ち砕いて、「新しい人」へと造り変えてくださいます。
 
「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者」だからです(Ⅱコリ5・17)
 
神は、私たちを粘土のように練り直されます。それは痛みのともなう出来事であったり、挫折や困難であったりもします。しかし、そのような死を経ていのちに至るのは神の法則です。
 
イエス様も十字架の死を経て復活のいのちへと至られたように、十字架を背負ってイエスに従う者たちも、イエスの死をこの身に負いつつ、イエスのいのちが現れるようになさいます(Ⅱコリ4・10)
 
陶器師である主の御手の内にあることを感謝しよう。陶器師である主は、私たちを砕き、造り変えて、御子イエス・キリストと同じかたちに造り変えようとなさるからです。だから、感謝して歌おう。
 
「主の御手で造り変え、イエスの姿となしたまえ。
主は陶器師、われは土塊。
イエスの如くなしたまえ。」(リビングプレイズ 37番)
 
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エレミヤ書 17章

2022年10月21日 | エレミヤ書
エレミヤ書 17
ユダの罪は、鉄の筆、金剛石のとがりをもってしるされ、彼らの心の碑と、祭壇の角に彫りつけられている。(17・1)
 
「ユダ」とは南ユダ王国の人々のことです。 ※北イスラエル王国にはイスラエルの大半の部族が属しため、彼らのことを総じて「イスラエル」と呼び、南王国は、ユダ族とベニヤミン族から成っていたため、「ユダ」と呼ばれた。
 
さて、南ユダの罪は非常に根深いものでした。
 
鉛筆で書いたものなら消しゴムで簡単に消すことができます。しかし、彼らが積み重ねた罪は、消しゴムで消せるような罪ではありません。何と鉄の筆で、尖った金剛石で刻まれるようにして、深く彫り込まれていました。
 
こんなに根深い罪であるため、彼らの心はゆがみ、かたくなになっていました。
 
そのことを、心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようかと述べています(17・9)
 
新改訳では人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができようと翻訳。もう、どうしようもないというのです。
 
また、彼らは聞かず、耳も傾けず、うなじのこわい者となって聞こうとせず、懲らしめを受けなかったとも言われています(17・23 新改訳)
 
「うなじ」とは首筋のことです。「こわい」とは硬い状態のことです。赤飯のことを「おこわ」と言いますが、それは硬めのご飯を意味しているように、「こわい」とは「かたい」という意味です。つまり、首筋のかたい民だというのです。
 
馬などを御するとき、うなじがかたいと、手綱(たづな)を引いても首を曲げないため、思うように進みません。転じて「うなじがこわい」とは「強情」「頑固」を意味するわけです。
 
まさに、ユダの人々は「うなじのこわい民」であって、神が悔い改めに導こうとなさっているのに、それに応じない。祝福へ向かわせようと手綱を引かれるのに、その顔は滅びに向かおうとする。そんな強情な民だと言われます。
 
この民だけでなく、私たち自身にもこの「強情」は流れています。それは、罪が鉄筆で刻まれるようにして、心に刻み込まれているからです。
 
そうなったのは、エデンの園において、アダムが神の御言を捨てて悪魔の言葉に従った時からです。
 
「それを食べても ――〝善悪果を食べたら死ぬ〟という神の御言を捨てても―― あなたは死なない」という悪魔の言葉が、人類の心に鉄筆で刻まれています。だから、神の御言に従わなくても、人間は生きて行けるんだと高をくくっています。
 
また、それを食べたら神のようになれるという悪魔の言葉が、人類の心に鉄筆で刻まれています。そして、人類は自分を神とし、神のようにふるまい、自己正義の世界に閉じ込もっています。
 
しかし、そんな鉄筆や金剛石で刻まれた罪を消し去り、神の御言を御霊によって心に刻み込む時代がやってくるのだと、エレミヤは預言するのです。それは新しい契約によって成就します。 ※新しい契約の預言はエレミヤ書の後半で述べられる。
 
イエスを信じる人々の心に、聖霊によって神の御言が刻まれるのです。まるで〝神の指〟で刻まれるようにです。 ※律法は〝神の指〟によって石板に刻まれたように、新約にいたって、福音が聖霊によって刻まれる。
 
祈りましょう。聖霊なる神様、今日も神の御言を私の心に書き記してくださり、それが私の考えとなり、生き方となり、人格と成りますように。
 
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エレミヤ書 16章

2022年10月20日 | エレミヤ書
エレミヤ書 16章
主は仰せられる、それはあなた方の先祖がわたしを捨てて他の神々に従い、これに仕え、これを拝し、またわたしを捨て、わたしの律法を守らなかったからである。(16・11)
 
神の御怒りは本気でした。おどしではありませんでした。
 
主がエレミヤに「妻をめとるな。娘や息子を持つな」と命じられたのは、やがて来たらんとするさばきがあまりにも厳しいがゆえに、妻子があることを悔いるようになるからでした(16・1~9)
 
このような厳しいさばきを下さなければならない理由が、11~13節で述べられています。それは、民が主を捨てたからだと言われます。
 
創造主である神に仕えることこそ、被造者としての本分であるにもかかわらず、人間の方から「主を捨てる」などとは……。あり得ないことです。しかし、そのあり得ないことを人間はしているのです。
 
「主を捨てる」とは主の御言を捨てることです。
 
はじめのアダムは、「善悪を知る木から取って食べてはならない」と言われた神の御言を、悪魔の誘惑に負けて捨ててしまいました。アダムは神の御言を捨て、「食べても死なない。神のようになれるのだ」という悪魔の言葉を受けたのです。
 
また、初代イスラエルの王サウルも、主の言葉を捨てた者でした。「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」のです(サムエル上15・23)
 
この主の御言を捨てるという罪は、アダム以来、人類の中に連綿と続いています。
 
私たちはそうであってはなりません。新約時代のクリスチャンは、主の御言そのものであるイエス・キリストを受け入れた者です。その御言は、聖霊によって心の板に書き記されています。
 
私たちの内に住まわれる聖霊なる神の絶対的な助けをいただいて、神の御言をサタンに奪われることがないようにしよう。
 
様々な試練の中で、肉のプライドを捨てなければならないこともあるでしょう。名誉や地位を失うこともあるでしょう。富を捨てなければならないこともあります。しかし、御言だけは絶対に、捨ててはならないのです。
 
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エレミヤ書 15章

2022年10月19日 | エレミヤ書
エレミヤ書 15章
もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする。(15・19 新共同訳)
 
先の14章では、エレミヤは神に食い下がって民の救いのために祈ったのですが、神はその求めをお受けになりませんでした。主の返答は厳しいものでした。
 
「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい。」(15・1)
 
モーセもサムエルも旧約時代の偉大なリーダーたちです。そんな最高の執り成し手が求めても、「わたしは民を顧みない」と主は言われたのです。それほどに、民の罪は積み重なっていたのです。
 
そればかりか、日に日に、エレミヤに対する民衆からの風当たりは激しさを増すばかりでした。彼は次のように嘆いています。
 
「ああ、私はわざわいだ。わが母よ、あなたは、なぜ、私を産んだのか。全国の人は私と争い、私を攻める。私は人に貸したこともなく、人に借りたこともないのに、みな私を呪う。」(15・10)
 
エレミヤは神のさばきによるエルサレム滅亡を預言したので、民からは嫌われ、全国民を敵にまわすことになってしまったのです。そんな状況下で、エレミヤは確信を失いかけていたようです。ですから、主はエレミヤを励まし、呼びかけておられます。
 
もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたのところに帰ってくる。しかし、あなたが彼らのところに帰るのではない。(15・19)
 
預言者としての召しを確かにせよと、主は語っておられるわけです。
 
「民は分かってくれない」とか「こんな事なら預言者にならなければよかった」とか。そんなつまらない事を言うのをやめて、神の御言を大胆に語れと主は言われるのです。そうするなら「わたしは、あなたを〝わたしの口〟とするのだ」と言われます。
 
神の御言を伝えることは困難をともないます。人々からの反感を買うことにもなります。ですから、あきらめ気味になります。かくいう私もそれに似た失望感に襲われることがあります。
 
しかし、エレミヤを励まされた主は、新約のクリスチャンをも励ましておられます。この私が「主の口」として用いられるよう、もう一度ささげ、祈ろうではありませんか。
 
そのように求める時、エレミヤの告白は真実なものとなってきます。私はみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、私に喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、私は、あなたの名をもってとなえられている者です。(15・6)
 
どうか、私の口から軽率な言葉ではなく、空しい言葉でもなく、主の尊い御言を語ることができますよう、主よ用いてください。
 
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エレミヤ書 14章

2022年10月18日 | エレミヤ書
エレミヤ書 14章
私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。(14・22)
 
エレミヤは神の御言を取り次ぐだけの預言者ではありませんでした。人々のために執り成しの祈りをささげた預言者でした。そういう意味で、預言者と祭司職をあわせもった人物です。今日の14章はそんなエレミヤの姿が描かれています。
 
当時、ひどい日照りがあったようです。ユダの地は喪に服すように打ちしおれていました(14・1~6)。そこで、エレミヤは民に代わって悔い改めと哀れみを求めて祈りをささげました(7~9)
 
エレミヤはユダの人々から迫害されながらも、民の窮地に至っては民のために祈るのです。悪に対して善をもって応える……。そんなエレミヤの姿に、イエス・キリストの姿を見ることができます。
 
このような祈りに対して神は……、
 
「この民のために幸いを祈ってはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす」と言われるのです(14・11~12)
 
しかし、エレミヤはなおも食い下がります。「ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなた方は剣を見ず、ききんもあなた方に起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなた方に与える』と人々に言っているではありませんか」と(14・13)
 
この「預言者たち」とは、エレミヤとは別の預言者たちのことです。彼らも神の御告げを人々に語っていたのですが、その内容は民衆の受けの良いことばかりでした。「ユダの国は滅びることはない」「飢饉は起こらない」「平安に過ごすが良い」と。
 
しかし、そんな預言者たちを派遣した覚えなどないと、主は言われます。彼らは偽りの預言をしているのだと……。
 
このように、偽預言者が大手を振って偽りを語り、神の御言を覆い隠す時代だったのです。今の時代もそうです。飲めや喰えやと世俗の情報は氾濫し、まるで、神の御言を覆い隠すかのようです。
 
そのような偽りの時代の中で、エレミヤはなおも民のために執り成しの祈りをささげます。
 
あなたはユダを全く退けたのですか。あなたはシオンをきらわれたのですか。なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、なんと、恐怖しかありません。(14・19)
 
私たちも、エレミヤに続く者でなければなりません。なおも食い下がって、神に祈ろうではありませんか。神は必ず、民の目を開き、悔い改めへと導かれることを信頼して祈ろう。
私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。(14・22) 
 
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エレミヤ書 13章

2022年10月17日 | エレミヤ書
エレミヤ書 13章
ああ。エルサレムよ。あなたはいつまでたっても、きよめられないのか。(13・27)
 
エレミヤは神からひとつの命令を受けました。それは行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはならないというものでした(13・1)。行動そのものが預言です。
 
亜麻布の帯はイスラエル(ユダヤ人)のことです。「亜麻布」とは祭司職が身に付ける布であって、イスラエルは人類のために神に執り成す祭司として召された民です。その帯を「水に浸してはならない」とは、「洗ってはならない※」という意味です。 つまり、イスラエルの民は祭司職として召されたにもかかわらず、罪によって汚れてしまったことを意味しています。 ※新共同訳参照
 
次に神はエレミヤに、あなたが買って腰に着けているその帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せと命じ(13・4)、多くの日を経てのち、もう一度行ってそれを取って来いと命じられました。すると、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていました(6~7)
 
ユーフラテス川とはバビロン地方の川です。人類のための祭司として召されていたイスラエル(南ユダの民)は、神の腰に結ばれることを喜びとせず、偶像礼者となって汚れた今は、バビロンに捕囚として連れて行かれるという預言です。
 
民の状態は、腐って使い物にならなくなった帯のようだと、神は言われるのです。
 
祭司の帯として神と結び付けられていてこそ、その使命をはたすことができるのに、その持ち場を離れ、そのおるべき所を捨て去ったが為に「腐った帯」となりました。
 
自分のおるべき所とは何でしょうか。新約の民は祭司です。人々の救いのために執り成し、証しするために召された者たちです。どうか、その持ち場をまっとうできますように祈ります。この使命をはたすことが、祭司の帯として神の腰に結びつく方法です。そこを離れて「腐った帯」になってはなりません。
 
神に結びつくことをやめたイスラエルですが、それでも神は、イスラエルの回復を願っておられます。13章の最後にああ、エルサレムよ。あなたはいつまでたっても、きよめられないのかと嘆かれる神の姿に、回復の願いが込められています。
 
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エレミヤ書 12章

2022年10月15日 | エレミヤ書
エレミヤ書 12章
わたしは、彼らを抜き出したのちに、また彼らをあわれんで、それぞれその嗣業に導き返し、おのおのを、その地に帰らせる。(12・15) 
 
預言者エレミヤはアナトテの出身です。しかし、故郷アナトテの人々からは、いのちをねらわれていました。先の11章で記されています。
 
「それゆえ主はアナトテの人々についてこう言われる、彼らはあなたの命を取ろうと求めて言う、『主の名によって預言してはならない。それをするならば、あなたは我々の手にかかって死ぬであろう』。」(11・21)
 
最も応援してほしいはずの故郷からの仕打ちは、エレミヤにとって悲しみとなりました。
 
神の御言は、私たちの闇の部分にするどい刃物のように、光を差し込んできます。だから、時には、反発や怒りの反応も出てきます。そのため、エレミヤは預言者として召されたばかりに、人々から憎まれることになったわけです。
 
エレミヤはその現状を神に訴えました(12・1~4)。しかし、神からの応えはこうでした。
 
もしあなたが、徒歩の人と競争して疲れるなら、どうして騎馬の人と競うことができようか。もし安全な地で、あなたが倒れるなら、ヨルダンの密林では、どうするつもりか。(12・5)
 
つまり、今、故郷アナトテの人々から迫害されることは、徒歩の人と競争しているような状況だ。それで疲れているくらいなら、この後、騎馬の人のような敵軍の侵略に耐えられるのか……と。また、現状は安全な地で倒れる程度のことだ。ましててや、これから起こるヨルダンの密林のような現状に、――具体的にはバビロン軍の攻撃と捕囚のこと―― あなたはどう対処するつもりかと、神はエレミヤを叱咤激励なさっているわけです。
 
預言者は、時に神の厳しい言葉を告げなければなりません。人々は、自分に都合の良い言葉を聞きたがります。かたや、エレミヤは人々の罪を指摘し悔い改めよと語りました。そのことが、人々の反感を買ったわけです。
 
預言者とは故郷では歓迎されないものだと語られたイエス様も同じでした。神の民であるユダヤ民族からは迫害を受たイエスは「わたしには枕するところがない」と言われました。
 
エレミヤの姿は、やがて来られるキリストの御苦しみを体現しているかのようです。こうして、エレミヤは故郷から追われ、孤独な預言者として神の示す道を歩むことになります。
 
神の真実な呼びかけに対して、迫害をもって応える同族の民にやるせない憤りを覚えますが、そのような民に対しても、神のご計画は、なおも哀れみと慈しみに富んでいます。
 
今日の冒頭の御言のように、わたしは、彼らを抜き出したのちに、また彼らをあわれんで、それぞれその嗣業(しぎょう)(相続地)に導き返し、おのおのを、その地に帰らせるのです。
 
やがて来たらんとするバビロン捕囚によって、彼らは根こそぎ、この嗣業の地から抜き取られますが、やがて、試練を通してきよめられた民は、この地に導き返されるというのです。
約束の地に導き返す」。これが神の御心です。
 
今は、試練の中にあっても、つまずきと悲しみの中にあっても、それを通して、神はきよめ、整え、悔いし砕けし魂となって戻るようになさるのです。あなたはいま、〝バビロン〟で苦渋を味わっているかも知れません。でも、神の計画は約束の地に導き返すことです。忘れないでください。
 
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エレミヤ書 11章

2022年10月14日 | エレミヤ書
エレミヤ書 11章
わたしは、あなた方の先祖をエジプトの地から導き出した時から今日にいたるまで、おごそかに彼らを戒め、絶えず戒めて、わたしの声に聞き従うようにと言った。(11・7) 
 
神は思いつきでなさるお方ではありません。また、気の向くまま変更なさる方でもありません。筋の通ったご計画をお持ちで、光のようにまっすぐに御言を実行なさる方です。その証しとして、神は、契約を立てられます。聖書の神は契約の神です。
 
アダムにも、ノアにも、アブラハムにも、そして、アブラハムの子孫であるイスラエルの民に対しても、神は契約をお立てになりました。そして、終わりの時代にいたって、イエス・キリストを通して新しい契約をお立てになりました。
 
さて、第11章で述べられている「契約」とは、イスラエルの民がエジプトから導き出されて荒野を旅したとき、シナイ山のふもとでお立てになった契約のことです。「シナイ契約」とも呼ばれています。
 
神は、契約 ――神の御言―― を破られません。私たち人間が忘れてしまっても、神は、ご自身の契約を絶対にお忘れになりません。
 
ですから、イスラエルの民(11章の場合、正確には南ユダの人々)に、かつての契約を思い出し、それを守るようにと語られています。
 
この時の契約の内容は、いわゆる十戒です。
 
①主なる神を他にして何ものをも神としてはならない。
②神を見える像に作ってはならない(偶像の禁止)。
③神の御名をみだりにとなえてはならない(神の御名を汚すな)。
④安息日をおぼえて聖とせよ。
⑤父母を敬え。
⑥殺してはならない。
⑦姦淫してはならない。
⑧盗んではならない。
⑨偽りの証言をしてはならない。
⑩隣人のものを欲しがってはならない。
 
………以上の10項目です。
 
どうですか。神は無茶なことをおっしゃっていますか。これを守ることができたら、人間は幸せになれるはずです。人間として基本的なことです。そして、これを守る者には、大いなる祝福があるのだと約束されています。
 
「あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、この諸々の祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。――中略―― あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう」(申命記28・2~6)
 
しかし、これに聞き従わないなら……
 
「あなたの神、主の声に聞き従わず、今日、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、この諸々の呪いがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう」(同28・15~)
 
それでも悔い改めないなら……
 
「主は地のこの果てから、かの果てまでの諸々の民の内にあなた方を散らされるであろう。――中略―― 主はその所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を打ちしおれさせられるであろう」(同28・64~68)
 
まさに、バビロン捕囚を想起させることまでも預言されています。しかし、民を見捨てて終わりではありません。それによって悔い改めるなら……と、契約は続きます。
 
「あなたを哀れみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。たといあなたが天の果てに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。主はまたあなたを栄えさせ、数を増して先祖たちよりも多くされるであろう。」(同30・3~5)
 
この契約どおりに、神は、バビロンから民を連れ戻されました。また、20世紀になって再び、神は世界の果てからユダヤ人たちを連れ戻されており、それは今も続いています。
 
神の契約の確かなことの証しです。この契約を思い出して、これを行えと神は言われるのですが、当時の人々は心をかたくなにして従いませんでした。
 
そこで、神は、この契約を超えた、新しい契約をお立てになると預言しているのが「エレミヤ書」です。後半になってその記事が登場します。期待しつつ読み進めてください。
 
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エレミヤ書 10章

2022年10月13日 | エレミヤ書
エレミヤ書 10章
異邦人の道を見習うな。(10・2)
 
「異邦人の道」とは何でしょうか。それは神ならぬ神を拝む偶像礼拝のことです。それは空しい習わしです。なぜなら……
 
彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、木工の手で、おのをもって造ったものであり、人間が銀や金をもって、それを飾り、くぎと鎚をもって動かないようにそれをとめるからです(10・3~4)
 
その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、ものを言うことができない。歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない。それを恐れるに及ばない。それは災をくだすことができず、また幸をくだす力もないのです(10・5)
 
本当の神を知らない人々は、人間の手で作った神々を崇拝しています。本当の神とは〝人間が〟作った神ではなく、〝人間を〟創造された神です。
 
本当の神を知らない異邦人はまだしも、神の民であるイスラエルが、このような異邦人の道を見習うとは、何ということでしょうか。「私はそんな愚かなことはしない」と言えるでしょうか。
 
しかし、肉の感覚で神を求めるなら偶像礼拝の道に倣(なら)ってしまいます。
 
「肉の感覚」とは、神を肉眼で見たい、この手でさわりたい……つまり、肉の感覚で神を確認したいという欲求です。そして、この目が、この手が確認できるものこそ確かなものだという感覚です。
 
では、肉の感覚は正確なのか。
 
私たちの肉眼は、光の波長とか種類からすれば、ほんのわずかの範囲の波長しかキャッチできません。肉眼で見えているのは狭い範囲です。つまり、小さな覗き穴から見ているようなものです。
 
肉眼では捕らえきれない広い世界……つまり、霊的な世界があります。天国のことであり、御言の世界です。それは、きっと、私たちの肉体が朽ちて肉の限界から解き放たれた時はっきりと認識できるでしょう。
 
また、この肉の手の感覚は正確ですか。この肉の手は確かなものをつかむことができていますか。朽ちないものをつかんでいますか。
 
金銭をつかんだようでも、それは朽ちてしまいます。「目に見えるもの」は、目に見えないものの「影」にすぎません。影をつかんでも、それは何もつかんでいません。肉の手がつかんだものは、天国に持って行くことができないのです。
 
しかし、私たちの霊魂でつかんだもの……それは「影」ではなく「本質」です。「神の約束(御言)」「永遠のいのち」「神の祝福」「御霊の実」……これらは霊魂がつかみます。そして、天国に持って行くことができます。
 
これらのものは、肉の目で見たり、肉の手でつかむことができませんが、永遠に存続するものです。だから、私たちは目に見えるものにではなく、目に見えないものに目を注ぎます。
 
しかし残念ながら、人はアダム以来、罪をおかし、神に背を向けるようになって、霊の感覚よりも肉の感覚で生きるようになりました。だから、肉の感覚で神を求め、偶像礼拝へと傾斜して行くわけです。
 
そこで、神は、新約の時代にいたって、御霊(聖霊)が私たちの内に住まわれるようにしてくださいました。聖霊に頼ってください。聖霊が私たちの内に与えてくださる、霊の感覚を見失わないでください。
 
この「霊の感覚」に目覚めていないと、異邦人の道にならってしまいます。「目を覚ましていなさい」と命じられる理由はここにあります。さあ、目を覚ましていよう。異邦人のようにではなく、天国人として生きるために。
 
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エレミヤ書 9章

2022年10月12日 | エレミヤ書
エレミヤ書 9章
誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる。(9・24)
 
エレミヤは、神の御怒りとさばきを預言しつつも、民の罪の重さに痛み、苦しみ、涙しています。
 
「ああ、私の頭が水となり、私の目が涙の泉となればよいのに。そうすれば、私は民の娘の殺された者のために、昼も夜も嘆くことができる」(9・1)。 ※新共同訳では8章23節。以下、章節がずれるので注意。
 
預言者エレミヤの心情は、神を拒絶したエルサレムの町のために涙されたイエス・キリストにも通じるものがあります。神の御怒りによる滅亡のことばかりに注目するのではなく、悲しんで涙される神の御姿を忘れてはなりません。
 
さて、そのような神の悲しみをよそに、人々は真実ではなく偽りをもって応えるのです。「主を畏れることこそ、知恵のはじめである」と言われた先人の知恵を投げ捨てて、自分たちこそ知者だと宣言し、強さと富を誇ったのです。
 
しかし、自分の正しさを誇る者は、やがて赤面します。自分の強さを誇る者は、やがて脆(もろ)くも崩れ去る人生に顔面蒼白になります。富を誇る者は、やがてその富が、自分を奴隷のようにこき使う偽りの主人であると知って欺かれます。
 
誇る者は、まことの神である主を知っていることを誇るべきです。このお方こそ、本当の「主」であり、「慈しみ」と「公平」と「正義」をもってご支配なさる方だからです。
 
9章26節にも心の割礼が語られていますが、右記のような神である主を知ることこそ、心の割礼です。「自分を誇る」「富を誇る」「地上の地位や繁栄を誇る」といった心の包皮が切り取られ、人の本分である〝神を愛する心〟が露わになることです。それは、新約の時代にいたって、御霊である神が、私たちの心を取り扱われることによって実現します。
 

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エレミヤ書 8章

2022年10月11日 | エレミヤ書
エレミヤ書 8章
倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。(8・4)
 
罪を重ね続ける民に対して、滅びが迫っているのだと預言されています。それはバビロンによる攻撃と破壊を意味していました。それはあまりにも激しくて、民は「生きることよりも死ぬことを願うようになる」と言うのです(8・3)
 
神は、民が憎くてそうなさっているのではありません。神の御怒りにはいつも悔い改めて立ち帰れというメッセージが込められていることを忘れてはなりません。
 
いつも、回復の余地を残しておられるのです。救いの道は必ずあるのです。
 
6章で見たように、滅びといのちの二つの道を用意しておられるのであり、神はいのちを選べと命じられるのです。
 
この8章でも、人は倒れたら起き上がるではないか。そのように、罪によって倒れたとしても、そこから起き上がりなさいと言われるのです。
 
蹴つまずいた子どもに、手を差し伸べ、大丈夫か!さあ、立ち上がりなさいと声をかけるようにして、神は呼びかけておられます。つまずきの中にあっても、神は、私たちをお見捨てになっていません。
 
さらに、背信者となったら、悔い改めるではないかと呼びかけておられます。一時は離れても、帰って来るではないかと……。
 
つまり、神は、人が罪をおかし、神に背を向けることを責め続けておられるのではなく、その先にある「悔い改め」を求めておられるのです。つまずきの先にある「立ち帰り」を期待なさっているのです。
 
ここまで手を差し伸べてくださっているにもかかわらず、残念なことに、人は、そのチャンスを逃してしまっています。
 
空のコウノトリでもその時を知り、山鳩と燕(つばめ)と鶴はその来る時を守る。しかし、わが民は主のおきてを知らない。(8・7)
 
渡り鳥は帰る時を知っています。帰る場所も知っています。何と不思議な能力でしょうか。
 
動物たちでさえそうなのに、どうして人間は「今こそ悔い改めるチャンス」だと分からないのでしょうか。どうして、「この時こそ神に立ち帰る機会」だと悟らないのでしょうか。
 
今はどんな時ですか。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」と御言は告げています(Ⅱコリ6・2)。このことを悟り得なかったイスラエルは、うなじの固い、強情な民となってしまいました。私たちの心がそのようにならないようにと、切に祈るものです。
 
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